(2013年8月24日更新)

ドキュメント「トロッタの会」
「詩の通信VIII」の付録として連載中です。
印刷物をご希望の方は、木部与巴仁宛てにご一報ください。

【連載 1】 【連載 2】 【連載 3】 【連載 4】 【連載 5】 【連載 6】 【連載 7】
【連載 8】 【連載 9】 【連載 10】 【連載 11】 【連載 12】 【連載 13】 【連載 14】
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【連載 22】 【連載 23】 【連載 24】 【連載 25】 【連載 26】 【連載 27】 【連載 28】
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 【連載・一】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でる行為 二.トロッタを行う場所 三.トロッタを行う人々、または場を共有する聴衆・観客・支持者

 二〇〇七年二月二十五日(日)、詩と音楽を歌い、奏でる「トロッタの会」第一回演奏会を開催した。会場は、渋谷駅から徒歩十五分の、タカギクラヴィア 松濤サロンである。記念すべき第一回の作曲者、出演者、演奏曲名を掲げる(第二回以降は、適宜、関係者と関係曲名をあげる)

【作曲】酒井健吉 『朗読、ソプラノ、ヴァイオリン、ピアノのための「トロッタで見た夢」』『ヴァイオリンとピアノのための狂詩曲』『朗読とヴァイオリンとピアノのための「ひよどりが見たもの」』
【作曲】田中修一 『立つ鳥は』
【ソプラノ】西川直美
【ヴァイオリン】戸塚ふみ代
【ピアノ】今泉藍子
【朗読】木部与巴仁*無伴奏の『祈り 鳥になったら』も朗読

 その前月一月二十六日(金)、長崎市の旧香港上海銀行長崎支店記念館で行われた、kitara音楽研究所第四回演奏会「大陸を渡る音楽」への参加から、トロッタの活動は始まった。演奏されたのは、私、木部の詩に依って酒井健吉が作曲した『雪迎え/蜘蛛 朗読と音楽の為の』(sop.田添千春、vn.戸塚ふみ代、pf.酒井健吉、朗読 木部与巴仁)、それにファブリチオ・フェスタ作曲『ヴァイオリンのための 5つの奇想曲』(vn.戸塚ふみ代)などであった。
 前年二〇〇六年十一月から一年、隔週刊で「詩の通信」を発行した。書き下ろしの詩を掲載して読者に送る。それらの詩を朗読会で詠むことがあり、詩が楽曲化され演奏されることもあったが、私の心には漠然と、「詩の通信」の舞台版を作りたいという思いが芽生えた。だから「トロッタの会」を始める時、「詩の通信」は発行を終えていた。第二期以降を出し始めたのは、後のことだ。

 声には力がある。音には力がある。言葉には力がある。詩を書き、詠む者として思うことだが、作曲者や演奏者の立場からも、そのような力についての表現があるだろう。
 私は詩を、目で読むだけのものにはしたくない。声、音として発するものにしたい。なぜなら、人の歴史として、文字以前に声が発せられているからだ。心に起こる思いも、相手に働きかける場合の意味も、声で伝えられる(発声できない人には文字が有効な伝達手段だが、それは歴史が下ってからの話だろう)。詩ではない散文でも、話は同じである。短くない月日、文章を書き続けてきた者として実感しているのは、最もわかりやすい文章とは、耳で聴いてただちに理解できるものだということ。どれほど優れた哲学が綴られていても、聴いてわからなければ、文字通り意味がない(意味にならない)。あまりにも専門分野に拠りすぎた用語など、使う者は満足感を覚えるだろうが、通じない者には迷惑以外の何物でもなくなる。言葉の力が失われる。文章上は平易に過ぎて見えても、聴いてわかるなら、力があることになる(最もよい推敲の方法は、声に出して読むことである。声に出して、他人はもとより書いた本人にもわからないと思われる文章が、あまりにも多い)。

 声の力は、人を生かしもし、殺しもする。人の魂を鎮める力もある。『伊福部昭・音楽家の誕生』の後書に、私は詩を書いた。それは夢の詩である。夢の中で、私は伊福部昭の書斎にいて歌唱指導を受けていた。どう歌えばいいかわからない私に伊福部がいう。
「歌には、歌われるべき旋律が自ずから決まっているんです。何も考えず、歌の通りに歌えばいいんです」
 歌は、こんな詩で始まる。
「わが立つ鳥はみずらに歌い……」
 ランニングシャツ一枚の伊福部が、汗だくになって指揮までしてくれている。一生懸命に歌わなければならないと思う。やがて私の口から、自ずと決まっているという旋律が、詩を乗せて流れ出て来た。
『音楽家の誕生』刊行は、一九九七(平成九)年。その後、『伊福部昭・タプカーラの彼方へ』を二〇〇二(平成十一)年に、『伊福部昭・時代を超えた音楽』を二〇〇四(平成十三)年に刊行した。『音楽家の誕生』の取材を始めたのは、一九八三(昭和五十八)年。紆余曲折を経て、『時代を超えた音楽』まで約二十年がかかっている。そして、二○○六(平成十八)年二月八日、伊福部昭逝去−−。
「トロッタの会」を始めるにあたり、旧知の作曲家ふたりに参加を求めた。諫早の酒井健吉と、横浜の田中修一である。酒井健吉とは、二〇〇五年から、私の詩によるソプラノと朗読、ヴァイオリン、ピアノのための『トロッタで見た夢』などで共同作業を始めていたから、日々の会話のうちに、トロッタ参加の打診をしたのだろう。田中修一と話をした日は、はっきりしている。二〇〇六年一月四日(水)、あるピアニストのリサイタルに出向いたところ、田中修一がいたので、詩と音楽の会を始めたいのですが、一緒にいかがですか? と勧めたのである。田中とは、『音楽家の誕生』刊行当時に面識を得ていた。私の著書を、彼は読んでくれていた。田中は「トロッタ」への参加をその場で快諾し、後日、彼が歌曲を描きたいのだがと希望してきた詩が、『音楽家の誕生』の後書に記した、「立つ鳥はみずらに歌い……」だった。亡くなった伊福部先生に捧げる曲にしたい、という。
 田中は伊福部昭に師事してきた。『音楽家の誕生』の取材中、伊福部から、ホテルの仕事をしている作曲家がいると聞いた。彼が得意とするのが、大皿の料理を取り分けること。伊福部に作曲のレッスンを受けているといい、それが田中修一だったのだ。
 伊福部の死後、私は、徳島県板野郡北島町が発行する「創世ホール通信」に追悼文を寄せた。創世ホールは、二〇〇四(平成十六)年に、私が伊福部昭の卒寿を祝う講演を行った施設だ。当時の館長は、学生時代からの友人、小西昌幸。その通信に、先の詩「立つ鳥は……」の全文を掲載し、田中修一も目にしていたのである。短い詩だから掲げよう。
「立つ鳥はみずらに歌いて/天たかく舞わんとす/その声 人に似て耳に懐かし/温もりもまた 人に似る/鳥 消ゆ/再び会う日の来ぬを われは知る」
 旧仮名づかいに依りつつ、田中修一が整理した詩は、以下のようになった。

