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旅するPowerBook

5 ; サイボーグPB180c


 サイボーグ。おそらく多くの日本人が、その言葉を、石森章太郎(後、石ノ森章太郎)の『サイボーグ009』で知ったはずだ。ついでに私の場合は、彼らにつけられた番号で、ワンからナインまで、数字の英語読みを知った。
 私はサイボーグになってまでも生きたいとは思わない。頭だけ生身で他は機械。頭と胴体は生身で手足は機械。機械にすることで、本来なら発揮できないような能力を身につける。そうしたこと自体は科学の発達で、やがて可能になるだろう。しかし、この言い方が身体障害者の方々に失礼でなければいいのだが、いや、失礼かもという想像がおかしいかもしれないのだが、私はそのように自らを機械化してまで生きたいとは思わない。歯を入れ歯にする。眼鏡をかける。補聴器をつける。そのようなこと自体、すでにサイボーグ化への道だとわかっていながら、自分を機械にすることには抵抗がある。理由? わからない。自分以外のものなら、たとえ機械でも生かしたいと思うくせに。そう、まさにPowerBookという機械を、延命のために形を変えて、なお、愛でているくせに。自分だけは嫌? わけがわかならない。手の一本も失えば、義手をつけ、あるいはパソコンを義手で操って、それで生きていこうと思うのではないか?
 映画に見るフランケンシュタインの怪物は、首から一本、太い金属の棒がつき出ている。あれはおそらく、その棒に雷の電気を通し、ショックで怪物をよみがえらせた時の名残だ。手元にあるPowerBook180Cからも金属の棒、こちらは銀色のボルトなのだが、それが四本突き出ている。本体とディスプレイをつなぎあわせ、さらにディスプレイを固定させるための蝶番(ちょうつがい)が破損しており、それを補うための一策だ。私はこの180Cを、秋葉原の中古マックにおいて、一万五千円で購入した。その180Cに出会った時は、蝶番が壊れているため、本体とディスプレイが完全に分離しており、180Cはガムテープでぐるぐる巻きにされ、棚の隅に放置されていた。値札もついていない。それが何であるという表示もなかった。あれは180Cだ。そう思ったのは、直感以外のなにものでもなかった。
 大阪に住む、いわゆるメール友だちのT氏。この人がかねがね180Cに愛着を抱いており、かつて、使いこまないまま売ってしまった180Cを、機会があればもう一度手元に置きたいという希望を述べていた。しかし、T氏のために買おう、T氏の代理で買ってあげようというつもりではなく、私は180Cの購入を決意したのである。そんな余計なことをとT氏がいう可能性もあり、私の独断専行に終わる可能性もあった。しかし、私は古本をかいあさっていたころの経験で、何かを見かけて気になったら、それは必ず買うべしと思っている。その日は買うのをやめて、やっぱり買おうと思っても次の日、いや数時間後に行くと、それは必ず売れてしまっているのである。ガムテープで巻かれた180Cには、PowerBook100シリーズのカラー・マシンで使うための、3.0アンペアのACアダプターがついてなかった。それは別売りで、店の主人は七千円だという。することが矛盾しているのだが、それでは動かないということを承知の上で、私はアダプタを買わず、本体とディスプレイだけの180Cを手に入れた。ただしその段階では、180Cの状態は確認していない。つまり、液晶表示が劣化しているとか、動作に不安定な要素があるとか、ハードディスクが使い物にならなくなっているとか、そうしたことはわからないままだった。店の主人は、蝶番の破損以外に問題はないという。その言葉だけが頼りだった。
 今にして思えば、その180Cは、サイボーグ化される運命だった。もしかすると、こんなに古くて、おまけに壊れているマシンなんて使い物にならないと、打ち捨てられたかもしれない。世の中の多くの電化製品、冷蔵庫やテレビが、そのような末路を迎えているはずだ。まだ冷やせるのに、まだ映るのに、古いから、新しいものがほしいから、棄てる。感謝しろといっているのではない。感謝するのはむしろ私の方。100シリーズで最高マシンの180Cを、サイボーグ化してまで使わせてもらえるのだから。それは180Cの運命であると同時に、私の運命でもある。


