トロッタ通信 10-2



トロッタ通信 10-2



「解体・再構成」

■ 詩が音楽になるために

田中修一さんが、トロッタ10のために作曲してくださいました『雨の午後』は、「詩の通信III」の第24号、2008年6月7日号で発表された詩がもとになっています。発表から約1年が経って、音楽になったわけです。すでに書きましたが、もとの詩と大幅に変わっています。これについて考えることは、少なからず意味があると思います。変更について、田中さんの考えはうかがっていませんが、ひとまず自分で考えてみます。まず、私の詩「雨の午後」の全文をご覧ください。

  *

 詩「雨の午後」

濡れて飛ぶ鳥も恋を知る
傘は嫌い
濡れたまま歩きたい

あなたの絵を描かせてください
駆け寄ってきたひとりの女
あの人が画家です
なるほど街灯の陰に男が見えた
変に思われないよう
私がお願いに来ました

はっきりいえばいい
ぼくがあなたを描きます
喜んで私は裸になるだろう
でも女がいっている
きっと綺麗に描いてくれますよ

濡れて飛ぶ鳥は恋を知る
綺麗じゃなくて
ありのままを描いて
傘はない
濡れたまま歩いていたい

描かせていただけませんか
お願いします
泣き出しそうな顔をしているね
彼はあなたを描いたの?
描かれたあなたが
私を誘うの?

五月の雨を切り
濡れながら飛んでいる
傘をなくした
あなたも私も 一羽の鳥

  *

「詩の通信」は、ただいま第VI期に進んで、11月16日(月)には、第8号を出そうという状況です。『雨の午後』を発表した当時、私は恋愛詩を多く書いていました。この『雨の午後』も、恋愛ではありませんが、街で偶然に出会った男女の姿を描いています。男女の、束の間の出会い。
しかし、田中修一さんは、『雨の午後』から恋愛の要素をばっさり削ぎ落としました。自然、詩自体が短くなっています。6連あったものが、その半分になっています。詩をカットして、カットした部分は音楽に表現させた、といえるかもしれません。
ご覧ください。以下のようになりました。

  *

 歌曲「雨の午後」

濡れて飛ぶ鳥も戀を知る
傘は嫌い
濡れたまま歩きたい

濡れて飛ぶ鳥は戀を知る
傘はない
濡れたまま歩いてゐたい

五月の雨を切り
濡れながら飛んでゐる
傘をなくした
一羽の鳥

  *

「あなたの絵を描かせてください/駆け寄ってきたひとりの女/あの人が画家です/なるほど街灯の陰に男が見えた/変に思われないよう/私がお願いに来ました//はっきりいえばいい/ぼくがあなたを描きます/喜んで私は裸になるだろう/でも女がいっている/きっと綺麗に描いてくれますよ」

このような物語性は、歌にならなかったわけです。すでに記しましたように、私は作曲家の意図を尊重します。どのようにしていただいてもかまいません。
田中さんは、「断章賦詩」という、中国にあるという手法を用いました。私はこの言葉を知りませんでしたが、要するに、任意の箇所を選んで、あるいは残して、そこに思いを託し、詩として示すわけです。書いた本人が自分の詩に手を加えることはあるでしょうか? たいていは、書いた本人以外の人によって行われるのでしょう。過去の詩を用いることが多いと思われます。大きくいえば、引用ということになります。

一種の恋愛詩と見れば、肝心な恋愛の要素がなくなったことは、残念です。
田中さんは、それを承知でなくしたわけです。別に恨みません。詩と音楽は違うのですから。詩が音楽になるためは、恋愛を捨てなければならなかった。詩の核に恋愛があったからこそ、それをなくして音楽になるとは、詩と音楽の関係を考える上で、実に象徴的なことだと映ります。

田中修一さんは、トロッタの第1回から参加し続けている、唯一の作曲家です。トロッタの会を始めようとした時、真っ先に声をかけさせてもらいました。
第1回「トロッタの会」は、2007年2月26日(日)に開催されましたが、約1年前の2月8日(水)に亡くなられた、伊福部昭氏の追悼演奏会といっていいプログラムになりました。田中修一さんの『立つ鳥は』(2007)、酒井健吉さんの『ヴァイオリンとピアノのための狂詩曲』(2006)、いずれも、伊福部氏の追悼曲なのです。??これは意図したわけではなく、田中さん、酒井さんという二人の作曲家の思いが偶然に一致したのです。実は、私自身も、このことは失念していました。「詩と音楽」について考え、トロッタの歴史を振り返って、この事実に言及できたことを、よかったと思います。