立つ鳥は みずらに歌ひて
天たかく舞はんとす

その声 人に似て
懐かし
温もりもまた 人に似る
懐かし

鳥 消ゆ
再び会ふ日の来ぬを われは知る

 常に頭にあることだが、人は死ぬと鳥になる。鳥は、人の魂の化身である。ヤマトタケルは故郷を前にして病に倒れ、死して白鳥となり、飛んで帰った。『立つ鳥は』は、伊福部の生前に夢で聴き、書き留めた詩であったが、それを亡き師への鎮魂にしたいとは、田中修一らしい願いだと思った。伊福部が亡くなったのが二〇〇六年二月八日。第一回「トロッタの会」開催が、翌二〇〇七年二月二十五日。一年を経て、彼は師の魂に曲を捧げることになったのだ。

 ささやかなことだが大事なこととして、書いておこう。『立つ鳥は』の、私が書いた詩と歌のために田中が整理した詩は違っている。「耳に」をカットし、「懐かし」を繰り返した。音楽のために詩は姿を変えてもいいと、私は思っている。『立つ鳥は』は短い詩だから、はなはだしい改変とは映らないかもしれない。これが長い詩になると、改変の度合いも大きくなり、例えば三十行の詩が、五行しか使われなかった、ということが実際に起きる。あるいは、作曲者の言葉が私の詩と混在する場合もある。それでもいいと、基本的には考えている。
 言葉は声に出して発せられるものである。誰が発するのか? 書いた本人が。あるいは詠む者、歌う者が。書いた者とは一面識もなく、書かれた言葉を自分なりに解釈する者が。すべての場合において、書いた者の思い通りには発声されないだろう。書いた本人さえ、思い通りに発声できるものではない。詠もう、歌おうとする以上、ものの形は変わるのである。一字一句変えずに歌になっても詩人と作曲者の解釈は違い、歌手の解釈も違ってくる。言葉の変容を、トロッタは受け入れようとしている。(つづく)


 【連載・二】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でる行為 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタを行う場所 四.トロッタを行う人々、または場を共有する聴衆・観客・支持者

 当初、「トロッタの会」は毎月、開催するつもりであった。大がかりにせず、少ない関係者と少ない曲で、サロン・コンサートの規模でと考えた。タカギ・クラヴィア松濤サロンは、三十名も入れば超満員という会場である。レンタル料は決して高くない。入場者さえ確保できれば充分に支払える金額で、作曲家と演奏家が努力すれば毎月の開催も可能ではないか。それが困難であることは実際に行なってわかるのだが、しかし行なってみなければ決してわからないことである。
 また演奏会を開く際、これはしばしば起こることなので記しておくが、第一回開催までに、一旦は承諾してくれたピアニスト二人に出演を断られている。そのうちの一人は、伊福部昭『ヴァイオリン・ソナタ』でヴァイオリンの戸塚ふみ代が共演しており、技術的にも人間的にも信頼できただけに落胆したが、もちろん、相応の理由があってのことだろう。今泉藍子は三人目に引き受けてくれたピアニストである。以降、同様の問題には常に直面することになる。ゆるやかな集まりであれ、集団を維持することは非常に難しい。それを実感するからこそ、一度でも参加してくれた方々には感謝し、共演の思い出を大切にしている。

第一回 二〇〇七年二月二十五日(日) タカギ・クラヴィア 松濤サロン公演(既述)

第二回 二〇〇七年三月二十五日(日) タカギ・クラヴィア 松濤サロン公演
【作曲】酒井健吉 『唄う』『ピアノのための舞踊的狂詩曲』『町』
【作曲】田中修一 『ヴァイオリンとピアノのためのエグログ』
【ソプラノ】西川直美
【アルト】かのうよしこ
【ヴァイオリン】戸塚ふみ代
【ピアノ】今泉藍子
【朗読】木部与巴仁*無伴奏の『鼠戦記』も朗読

第三回 二〇〇七年五月二十七日(日) タカギ・クラヴィア 松濤サロン公演
【作曲】酒井健吉 『ヴァイオリンとピアノのための舞踊曲』『旅』
【作曲】田中修一 『声と2台ピアノのためのムーヴメント〜木部与巴仁「亂譜」に依る〜』
【作曲】橘川琢 『叙情組曲 日本の小径(こみち)』作品12 『詩歌曲 時の岬・雨のぬくもり〜木部与巴仁「夜」・橘川琢「幻灯機」の詩に依る』作品18
【ソプラノ】成冨智佳子
【ヴァイオリン】戸塚ふみ代
【ピアノ】仲村真貴子、三浦永美子
【朗読】木部与巴仁*無伴奏の『大公は死んだ 付・みのむし』も朗読

 チラシを見ると、第三回までA4判が続き、共通した傾向がある。絵のモティーフが、ひよどりと街であること。  絵とデザインは、一切を小松史明にまかせた。小松は、私が非常勤講師をしていた日本工学院専門学校の卒業生だ。直接に教師と学生の関係であったことはないが、トロッタ以前の二〇〇六年五月十九日(金)に行われた、これも詩と音楽の催し『新宿に安土城が建つ』と、二〇〇六年十月五日(木)の『サイレンシティ』のチラシを作ってくれた。紹介者は当時、日本工学院専門学校の助手だった映像作家、服部かつゆきである。服部には、トロッタの記録映像のほとんどを頼むことになる。小松には、今に続くトロッタのチラシすべてをデザインしてもらっている。こうした人と人の関係がなければ、何の催しも開けない。トロッタ以前の関係があるから、トロッタが開ける事実に思い当たる。第一回以前、ピアニスト二人に断られたことは、そうした人の関係が希薄だったことに起因するだろう。
 チラシを作るにあたり、小松に注文したことは、次の点である。
 鳥をモティーフにしてほしい。その鳥は都会をすみかにしている−−。
 田中修一が、師の伊福部昭を追悼する曲として、鳥をモティーフに『立つ鳥は』を書いたことは先に記した。都会にすむ鳥をチラシに、とは、酒井健吉の『ひよどりが見たもの』を念頭に置いた発想だ。後に詩唱と表記されることになるが、朗読を生かす曲として、酒井は『トロッタで見た夢』に続き、『ひよどりが見たもの』を作曲。これはトロッタ以前の二〇〇六年七月十五日(土)に、名古屋の名フィルサロンコンサート「詩と音楽」で初演された。この曲には、それ以前の歴史があり以後の歴史もある。『ひよどりが見たもの』について、記そう。