 果たして、家に帰ってすぐ、PB100シリーズ用のバッテリで起動させると、主人の言葉に偽りのないことがわかった。液晶表示は100シリーズ最高の美しさを維持していた。ハードディスクにも、その他の動作にも問題はない。しかし、バッテリの充電が不十分だったことと、180Cの消費電力が大きいことで、たちまちにシャットダウン。動作確認は不完全だったが、とにかく状態はわかった。ただちに、このような180Cを手に入れたということを、T氏にメールで伝えてみた。見方によってはジャンクだから、買わなくてもいい。あくまで私の一存でしたことだから、引き取ってもらえなくても恨むようなことはない。さらに、蝶番の破損については、このようにすれば直るのではないかという腹案がある。ディスプレイのカバーに新しい穴を開け、無理やりにでも固定するばいいと思うのだが……。そんな言葉も書き添えておいた。
 T氏はたちまち返事をくれた。とにかく一度見てみたい。修理のアイデアについても詳細を教えてもらいたい。直せるものなら直してみたい。そんなふうにいうのである。こう書くと、あるいはT氏に失礼かもしれないのだが、T氏と私とは、感性の核になる部分で、重なり合う部分が多いと思う。実をいえば、私はT氏の顔を知らないし、年齢を知らないし、職業はDTPのプログラマーであるとしか知らないし、感性の核で共感するといったって、徹夜で何事か語り明かしたということもないのである。しかし、互いの発言には、打てば響くことが多い。理屈を並べ立てないでも、わかりあえるのだ。先に、T氏の意向を問うことなく、私の独断専行で買ったと書いたが、心のどこかで、このマシンはT氏のもとに行くべきという確信があったと思う。
 蝶番の修理について、ここで詳しく書くことはよそう。私はT氏のために、修理の方法を図面にあらわした。つたない図であるが、参考にはなるはずだ。180Cは東京から大阪へ、宅急便で送られた。それが到着するや、T氏はドリルやボルトを購入して修理を敢行。ディスプレイと本体をつなぎあわせてしまった。その間に私は秋葉原の店に出直し、アダプタを買った。店の主人は私のことを覚えていて、七千円といったけれども五千円でいいといってくれたため、出費を抑えることができた。アダプタを得たことで、T氏の180Cは、何の問題もなく動作するようになった。
 T氏はメールに画像を添えて送ってくれたのだが、写真を見ると、銀色のボルトが四本突き出した姿は、まったく、サイボーグといったありさまであった。手術跡をむきだしにした患者ともいえよう。アップルのデザイナーは、こんな姿を嫌うと思う。一見したところ、アップルのパソコンには、機械然としたところがない。外部からは武骨な金属がまったく見えないデザインになっている。それを無理やりに穴を開け、あまつさえ、固定用のねじを見せたままにする。日本建築には釘隠しというものがあって、柱に打ち付けた釘の頭を隠すため、鳥や獣、植物や文様などを金属でかたどり、釘の上にかぶせる。そうすることで、部屋の彩りにもなるし、釘も隠せるのである。アップルのデザイン感性はこれに近い。しかし、私が送り、T氏が完成させた180Cは、武骨といえば武骨。あからさまといえばあからさま。逆に武骨さを売り物にする外観になった。しかし、私はそんな180Cが好きだ。T氏も同様。何といっても、自分たちの手で工夫をし、直し、使えるようにしたという思いがある。
 その後、この180Cは私の元に送り返され、この原稿を書いている手が、すぐ届く場所にある。いくらこれでいいとはいえ、ねじが出ない状態になれば、それにこしたことはないわけだ。T氏はその後、Web上のフリーマーケットにおいて、動作はしないジャンク品ではあるが、外見は何の問題もない180Cを入手した。それを使って内部を入れ替え、完全な180Cをひとつ作ったのである。そして、残りの部品を使って組み立てたジャンクの180Cが、私の元に送られたのだ。しかし、損なくじを引いたわけではない。秋葉原に足を運べば、ジャンク品を完動品にするためのパーツは手に入る。筐体は、私が秋葉原で手に入れた時の180Cだ。それが東海道を行ったり来たりしながら、ついには動作品として、よみがえりを果たす。PowerBookという、旅するマシンの本領を発揮したといえるのではないだろうか。

ボルトが突き出た180c

ネジが突き出てたって生きているなら立派。180c



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