田中さんはその後、トロッタでは、私の詩で『声と2台ピアノのためのムーヴメント?木部与巴仁「亂譜」に依る』(2007)、『「大公は死んだ」附 ルネサンス・リュートの為の「鳳舞」』(2003)、『砂の町』(2009)。萩原朔太郎の詩で、『こころ』(1993/2007)と『遺傳』(2007)、田中未知の短詠で『田中未知による歌曲』(2008)を発表しました。『ムーブメント』は、トロッタ9のために改作され、エレクトーンと打楽器を交えた編成で演奏されました。とても好評でした。田中さんは、詩と音楽について、よく考え続けている作曲であるといえましょう。

その彼が、『雨の午後』では詩を削ったのですから、考えがきちんとあってのことです。どんな考えなのか−−。以下はあくまで推理です。
ひとつ。物語を排除して、抽象世界にとどめようとした。時間の経過は不要であった。大切なのは「雨の午後」という抽象性であった。
ふたつ。恋愛詩は田中さんの場合、音楽にならないと映った。男女の、他人から見ればだらだらしたやりとりは、じれったいものです。
みっつ。端的にいって、詩の言葉がメロディにもリズムにも乗らなかった。そうだとすれば、田中さんの感性が判断をさせたものです。
よっつ。「断章賦詩」の態度を徹底させ、私の詩は材料であり、田中さん自身の思いを伝えるための材料になった。材料になる詩を書いたのですから、詩人として本望です。
間違っていたら申し訳ありません。
ところで、こんな短い詩があります

 *

鳥ならで 聴くこともなし かすかなる 雨のささやき 風の恋歌

 *

私の作です。
『鳥ならで』と題しました。
田中修一さんに贈りました。
トロッタ10のチラシを見ると、田中さんの曲は『雨の午後/蜚(ごきぶり)』となっています。「詩の通信」の創刊号、2005年11月11日に発表しました『ごきぶり』もまた、歌にしてくださいました。『蜚』の方は、詩句の変更はありますが、「断章賦詩」というほどのカットはありません。
これらの二曲につながりはありません。続けて歌われますが、別の曲です。二つも新しい歌曲ができてありがたいことですが、せっかくの機会なので旧作の詩だけでなく、新作も取り上げてもらえないかと、彼の作曲が相当に進んだ段階で、『鳥ならで』を書いて送りました。
田中さんは受け取ってくださいました。
『雨の午後』の詩が大幅にカットされた本当の原因を、私は知りませんが、推理して四つの理由が考えられるなら、カットに対する解答の意味もこめて、『鳥ならで』を詠んでみたのです。つまり−−。
物語を排した抽象世界にとどめる。恋愛詩ではない。メロディとリズムに乗りやすい七五調にする。歌の材料となることを意識して、初めから書く。
いかがでしょう?
詩として、単独で詩唱するには短すぎますが、歌ならば、じゅうぶんな長さだと思います。そう??、歌のための詩は、短くてもいいのです。長いよりは短すぎる方がいいようです。
トロッタ10で歌にするには時間がなく、『鳥ならで』は、まだ歌になっていません。しかし、田中さんは受け取ってくださいましたので、遠からず、歌として皆さんにお聴きいただけるでしょう。

前回、トロッタ9の終演後、田中さんは『ムーブメント』、すなわち『乱譜』の続篇を所望されました。そこで私は、『乱譜 瓦礫の王』を書きました。これもまた、いつの日にか、演奏されることでしょう。

■ 詩の先にあるもの

第10回目でトロッタに初参加されます田中隆司さんは、「響リュウ」のお名前で、演劇畑でもご活躍です。清道洋一さんと同じく、グループ「蒼」の同人です。田中隆司さんの曲を初めて聴きましたのは、旧東京音楽学校奏楽堂で行われました、昨年のグループ「蒼」演奏会でした。私も出演させていただきました。それ以前に、田中さんが響リュウとして書きました、萬國四季教會の舞台を拝見しました。「ボッサ 声と音の会vol.4」にも足を運んでいただきました。その上で、トロッタの会でご一緒できればと、お誘いしたわけです。