 一九九八(平成十)年、私は作曲家、甲田潤の要請で、チャイコフスキー『くるみ割り人形』の日本語詩を書くことになった。もともとは管弦楽によるバレエ音楽だから、詩はない。しかし、バレエ音楽ゆえに明確な物語があり、場面が変化し、音楽もそれにつれて変化する。第一部は八曲、第二部は九曲に及んだ。甲田が歌になると考えたのも無理はない(彼の心の動きについては不明だが、間違いないと思う)。
 甲田潤は、長く、墨田区在住者か通学者で構成される〈すみだ少年少女合唱団〉を指導しており、団員の子どもたちが歌えるオリジナル詩の曲を求めたのである。甲田は伊福部昭と松村禎三に作曲を学び、伊福部が所長を務めた東京音楽大学民族音楽研究所の所員である。『伊福部昭 音楽家の誕生』としてまとまることになる原稿を書く過程で、伊福部の紹介によって私は甲田を知った。
 合唱曲『くるみ割り人形』は一九九九(平成十一)年三月に初演されたものの、紆余曲折を経た。詳細は省くが、甲田と意見の相違があったのだ。大きくは、詩の改変について。私は、音楽上の理由から詩が改変されることを、基本的に受け入れている。学生時代からの演劇活動において、戯曲が書き換えられることは当たり前だと思ってきた。演出、解釈、役者、舞台その他、さまざまな理由から、戯曲は書き換えられていい。作者の思いをはずさなければ。映画やテレビのドラマに書かれる脚本、シナリオも同様である。戯曲よりも、シナリオの方が改変される可能性は高いだろう。映画やテレビの脚本家は、それらのスタッフであることが多い。映画やテレビの脚本は、ほとんど一度きりのものである。それに対して芝居の戯曲は、優れていれば繰り返し取り上げられる可能性が高い。戯曲家は、座付き作者以外、劇団やグループから独立しているのが常である。だからこそ劇団の実情に合わせた変更があり得る。
 詩もまた、歌のためには変わっていい。詩を書く段階で、詩人がメロディやリズムを想定することは、ほぼない。あるとすれば、文章が持つメロディでありリズムだが、それ自体は音楽と呼べないものだ。作曲家にこそ、彼や彼女のメロディとリズム、ハーモニーがあるから、それにあわせて詩は変えていいと思う。繰り返すが、作者の思いを曲げてしまわなければ。
 しかし、『くるみ割り人形』の終曲に及んで甲田から注文があり、今から思えば希望程度のことだったと思うが、当時の私には受け入れられず、初演にも立ち会いたくないという事態に至った。立ち会いたくない理由は他にもあったが、私以外には問題にならない。しかし、時間が関係を元に戻してくれる。甲田から、詩も音楽もオリジナルの合唱曲を作ろうという要請がもたらされた。いつまでも根に持つのは嫌である。そこで考えたのが、『ひよどりが見たもの』だった。
 題名どおり、ひよどりが主人公だ。それも山野のひよどりではなく、コンクリートとアスファルトに暮らす、都会のひよどり。彼らは頭部の羽がさかだっているのが特徴で、頭がぼさぼさになっていると映り、親しみやすい。  千葉県我孫子市にある、著名な山科鳥類研究所に出かけ、ひよどりについて調べたことを懐かしく思い出す。詩は、二〇〇五(平成十七)年三月に完成した。十篇ほど書いたが、音楽にはなり得ないものを省き、今の七篇に落ち着いたのである。
 しかし    、甲田潤の曲はいまだに完成していない。詩はいいといってくれたが、作曲意欲を刺激しない部分があったのか。前奏部分の楽譜を見せてもらったが、ずいぶん音を重ねた、重厚な始まりであった。ピアノ伴奏の合唱曲でそんなことがあるだろうか。記憶違いかもしれない。いずれにせよ、このままでは詩が浮かばれないというので、酒井健吉に詩を渡すことを決意したのである。(つづく)


 【連載・三】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でる行為 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタの場所 四.トロッタの人々、またはその場を共有する聴衆・観客・支持者

 それぞれのトロッタというものがあると思う。作曲家には作曲家の、演奏家には演奏家の。作曲の田中修一、ヴァイオリンの戸塚ふみ代、デザインの小松史明は第一回から欠かさず参加し、その次に長いのは三回からの作曲・橘川琢、三回は譜めくりで参加、四回からピアニストとして参加した森川あづさ。酒井健吉は第一回からの参加だが、七回から十三回まで不参加で、十四回から再び参加しているなど、それぞれに事情がある。回数を重ねれば思いの数も多いだろう。しかし一度しか参加しなかった人々にもそれぞれのトロッタはあり、そのような人々に対しても私は思いを抱いている。私の場合、トロッタ以前にあったのは、作曲家・伊福部昭との関係である。伊福部について考え、書くことがなければ、私のトロッタはなかった。
 更科源蔵の詩に依り、伊福部が作曲をした四つの歌がある。『オホーツクの海』(58)、『知床半島の漁夫の歌』(60)、『摩周湖』(93)、『蒼鷺』(2000)である。それらの歌について考え始める以前は、『交響譚詩』(43)や『シンフォニア・タプカーラ』(54/79)といった管弦楽曲、あるいは協奏曲や舞踊曲を好む傾向があったが、文章を書く者としては、やはり詩に関心がゆく。
 伊福部が採った更科の詩は、すべて第二詩集『凍原の歌』(43)にある。更科は死を間際にした病床で日記形式の詩を綴っており、そこには、一九八四(昭和五十九)年二月二十一日、五反田のゆうぽうと簡易保険ホールで私も聴いた、『合唱頌詩「オホーツクの海」』演奏のことも記されている。北海道を離れられない更科は、東京の長女から、演奏会の成果を知らされるのだ。そして、高校生のころから読んでいた伊藤整の『若い詩人の肖像』には、青年時代の更科が繰り返し登場する。伊藤整や更科源蔵が見ていた北海道の風景は、当然、伊福部が見ていたものである。
〈詩と音楽〉の観点から、更科と伊福部の関係が私の重要なテーマになった。伊福部昭をめぐる『音楽家の誕生』(97)、『タプカーラの彼方へ』(02)が、三冊目の『時代を超えた音楽』(03)に至って、歌曲に多くの分量を割いたことには必然があった。詩が生きる音楽は歌である。〈詩と音楽〉というなら、朗読のための曲もあるのだが、それはまだ、当時は意識されていない。一九八三(昭和五十八)年から伊福部の取材を始め、力のなさから出版社も二転三転し、十四年がかりで『音楽家の誕生』を新潮社から上梓した。
 伊福部に関する取材をするため、札幌駅前のホテルに泊まり、窓の外数十センチ先は隣のビルの壁、電気を消せば真っ暗という部屋で思いを巡らせた。凍った地面に足を滑らせて携帯したコンピュータを壊し、取材に協力してくれた古書店の紹介で北大の学生に学生証を借り、生協でコンピュータを安く買ったこともある。そして何といっても、当時は北大教授だった伊福部の甥、伊福部達に会って、貴重な資料を提供してもらうなどできた。
 私は、教養主義が自分には向いていないと思っている。知識の多寡に重きを置いていない。知らないことは私にとって恥ではない。何を創作するかの方が大事だ。音楽研究、音楽評論の友人、知人は多く、その人々の仕事を否定するものではまったくないことをお断りする。しかし私の心に、調べているだけではいけないという気持ちが生まれた。そうでなければ、永久に、作曲家や演奏家の後を追うだけになってしまう。うぬぼれと受けとめられたくないが、具体的にいえば、伊福部の背中を見るだけで終わってしまう。どの作曲家と共同作業をしても同じことだ(具体的に、そのような経験をした。創作者について書いているだけでは、創作者のわがままより先に決して出られないのである)。
 田中修一は、少年時代からすすんでギターを弾き、伊福部の『シンフォニア・タプカーラ』を聴いて衝撃を受け、『古代日本旋法に依る蹈歌』(67)など、伊福部のギター曲を弾きこんだ上で、伊福部に作曲を学ぶようになった。
 酒井健吉は、長崎にあって伊福部を慕い、伊福部の曲を演奏することを前提に、kitara音楽研究所を設立した。伊福部の指示を受け、二〇〇五(平成十七)年の第一回演奏会で、『交響譚詩』を連弾版に編曲して初演している。
 ヴァイオリンの戸塚ふみ代は、所属する名古屋フィルハーモニー管弦楽団で『管絃楽のための「日本組曲」』を演奏し、また独奏者としては、『ヴァイオリン・ソナタ』を演奏するなど、伊福部の曲に強い共感を抱いていた。
 橘川琢の姿を、二〇〇六(平成十八)年二月、伊福部の葬儀で見た。第六回から参加の清道洋一は、生前の伊福部と交わした言葉を、作曲をする支えにしているようだ。第八回から参加の今井重幸は、戦後間もなく伊福部に師事した、いわゆる〈古弟子〉の一人である。第十回から参加の根岸一郎は、トロッタで伊福部の歌曲を中心に歌っている。そして演奏家には、伊福部が学長を務めた東京音大の関係者が数多い。
 ここに記したのは、それぞれと伊福部の関わりだが、当然、伊福部とは関係ないところで、個々の音楽の歴史はある。伊福部との関わりを強調することで、トロッタの性格づけを行おうとするものでもない。私にしても、トロッタは、二〇〇五年から新作詩を隔週で発行する「詩の通信」の舞台版だと思って始めたので、むしろそちらを主に、伊福部との関わりは従の位置にとどめておく方がよいかもしれない。しかし、あえて書いたのは、やはり更科源蔵と伊福部の関わりを重視し、彼らの四曲をトロッタで演奏することになる以上、記述することは避けられないと思ったのである。

 改めて、『ひよどりが見たもの』について書く。甲田潤による曲がいまだにできあがらない間、二〇〇六(平成十八)年四月に、酒井健吉の曲が完成した。「夜あけ」「翔びたがりの子」「おかあさん、ごはん」「ひよどりの恋」「あの山の向こう」「木が死んでゆく」「あの星をめざして」からなる、全七曲。初演は、同年七月十五日(土)、名古屋市音楽プラザ 音楽サロンで行われた「名フィルサロンコンサート 詩と音楽」において。戸塚ふみ代の尽力により、プログラムは次の内容になった。

【作曲】酒井健吉
【曲】『朗読、ソプラノ、ヴァイオリン、ピアノの為の「トロッタで見た夢」』『ソプラノとヴァイオリンとピアノの為の「兎が月にいたころ」』『ヴァイオリンとピアノのための狂詩曲』『朗読とヴァイオリンとピアノの為の「ひよどりが見たもの」』
【ソプラノ】石川宏子
【ヴァイオリン】戸塚ふみ代
【ピアノ】山本敦子
【朗読】木部与巴仁

 当日プログラムを抜粋する。
「(前略)せっかく書いた詩を眠らせておくのはかわいそうだと、機会が得られるたびに、私自身が朗読をしている。全篇を詠むことも、一部だけ詠むこともある。今回は、ヴァイオリンおよびピアノと一緒の朗読で、詩というものの音楽性を、より感じていただけるのではないかと思っている。/私の詩には、鎮魂のテーマを担ったものがいくつかある。電線に宙吊りされて亡くなった鴉(からす)を詠んだ、『夜が吊るした命』が代表例で、『ひよどりが見たもの』にも、鎮魂の詩篇がある。詩には、人であれ動物であれ、亡くなったものの魂を鎮める役割があると確信するから、私はそのような傾向の作品を書いている。(中略)/七篇のうち、全体の核として、一番に書き始めたのは、『ひよどりの恋』であった。合唱のための詩なのだが、この歌だけはソプラノとヴァイオリンとピアノで聴きたいと思ったのだ。今回は私の男声で朗読されるが、いつかは女声の独唱曲として聴いてみたい」
 東京近郊に、自由に朗読できるオープンマイクの場がある。カフェやレストランが主な会場だが、そこで何度か『ひよどりが見たもの』を詠んでいた。ここに題をあげた『トロッタで見た夢』や『兎が月にいたころ』『夜が吊るした命』も詠んでいた。そのような過程を経て酒井健吉が作曲してくれたのだから、嬉しさもひとしおだった。トロッタの代表曲だと思うし、酒井と私の代表曲だとも思う。そして酒井の曲から四年が経った二〇一〇(平成二十二)年には、田中修一によって、七曲のうち「おかあさん、ごはん」と「翔びたがりの子」が選ばれて、歌曲になったのである。(つづき)


 【連載・四】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でる行為 二.詩と音楽の関係を考察する行為 三.トロッタが行われる場所 四.トロッタを行う人々、その場を共有する聴衆・観客・支持者

 詩『ひよどりが見たもの』を書いた時の、私の基本的な態度を記しておこう。それは、鳥も人も、命の重みにおいて何ら違いはないということ。
 私が住んでいるのは東京だが、東京にいる鳥にも人にも違いはない。同じ東京の住人である。「詩の通信」に発表した初期の詩に、『ごきぶり』や『蝶』『みみず』『鼠』などがある。それらの詩の主人公も同じで、全員が東京の住人だ。私はそんな彼らに共感している。そのために詩を書きたい。そのような詩を音楽として、トロッタで発表していきたい。
 東京に渡って来たひよどりは、ビルの谷間を飛び、電線に停まり、汚れた空気を吸っている。山にいればいいのにと思う。しかし、それは人も同じだ。止むに止まれぬ様々な、それぞれの理由があって、ひよどりも私も東京にいる。ごきぶりも蝶もみみずも鼠も、初めからコンクリートに囲まれて住んでいたわけではない。だが、いつの間にかコンクリートに合わせて住み、住めるようになった。山や海には生きてゆくために役立つ何かが生まれるが、コンクリートからは何も生まれない。せいぜいほこりが溜まってゆくだけである。辛いし虚しいが、そうした空間を共有する者として、例えば『ひよどりが見たもの』を書いたのである。七つの詩のひとつに、「あの山の向こう」がある。こんな始まりだ。

今日も私たちは飛ぶ
ビルの谷間を
 コンクリートの斜面を
ガラスに姿を映し
ベランダで翼を休めて
今日も私たちは飛んでゆく
自動車を追いかけ
 電車と競争し
看板をながめ
いろんな音を聴きながら
アスファルトに覆われた
黒い地面の上を飛ぶ
私たち 都会のひよどり

 もちろん、ひよどりにとっても、ごきぶりやみみず、鼠にとっても、東京という生活環境は、私が考えるよりはるかに過酷だろう。人は彼らを駆逐しようとしている。薬屋では、彼らを殺すための商品が山積みになっている。にもかかわらず生きているのだから、私が考えるより、彼らがはるかに賢いことも想像できる。
 仕事部屋の窓から顔を突っこんで様子を探っていた狸、明かりが点いた部屋をめざして夫婦で飛びこんで来たごきぶり、親愛の情を示したつもりが馴れ馴れしくするんじゃないと歯をむいて飛びかかってきた鼠、灼熱のアスファルトを横断しようとしてかなわず悶え死んだみみず、ただ一輪の花があればいいと乾いたアスファルトの上を飛び続ける蝶たちに、私は心を寄せる。具体的に彼らを描こうとするのではなく、そうした彼らの側に立つトロッタでありたい。『山田くんのお母さん』では、人を犬に変身させている。犬になっても、山田くんにとってはお母さんであることに違いない。
 小松史明にチラシを依頼する時、ひよどりの背後に街を入れてほしいといったのは、これが理由だ。小松はその期待に応えてくれた。『ひよどりが見たもの』は、まず酒井健吉が七つの詩を曲にし、続いて田中修一が二つの詩を曲にした。彼らに、このような私の思いは伝えていない。いわなくても、わかるものは詩からわかるだろう。何より大事なのは、作曲家が、私という他人の詩から、彼ら自身の思いをくみ取って曲にすること。冷静にいえば、くみ取れたものだけが音楽になる。詩と音楽の関係は、誰の場合も同じだが、詩は詩人のもの、曲は作曲家のもの。同じ詩も、作曲家によってまったく違う曲となる。私が詩に託した何かは落ちるだろう。その代わり、私が書かなかった何かが生まれる。
 田中修一の『ひよどりが見たもの』二曲は、ソプラノ柳珠里の歌と、森川あづさのピアノによって二○一○年十二月に録音されたが、公のものとはなっていない。いずれ、舞台で演奏しなければと思っている。