トロッタ10で演奏される田中さんの曲は、『捨てたうた』です。『時速0km下の世界』『約束 1977年のために』『万華鏡』という私の詩、三篇を自在に用いて、新たな一篇にされました。ちらしにありますご本人の表現では、「解体再構成」ということになります。もとの詩は長いので、ここに全文は掲げられません。トロッタのサイトには掲載しています。
「解体再構成」された音楽のための詩も、楽譜上にあるので、書くのが難しいようですが、試みてみましょう。二つか三つに分けて、話を進めます。
もとの詩の表記と、譜面上の詩の表記が、ところどころ異なりますが、そのまま記しました。それが田中さんのリズムであり、メロディだと信じるからです。同様に、これは私の詩というより、田中さんの詩になっています。詩から音楽へ、完全に変化しています。

捨てたうた
(詩・木部与巴仁「時速0km下の世界」「万華鏡」「約束1977年のために」より)

田中隆司・構成

(男)
満月だった
水の中の魚(うお)として
空を見上げた
花が咲いて
世の果ての山に似る
満月の有り様(ありよう)

(駅員)
間もなく二番線に
普通電車が参ります

(黒衣の女)
作ってあげましょう
あなたのために
人形を

(男)
海の満ち干
逆巻く潮(うしお)が
渦になって流れている

(きみ 娘)
この窓から見える風景が
わたしは好きよ
鉄道ビルとゆうのね
町の風景が途切れるあたりに
柱のように建っている

  *

ここまでで、すべての詩唱者が現れました。男、駅員、黒衣の女、きみ(娘)です。トロッタ10では順に、私、黒田公祐さん、笠原千恵美さん、松谷有梨さんが詠います。
また、用いられた三篇も、すべてその要素を現わしました。男と駅員の言葉は『時速0km下の世界』、黒衣の女の言葉は『約束 1977年のために』、きみ(娘)の言葉は『万華鏡』から採られています。

『時速0km下の世界』は、もともと小説でした。総武線飯田橋駅のホームは、急速にカーブしています。駅に入ると、長い車輛の列がホームに沿って折れ曲がります。車輛とホームの間が、大きく開きます。私が通った大学は、飯田橋駅に近い法政でした。電車に乗り降りするたび、足下にぽっかり空いた暗がりを見てきました。電車はすでに止まり、そこは時速のない世界です。人の来訪を誘っているように思いました。線路が直線ですと、電車はいきなり入線する印象ですが、飯田橋駅のように、カーブの中心にあると、遠くから電車が近づいてくるのが見えます。近づくにつれ、あの電車の前に、下に、身を投げたいという欲求が頭をもたげてきます。日々の生活に疲れた人にとっては、危ない場所です。そんな駅を舞台にして書いたのが、『時速0km下の世界』でした。

『約束 1977年のために』は、やはり私の大学時代を背景にしています。飯田橋駅の近くに、人形の家という名の喫茶店がありました。サークルの仲間と、そこに集い、何時間も語り続けたことを思い出します。『捨てたうた』には採られませんでしたが、原詩には「覚えているでしょう/川べりの喫茶店/議論に疲れて/水だけを飲んでいた」という言葉があります。これは、私にとっては重要な場面ですが、田中さんはカットされました。先の『雨の午後』同様、物語性は歌に不要と判断されたのでしょうか。とても興味深い点です。ただ、私にとって、そのような、喫茶店で友人と過ごす時期は、長く続きませんでした。大学の中で活動するという行き方が、私に向いていなかったからです。
詩は、学生時代から数十年が経った、2009年の現在が対比されます。「作ってあげましょう/あなたのために/人形を」という女の言葉は、私の詩ですが、田中隆司さんは、自分のものにされました。田中さんのためにある言葉のようです。

『万華鏡』は、「鉄道ビル」が見える、ある一室を舞台にしています。私は、密室にひかれます。それは、男と女がいる密室です。密室ですが、外界と結びついています。私は決して、外界を遮断しません。その象徴が、「鉄道ビル」です。「鉄道ビル」を、私は夢に見ました。そこは、東京のような大都会を走る鉄道網がすべて交差する、ある一点です。私は学生時代、劇画家の石井隆氏の作品にひかれました。今また、ひかれています。彼の作品は、エロ劇画などと呼ばれることが多いのですが、決して、そんな手あかまみれの一言では片付けられません。また暴力的でもありますが、その背後には、あまりにも大きすぎる哀しみがあります。『万華鏡』は、もしかすると、石井隆氏の作品から受けた影響が、詩の形になって現われたものかもしれないと思います。となると、『時速0kmの世界』『約束 1977年のために』『万華鏡』は、すべて、私の学生時代によりどころを持った作品ということができます。