 第二回演奏会が終わった翌日、取材の依頼を受けた。雑誌「洪水」の編集者で、詩人でもある池田康から。「洪水」の副題、テーマは、トロッタに共通する、〈詩と音楽のための〉だ。二○○七年一月、創刊号に先立って発行された〈零号〉で、池田は伊福部昭を特集した。その縁で、『音楽家の誕生』などを書いた私の名を知ったものか。新宿で会い、トロッタの話になった。第二回演奏会を聴いてもらったのだが、その際に何かの感触を得たのか、会員による座談会を行ない、「洪水」に掲載してはどうかと勧められたのだ。
 池田の第二詩集『星を狩る夜の道』を受け取ったのは、初顔合わせの日と記憶する。劇作家、清水邦夫の献辞が添えられていた。『朝に死す』『狂人なおもて往生を遂ぐ』『幻に心もそぞろ狂おしの我ら将門』『楽屋』『タンゴ、冬の終わりに』などの作者と結びつく者として、私は池田を意識した。
 戯曲の文章は当然、発声されるものである。黙読の文章ではない。詩は詠まれなければならない、詩の先には音楽もあると思う私の考えに共通する。私自身、かつては戯曲を書き、芝居の舞台に立った。舞踊家たちの存在も、ある時期、非常に近いものだった。私にとって、詩と音楽と演劇と舞踊は、別個に存在していない。歴史的に見ても、ひとつになる機会は多かった。詩は文学に含まれながら音楽に近く、音楽は舞踊と深く結びついて、演劇は詩も音楽も内包する。演劇を文学に喩えれば、舞踊を詩ということも可能だろう。いずれも、機械に頼らなくても可能な表現で、人間にとっては古い芸術様式である。
「洪水」のための座談会は、二度に分けて行われた。まず、第三回演奏会の当日、二○○七年五月二十七日の朝。会場に近い喫茶店で。曲数が増えた今ではとてもそんな時間を取れないが、この時は五曲で、作曲者は三名、演奏者は四名であったから、まだ余裕があったと思われる。続いて、演奏会の翌日、二十八日。池田が渋谷の喫茶店に個室を取ってくれ、そこで話しができた。全員が一堂に会することはできなかったが、個室の座談会には、田中修一と私、この時が初参加だった橘川琢が出席した。酒井健吉は長崎からの上京がかなわず、次回第四回に合わせて上京した際、池田が個別に取材した。また演奏者を代表して、ヴァイオリニスト戸塚ふみ代の言葉も掲載される。
 座談会は、二○○七年十二月発行の〈第一号〉に掲載された。「討議 トロッタの会/言葉と音楽の激突」とあり、〈激突〉ではないと思うものの、それは池田の解釈だから異論は述べない。激突して分かれる場合もあれば、激突して溶け合う場合もあるだろう。
「現代で言えば若者たちのラップとか、従来の音楽の形とはちょっと違ったようなストリートミュージシャンみたいな人たちも出てきていて、詩を実際に自分で発語するという行為が好き嫌いはあるにせよ行われてきていて、それを何の不自然さもなく行っている。そこには非常に生活感のある音楽が誕生しているなと僕は感じていた。伊福部氏の作っている曲はクラシックの技法を用いてやっていることなんですが、ラップの人たちにもラップの技法をというのはあるんでしょうが、そういうものが僕の中では全然分け隔てなく存在しているなということを感じていたわけです。そういうのを自分なりに追究してみたいというふうに思い始めたのが、『トロッタの会』をするずっと以前からあった僕の中のテーマでした」
 自分の言葉とは思いたくない稚拙な言い回しだ。原稿は確認しているから、喋った時の記憶が鮮明で、これでいいと思ったのだろう。五年も経つと他人の言葉のように感じる。しかし、今では口にしなくなったことが記され、当時の考えを知ることができる。それはラップということ。私は初期の自分の詩を〈ラップ詩〉と呼んだ。歌のような抑揚がなく、音楽に乗せ韻をふみながら語ってゆく。リズムに乗せる、はずす。メロディを用いて歌に近づける、あえてメロディを用いない。その場その場で自由自在に歌い、語る。ライヴ・ステージにはダンスもあり、ヒップホップ、ラップ・ミュージックという場合は絵画の要素も欠かせない。その音楽は黒人たちの生き方や生活環境から生まれたもので、非常に高度な技法を有するから、私などがラップ詩と呼ぶのは、大変におこがましい。しかし私は、言葉のある音楽としてのラップに、強い共感を抱いた。(つづく)


 【連載・五】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でる行為 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタを行なう場所 四.トロッタを行なう作曲者および演奏者、その場を共有する聴衆・観客・支持者

 記録していないので間違えそうだが、同じ発言を聞いた人は少なからずいると思う。
 伊福部昭は、ラップのような表現にも関心を示し、素直におもしろいといえる人であった。私は観ていないが、ラップを用いたあるCMを、音楽的に興味深いものと評していた。ラップを自分の表現にはしないだろうが、他人がすることには寛容であったと思う。聞いた私に、ラップに対する経験や知識がないので、細かく問うことはできなかった。しかし、私が自分の詩をラップ詩といった場合の潜在意識に、伊福部の発言があったかもしれない。
 あるラップ・ミュージシャンのCDを求めたところ、ライナーノーツに手書きの文字がびっしり印刷されていた。ミュージシャンの詩である。心象やストーリーを述べるのではない、自分の考え、思いを延々と語っていた。詩になりそうにない内容だが、そんなことを躊躇する前に、彼は語っている。詠っている。音楽に乗せ、音楽として語っている以上、それは詩であろう。〈うた〉なのだから。
 日本工学院専門学校で文章の書き方を教えていたころ、私は授業で繰り返し、物語に言及した。物語は、ものを語ること。ものとは、日本語において森羅万象、何でもさす万能の言葉である。人も、〈もの〉である。人物という。動物や植物も、ものである。食べ物も、入れ物も、飲み物も、着物も、失せ物も、建物も、読み物も、まがい物も偽物も、廃棄物も無機物も、見ものも聴きものも。物になる、物わかり、物は考えよう、物入り、もの狂おしい、すべて、物。だから物語とは、この世にあるなしを問わず、何ごとでも語ること。物という言葉で語れないものは、ひとつもないのである。

「洪水」第一号に掲載された、作曲家たちの言葉。
「……ハイドンという作曲家には弦楽四重奏がたくさんある、ベートーヴェンにはピアノソナタがたくさんある、ドヴュッシーは歌曲、こういうのをみんな自分の作曲の実験の場としてやっていたわけです。伊福部先生のような近代の日本の作曲家になりますと映画音楽という実験の場があったわけです。ところが僕らの世代になるとなかなか自分を試す場所がない。僕らには実験の場所が全然ないなと常々思っていたのですが、トロッタの会はいい意味での実験の場としてやらせていただければと思っています」(田中修一)
 伊福部昭が存命の当時は、田中の口からこんな言葉を聞いたことがなかった。こうもいっている。日本人の詩にはなかなかいいものがない、だから歌曲が少ない。その田中が、私の詩で、「ムーヴメント」シリーズを書き続けてくれることになる(二〇一二年十月現在、六番まで演奏し、七番も既に完成している。トロッタ16では「エスノローグ」という新シリーズも始める。源実朝の歌、萩原朔太郎の詩に作曲する田中が、である。詩を書く者として、ありがたいという以外の言葉はない)
「……通常音楽会という形で詩と音楽の融合が目的とされるとき、それぞれが対等に主張するということは意外と少なくて、最終的には詩もしくは音楽どちらかの強さに収斂されてしまう傾向があると思います。トロッタの会のお誘いを受けたとき、詩と音楽とがほとんど対等な形で会の時間の中で存在してもいいんだという、そのことがとても面白かったんです。ひとつの芸術の分野だけで時間を作るのではなくていろんな芸術の分野が同時進行的にある面白い場というか空間を作り上げているという感覚です」(橘川琢)
 橘川と初めて会話したのは、新宿のデパートにある喫茶店である。覚えているのは、二〇〇六年七月、名古屋市音楽プラザで行った「名フィルサロンコンサート」の、酒井健吉作曲『ひよどりが見たもの』のビデオを観てもらった時のこと。こんな音楽を書いてみたかったと、橘川はいった。その後、橘川は、私の詩と、花道家・上野雄次の花いけを欠かせぬ要素とした、〈花の三部作〉など一連の花シリーズを作曲することになる。コラボレーションではなく、花を音楽として成立させたのは、橘川が最初であろう。
「……木部さんのほうから、こういう詩があるんだけど歌曲にならないかといただいたのが『トロッタで見た夢』という詩だったんですね。それで作曲を始めたんですが、歌曲になるような詩ではなかったんです。モノオペラとかには向いているような感じだけど、普通の歌曲にはならないなと思いまして、苦しみながら書いていました。あまりにも僕の作曲がおそいものですからピアニストが私はやれないというようなことを言ってきまして、初演が流れそうだと木部さんに申し上げたところ、そしたらこれを朗読して、いままで書いた音楽をその伴奏というか、朗読とからめて転用できないものかと相談を受けたんです。それが朗読に音楽をつけるという行為の一番のきっかけですね」(酒井健吉)
 酒井健吉のおかげで、私は長崎の舞台に立つことができた。名古屋でも酒井の曲を演奏している。酒井の曲はイタリアで演奏され、彼を媒介にして、イタリア人ファブリチオ・フェスタの曲をトロッタで演奏することができた。それらはすべて、音楽の力が、成し得たことである。

「やはり音楽は生のものであるから、自分自身も生身になりたいということがあります」
 私の、言葉である。
「……僕自身を楽器にしたいという気持ちが非常に強いんですね。声を出す発声体になりたい。理屈とか理想とかそういうことは二の次。……僕が楽器になるということは思想とか哲学を全部捨てるということなんです。極端なことを言うと、思想的に全然違うものだって歌ってもかまわないと思っているんです。僕自身の思想は別に置いておいて、どこまで自分を楽器にできるかということがひとつのテーマなんです」
 ここにつけ加えることは何もない。さらに、違うようだが似た発言をしている。
「……芝居も同じだけど、芝居を戯曲として書く、それを舞台に乗せる、音楽も詩を書く、それを舞台に乗せて歌うなりするということで、当然、差なり違いなりはあってしかるべきだと思う。それは変えても僕は何の不満もないし、むしろ変えてそれで生きるんなら変えてくださいという積極的な立場なんです……」
 さまざまな考え方があるだろうが、つまり私が大事にしたいのは、同じ時代を生きる作曲家と共同作業をする以上、話し合いを重ねて仕事をしたいということ。詩を渡して、これは一字一句変えないでほしいと宣告し、曲の仕上がりを待つ。そのような密室的な関係ではなく、こう書いたなら、こう変えてこう音楽にする、それならばこのように詠み、歌い、演奏する。そういった、生きているからこそのやり取りがほしい。モーツァルトの音楽を演奏しても、彼とはもう話しができない。しかし、同時代の作曲家とはできる。その結果、喧嘩別れしても、生きているからこそ喧嘩できたと思いたいのである。

 演奏者に言及しよう。曲は作曲者のものだが、聴こえて来る音楽は、演奏者のもの。彼らの表現なのである。弾く人間によってまったく違う演奏になる方が、聴く側はおもしろい。
 第一回から現在まで欠かさず参加している参加の戸塚ふみ代は、名古屋フィルハーモニーの第一ヴァイオリン奏者。私が伊福部昭について書いていたパソコン通信のメールマガジンを読み、連絡を取り合うようになった。
 一回と二回に参加したソプラノの西川直美は、作曲家、甲田潤の紹介である。私の眼から見て、甲田が音楽全般の師であると映る。甲田の導きで、伊福部の歌曲を歌ってもいる。トロッタに参加していた時は、東京音楽大学の大学院生であった。
 やはり一回と二回に参加したピアノの今泉藍子は、戸塚と同じ名古屋の出身。愛知県立菊里高校を経て、登場は東京藝術大学の三年生だった。戸塚の知人の紹介だ。各回の五曲を誠実に弾き続ける姿が印象に残っている。
 第二回には、アルトのかのうよしこが参加した。私がトロッタ以前に始めた、カフェ・谷中ボッサの「声と音の会」で知り合った。当時は東京藝術大学に在学中で、かのう自身、演奏会の制作や演出に意欲を持っていた。(つづく)


 【連載・六】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でる行為 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタを行なう場所 四.トロッタを行なう作曲者および演奏者、その場を共有する聴衆・観客・支持者

 谷中ボッサの「声と音の会」に触れよう。ボッサは上野桜木の交差点に近いカフェだ。ボッサはボサノヴァのBOSSA。ポルトガル語で〈隆起〉や〈こぶ〉、さらに〈傾向〉〈波〉を意味する。〈新しい=NOVA〉と組み合わせ、新しい傾向とか感覚を意味するブラジル音楽の一ジャンルである。名前のとおり、オーナーは音楽を含むブラジル文化の愛好家だ。オープンは、二〇〇四年。
 初めてボッサを訪れたのは、同年十月である。近くのギャラリーに足を運んだ帰り道、昔ながらの民家を改装し、大きなガラス窓が印象的なカフェに出会った。足を踏み入れ、まず思ったのは、何もない空間、ということである。床はコンクリートの三和土(たたき)、白く塗られた壁、古い家具を利用したテーブルと椅子、天井板はなく柱がむき出しになっている。質素だが、ほどのよい気配にみちる。何もない空間に何かを生み出すとは、私が最も大切にする考え方だ。
 六畳一間でも何かを作り出すことができる。一人でも二人でも、友人を呼んで詩を聴いてもらえばいい。大きな声を出せなかったり無闇に動き回れないなどの制限はあるが、どんな大ホールにも制限はついて回る。
 ボッサで何かをしたい。当然、朗読を主体にした会になるだろう。ただ詩を詠むだけでなく、音楽も組み合わせたいと思った。しばし考える時間があり、オーナーには二〇〇五年の暮れに打診をして了解を得、二〇〇六年から「ボッサ 声と音の会」を始めることにした。第一回のゲストには、詩人、歌手、俳優、映像作家のピエール・バルーを迎え、以降、二〇一一年までに七回を数えた。トロッタの方が後で始まったのに、今ではボッサの会の倍以上になった。これには様々な理由があるが、後述したい。日時とテーマを記しておく。