  *

(黒衣の女)
作ってあげましょう
あなたのために
人形を

(男)
最後の一歩が踏み出せなかった
あの日々
ホームの端で
純色(にびいろ)のレールを見つめていた
光る
虚空の月

急ぎ足で去ってゆく
女たち 男たち

(黒衣の女)
作ってあげましょう
あなたのために
人形を
作ってあげる
あなたに似せた
やせっぽちの
人形

(男)
誰でもいい
背中を押してほしかった
カーブを描いたホーム
その真下に
速度のない世界を

振り返えると
きみはぼくを見ていた

(きみ 娘)
雪が降っているよ
窓の向こうに
一面の粉雪
窓を開けてみて
部屋が雪いっぱいになっていく
音が消えるのよ
雪の日には

  *

このブログを読んでいただいている、ある方から、お便りをいただきました。厳しい御意見であり、すべては紹介できませんが、頭に置きながら、今後、書くことにします。的外れであれば問題にしませんが、意見の内容は、私自身に思い当たることがあります。どんな意見でも、それを受けて原稿の内容が深まり、広がります。何事であれ、無視はしません。私の姿勢は、基本的に、どのようなものでも受け入れることにあります。作曲家の方の詩の改変も、私は受け入れます。受け入れるという姿勢から、トロッタは始まっています。

お便りの内容です。
詩人と作曲家の共同作業について。作曲家はまず、詩を誤読しないことが大切です。誤読しない範囲でなら、詩を改変してもいいのではないでしょか。しかし、過去のトロッタで演奏した曲には、明らかに誤読、あるいは詩の主題を変えてしまったものが見受けられました。詩人と作曲家が、よく話し合う必要があるのではありませんか。話し合いもせず、できた曲について、あれこれと書いている「トロッタ通信」には、いささか疑問を感じます。
このような主旨でした。
 
作曲家は、誤読してもいいのではないか、という気持ちがあります。誤読して完成度が高ければ、あるいは他人が真似できないほど実験精神に富んでいれば、詩を超えておもしろくなったのだから、誤読してもいい。他人に対してはそう思いますが、仮に私が作曲家なら、誤読はしないよう努めます。
作曲家は、詩人の作品を、ただの材料にしていいわけがありません。詩を好き勝手に扱って、したいことをすればいいという態度は、詩人への裏切りだと思います。トロッタの作曲家に、そんな人は一人もいません。反対に考えて、作曲家の譜面を、演奏者が勝手に解釈し、勝手に演奏すれば、やはり作曲家は怒るでしょう。それと同じことが、詩に対してもいえるはずです。私は、詩唱者として、譜面に忠実でありたいと思います。作曲家の意図どおり、できるできないはともかく、最大限の努力を払いたいと思っています。
さて、田中隆司さんの『捨てたうた』の続きを、見て行きましょう。登場人物の言葉が交錯していきます。声部が重なっていきますから、正確に記すことは難しいのですが、雰囲気をつかんでいただければと思います。

  *

(男)
三十年が経つ
初めて出会った
あの瞬間
二十歳のあなたは
まぶしかった

(駅員)
三鷹行電車が参ります
危ないですから下がって下さい

(きみ 娘)
この部屋で
何もかも忘れて
一日中
愛しあっていたい

ルラルラ ルラルラ
ルラルラ ルラルラ

鳥を見たわ

(黒衣の女)
ククク

(男)
ルラルラ ルラルラ
ルラルラ ルラルラ

(きみ 娘)
緑色した
尾羽の長い鳥が何羽も
群を作って飛んでいった
聴いたことのない声で鳴きながら
鉄道ビルの方へ

(黒衣の女)
フウ

フウ フウ
フウ フウ
フウ フウ

(男)
ルラルラ
ルラルラ ルラルラ ルラルラ
ルラルラ ルラルラ

(駅員)
ホームの端を歩かないで下さい

(きみ 娘)
裸のまま
遠い部屋で愛しあっているわたしたち

ルラルラ
ルラルラ

ルラルラ
ルラルラ

(男)
ルラルラ
チチ
ルラルラ
チチ

ルラルラ ルラルラ

  *
昨日、この原稿に対していただいたメールには、こんな一言もありました。
先入観なく詩と音楽の融合を楽しみたいと思っているお客様に、このような内容の文章は、どう映るでしょうか? と。
確かに、私はお客様のことを考えながら書いてはいませんでした。ブログを開設しているのは、詩と音楽について考察すると同時に、トロッタについての宣伝の意味があります。ですから、興味を殺ぐことは、望ましくありません。詩と音楽を融合させるために、詩人と作曲者が、どのように取り組んでいるのかを知っていただければという気持ちはありました。しかし、先入観は、植えつけてしまうかもしれません。
それでも、私は書くのをやめることができません。結論は出ないにせよ、これを、ある程度まで書かないことには、トロッタ10の舞台に立てない気持ちになっています。

  *

(黒衣の女)
約束!
約束!
約束!