vol.1「詩が生まれる」(06.2.10)
vol.2「旅をする詩、音楽」(06.6.10)
vol.3「島の音楽、島の物語〜アリステア・マクラウドの世界〜」(06.12.2)
vol.4「詩と音楽を歌い、奏でる」(08.9.28)
vol.5「音の形、詩の形、夢の形/扇田克也+木部与巴仁 ユメノニワ」(09.9.30/10.11)
vol.6「木部与巴仁solo・隠岐のバラッド」(10.12.12)
vol.7「うつろい/橘川琢音楽作品個展V 写真と音楽で描く−うつろいの世界」(11.10.7)

 ピエール・バルーは、旅をしながら音楽活動を続けている。古い言い方をすれば、吟遊詩人である。詩を織り込んだエッセイ『サ・ヴァ、サ・ヴィアン』(*〈行ったり来たり〉の意味)が二〇〇六年の四月に求龍堂から刊行される、いいタイミングだった。ブラジル音楽の貴重な記録であるピエール・バルーの自主映画『サラヴァ/時空を越えた散歩、または出逢い』が二〇〇三年にDVD化された時、私はその解説を書いたという縁もあった。
 第二回のゲストは音楽学者の細川周平で、彼の友人、打楽器の内藤修央とギターの石井康史が参加してくれた。細川は南米やヨーロッパに繰り返して旅をしているが、私は旅をしない。細川と共演する以上はと、あえて旅の詩を書いた。内藤は後に、十回、十一回、十二回のトロッタに出演。石井は二〇一一年十二月十七日に五十二歳で亡くなり、共演はこれきりで終わった。第十六回のトロッタで、田中修一の作曲による追悼曲を演奏する。
 第三回は、スコットランド移民の子孫で、カナダ人作家アリステア・マクラウドの作品を朗読した。彼は自分が暮らすケープ・ブレトン島の音楽について、愛情をこめて書き続けている。フィドルの磯村実穂と、フィドルおよびギターのジム・エディガーが出演。現地に詳しい澤田幸江の解説があった。また私は、二〇〇五年に翻訳が出た長編『彼方なる歌に耳を澄ませよ』(新潮社)の書評を書いている。
 第四回は、〈詩と音楽を歌い、奏でる〉というトロッタのテーマを、そのままボッサのテーマとした。作曲者は、清道洋一、酒井健吉、ファブリチオ・フェスタ。出演者は、戸塚ふみ代(vn.)、田口薫(vn.)、菅原佳奈子(va.)、對馬藍(vc.)、森川あづさ(鍵盤ハモニカとナレーション)という、全員がトロッタの関係者だった。ボッサの第三回と第四回の間にトロッタが始まり、そちらは既に六回を数えていた。しばらく休んでいたボッサにトロッタの要素が流れこむ形になった。
 第五回は、造形作家の扇田克也の個展「ユメノニワ」を二週間行ない、そのオープニングとクロージングに演奏会を行なった。扇田とは、二〇〇八年三月、日本橋茅場町の森岡書店での『光のある部屋』、同年十一月、日本橋のギャラリーこちゅうきょでの「扇田克也展 Ohgita Katsuya beyond expression」、さらに二〇〇九年三月に初台のスタジオ・リリカでの「橘川琢個展・花の嵐」と、さまざまな形の〈共演〉をして来た。この時の作曲者は、橘川琢と清道洋一、出演者は田中千晴(fl.)、平昌子(fg.)、仁科拓也(va.)、森川あづさ(口琴と鍵盤ハモニカ)というトロッタの関係者と、第二回以来の共演となる内藤修央(perc.)だった。書いておかなければならないのは、扇田克也の紹介によって、花道家、上野雄次とのつながりが生まれたこと。上野は今や、トロッタに欠かせない表現者である(上野とはボッサにおいて、翌二〇一〇年九月から十月にかけ、毎日違う趣向の即興パフォーマンスをする『花魂 HANADAMA』を行なった)。
 第六回は当初、私のソロをという形で発想した。だがトロッタ同様、誰かと共演した方が広がりが出ると考え直したのである。橘川琢、清道洋一、田中修一による四曲を、隠岐に配流されて海賊放送のDJとなった後鳥羽上皇が紹介してゆく趣向にした。上皇の傍では、ギタリスト萩野谷英成が〈楽士・英成〉として演奏を行ない、詩人の生野毅が、佐渡に配流された〈順徳上皇〉としてゲスト出演をした。DJの曲紹介という形式だから、いつ、どこでも、何曲でも演奏できる。シリーズ化できればと思っている。
 第七回は、橘川琢の個展とした。旧知の写真家、西村陽一郎の個展を一週間行なう。そのオープニング演奏会という性格を持たせたのである。この年まで、橘川は四年連続で個展を行なっており、二〇一一年が五回目となった。テーマの「うつろい」は、私の詩による彼の詩歌曲『うつろい』から採った。出演者は、戸塚ふみ代(vn.)、仁科拓也(va.)、森川あづさ(pf.)。本来なら第九回のトロッタで初演されるはずで、しかしかなわなかった『1997年 秋からの呼び声』を、この日に初演できた。この曲の詩は、橘川自身が書いた。自分の詩を詠むよりよかったのでは、といわれたことは記憶から消えない。

「声と音の会」が始まった二〇〇六年以降、さまざまなことがあった。もちろんトロッタを始めたことは大きい。トロッタにまつわる様々なことは、すべてが新しいことで、この連載をもってしても、書き尽くせるものではない。トロッタについては第三回まで書き進んでいるが、それぞれの回で書き落としていることが、既にたくさんあるのだ。
 三回までの各回には音楽のない朗読作品があり、しかし、それら『祈り 鳥になったら』『鼠戦記』『大公は死んだ』は、その後、酒井健吉、橘川琢、田中修一によって曲になったこと。一回から続けて六回まで、〈協力・甲田潤〉の文字をチラシに入れ続け、甲田潤が曲を出品したのは七回と八回であること。第三回で初めて出演者のキャンセルがあり、それがチラシ印刷前であれ印刷後であれ、今日まで続く(誰のどんな会にもつきものだが)問題になり続けていること、など。
 さまざまある中で、特に小さくないことと思うのは、ギターとの出会いである。今のトロッタに、萩野谷英成のギターは欠かせない。ボッサの空間には、ブラジル文化に対するオーナーの志向もあって、ギターがふさわしい。「声と音の会」には、ピエール・バルー、石井康史、ジム・エディガー、萩野谷と、四人のギタリストが登場した。ピエール・バルーの映画『サラヴァ』には、名手バーデン・パウエルを始め、ギターを抱えた音楽家が何人も現われる。ギターのすばらしさ、特に詩との相性のよさを教えてくれたのが谷中ボッサだといっても、過言ではない。(つづく)