一九九七年 ために

  *

黒衣の女が繰り返して叫ぶ「約束」とは、何でしょうか?
これは原詩にありません。田中さんの「約束」です。
しかし、詩の題を『約束』としたのは私です。その限りにおいて、言葉の意味を考えることはできます。すでに引用した箇所があります。
「あなたが流した/血と涙を/私はきっと忘れない」
これが約束です。
ただ、『時速0km下の世界』と『万華鏡』をも、田中さんは解体して再構成している以上、田中さんが解釈する「約束」があるはずです。
それは、原詩ではなく、再構成された詩と音楽からしか、判断できません。
詩は、言葉のみで解釈できますが、音楽は、音もまた解釈の材料にしなければいけないのです。フルートと、オーボエと、ヴァイオリンと、ピアノによって演奏される、音楽があります。

  *

(きみ 娘)
ああ

(黒衣の女)
作ってあげましょう
あなたのために
人形を

(きみ 娘)
ああ

(男)
あれは

(きみ 娘)
ああ

(黒衣の女)
作ってあげましょう
あなたのために
人形を

(男)
あれは

(きみ 娘)
ああ

(駅員)
ホームの端を歩かないで下さい

(黒衣の女)
歌ってあげましょう
あなたのために
もう一度
もう一度 もう一度

(男)
あれは捨てたうただ
捨てた時間
捨てた記憶

  *

題名の『捨てたうた』という言葉が、私ではなく、田中さんのものであるという事実。
後半になって、男は「捨てたうた」と口ばしります。「捨てた時間」「捨てた記憶」という言葉とともに。
そんな男を、必死に止める、現実を生きている人間、駅員。

  *

(黒衣の女)
歌ってあげましょう
あなたのために
もう一度

(きみ 娘)
ああ

ああ
稲妻が
あ あー
終わってしまう
わたしたちの世界が

(黒衣の女)
ウウ ウウ
ふう
ふー うー

(男)
ああ
黒い影が
宙に舞った
黄色い線を超えた時
小さな風が起きたという
止まった時間と
消えてしまった速さ
車輪とレールの間に
世界が

(駅員)
黄色い線の内側まで
下がって

(きみ)
裸の背中に流れる
わたしの髪が好きだって
わたしの髪
長い髪

(黒衣の女)
作ってあげる
あなたに似せた
やせっぽちの
人形 人形

(男)
松の葉さえ
金色に光っている
楓は黄色く紅く
何もかもくっきりと
ああ
捨てた記憶
捨てた時間
捨てたうた!

ああ

(駅員)
ホームとレールの間が
広く開いて

下がって下さい

下がって下さい
下がって!

(駅員)
発車進行

(男)
時を
時の記憶を

今夜も
魚は泳いでいた
月を見た
満開の花を見ていた

  *

男は、死んだのでしょうか。黄色い線を飛び越えて、時速0km下の世界に行ったのでしょうか。わからないままです。駅員が何事もなく「発車進行」といっているのです。駅員は、彼岸に行きたい者を阻止する役目を果たしたと見ることができ、男はやはり、生と死の境をさまよい続けているとするのがよいと、私は思います。行ってしまったら、このような物語は成立しませんから。
しかし、それは私の解釈であり、田中さんは、死者に、詩にある彼岸の光景を語らせているのかもしれません。例えば、このような。
「松の葉さえ/金色に光っている/楓は黄色く紅く/何もかもくっきりと」
「今夜も/魚は泳いでいた/月を見た/満開の花を見ていた」

ご批判のメールにありました。お客様に先入観を与えてはいけない。詩と音楽の融合を、その場で楽しめるようにした方がいいのでは。
ただ、私がここまで書いたことは、誰でも考えられることだと思います。開演前、すでに詩を配っているのですから、時間さえあれば、不可能ではありません。原詩と、構成後の詩を比較することも容易です。
詩を離れ、音楽として演奏するのですから、先入観の持ち様はないのではないか。劇作家で演出家、響リュウとして活躍する田中隆司さんの演劇性についても触れようと思いながら、それはしませんでした。原稿を書いていて、そこに行く余裕はなく、音楽性をこそ考えなければならないことに行き着いたからです。