 【連載・七】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でる行為 二.詩と音楽の関係を考察する行為 三.トロッタを行なう場所 四.トロッタを行なう作曲者、演奏者、場を共有する聴衆・観客・支持者などすべての関係者

 酒井健吉と初めて会ったのは、二〇〇二年九月四日、東京都交響楽団が伊福部昭の『日本狂詩曲』を演奏した、池袋の東京芸術劇場であった。私の姿を見て、話しかけてくれた。三年後の二〇〇五年一月二十一日、酒井は長崎でkitara音楽研究所の第一回演奏会を開き、これを契機として、翌年に発想され二〇〇七年に第一回演奏会を開いたトロッタの会を、共同運営することになる。
 田中修一と初めて会ったのは、彼の『右大臣実朝の和歌による琴歌「七夕」』が、水無月の会によって芝ABCホールで演奏された一九九七年六月十四日、その打ち上げ会場であった。出版されたばかりの『伊福部昭・音楽家の誕生』について、彼は思いを述べてくれた。トロッタへの参加を求めたのは、二〇〇六年一月四日に行われた、ピアニスト野田憲太郎のリサイタル会場、中目黒GTプラザホールである(本連載の一回目に「あるピアニストのリサイタルに出向いたところ」と記した)。
 橘川琢と初めてトロッタについて話し合ったのはいつだろうと思い、電子メールの記録を調べたら、二〇〇六年十一月六日であった。音楽評論家の西耕一に紹介されてメールを送った。西からは、橘川は自作の詩を用いた曲を書く、と聞いていた。翌七日、橘川から返事が来て、約二週間後の十九日、新宿で午前十一時に会うことになった。
 時間まで記したのは、夜だとばかり思いこんでいたのに、メールを確認すると午前十一時に会っていたため。小田急百貨店の窓から見えた景色を夜景とまで思いこんでいたのだから、記憶は当てにならない。さらにいえば、橘川と会ったのは第一回トロッタの後という印象があったが、これも違っていて、トロッタが始まる前の年だったのである。
 橘川には、名フィルサロンコンサート「詩と音楽」で演奏された酒井健吉作曲の『ひよどりが見たもの』などを聴いてもらった。橘川は、『1999年 秋からの呼び声』などの参考音源が入ったCDを用意してくれていた。後に、谷中ボッサの第七回「声と音の会」で初演される曲である。一九九七年の秋、二十二歳の橘川がヨーロッパを一人旅した時の体験、実感を、詩と音楽の曲にしたものだ。大きな編成の曲として書かれていたが、その時点では、生の楽器による演奏はまだ行われていなかった。
 橘川は、トロッタへの参加を確約してくれたが、一回と二回は見送り、第三回から曲を出品することになる。二〇〇六年十一月に会っていたのに、翌年二月二十五日の第一回演奏会に参加しなかった理由。それは二月十七日に、野田憲太郎を独奏者とする、「橘川琢 ピアノ独奏曲 作品個展」を、控えていたからだろう。
 会場は、ティアラこうとう 小ホールであった。私も足を運ぶことができた。橘川は曲名とともに常に作品番号を記すが、その一覧によると、第一番は、二〇〇四年七月一日に初演された『邦楽管絃合奏曲第一番《幽明》』である。第一回個展には、一九九七年から二〇〇七年に作曲したピアノ曲だけを集めている。一九九七年から作曲を始めていたが、作品番号第一番は二〇〇四年の曲だということ。ブランクの時代に、橘川の思いがこもっていよう。個展のチラシを写してみる。*印は作曲年である。

『トッカータ《四つのオブジェクション》』 Op.11*1999-2004
『叙情組曲《日本の小径(こみち)》』Op.12*1999-2006
『ピアノ組曲《古い書名》』Op.13*1999-2005
『トッカータ《沈黙のシルエット〜ジョルジ・リゲティの追憶に〜》』Op.8*2006
『ピアノ組曲《ビオトープ》』Op.14*2004-2006
『トッカータ《モノクローム・ダンス》』Op.15*1997-2007

 そして招待作品として、橘川の師、助川敏弥の『さくらまじ』『Nachtlies 夜のうた』が演奏された。チラシの裏面に、こんな言葉が書かれている。

『音楽は常に気高く、情熱的、そして内政的で在れ−』
自己超克、抒情、静謐、情熱−音の青春群像、その感性の収穫。

 自分自身に言い聞かせる、橘川の信念だろう。確かに、彼の音楽はそのようなものかもしれない。

 酒井、田中、橘川、さらに振り返れば甲田潤がおり、より以前には伊福部昭がいる。トロッタは二〇一二年十二月に第十六回まで至る。多くの作曲家たちと、身近に接して来た。私にとって、作曲家との出会いは何だろうと考える。第一に書いておきたいのは、自分の詩を楽曲化してもらうためのパートナーとはいいたくないということ。伊福部昭についても、『音楽家の誕生』を書くための対象という、味気ない言い方もできるが、そうではない。あいまいだが、創作という人生を歩んでゆく、大切な鑑(かがみ)だと思っている。それは演奏家たちについてもいえることだ。私が詩を書いて作曲家が創った曲、あるいはトロッタが取り上げた曲を、演奏してくれる人々。とてもそんな表現では表せない。やはり、鑑であるといいたい。
 鑑は、彼女らや彼らの姿を見せてくれる。同時に、鑑に写る私の姿を、私自身に見せる。その逆もしかり。私を通して、作曲家や演奏家は自分の姿を見る。もちろん、私の生身を見る。どう写っているだろうと思う。どう写ってもいいと思う。ありのままの私を私より先に見ているのに、今さら何を取り繕うというのか。

 橘川琢といえば、忘れられない思いがある。これまでは酒井健吉にせよ田中修一にせよ、改変はあっても、私の詩だけを使って曲を書いた。橘川は、私の詩に彼の詩を合わせて作曲した。私の『夜』を『時の岬』に。彼の詩『幻灯機』を『雨のぬくもり』に。それぞれの題名を変えて組み合わせ、詩歌曲第一番とした。『1999 秋からの呼び声』などで自作の詩を曲に生かしていた橘川である。そうしたい気持ちは強いだろう。
 この点については、回が進むにつれ、より大きな局面と向き合うことになるが、作曲家が詩を書くのなら詩人はいらないのでは? と思ったことは事実である(橘川や、そのようにする作曲家を批判するのではない。作曲家の役割、詩人の役割を考えている)。
 トロッタにおける詩のあり方について、私の立場から述べたい。トロッタでは詩と書いて詞とは書かない。
 一般に、詩は文学、詞は音楽と解される場合が多い。
 声域からもメロディからもリズムからも自由で、発声してもいいし、しなくてもいい。何かのためではなく、純粋に、言葉による表現のために書かれるものが詩。これに対し、歌うために書かれる(とされる)詞は、声域、メロディ、リズムなど多くの制約がある。楽器を伴う場合は、発声する者の好き勝手には進行できない。
 しかし、私はどちらでもいい。外来語の漢字で日本語を縛りつけることはない。読み、詠む、あるいは歌うための言語表現が先にあり、後から詩・詞と定義したのだろうから、所詮は後づけだ。ヒトという言葉が先にあって人間が生まれたのではないように。
 どちらでもいいといいながら、なぜ詩と書いて詞とは書かないのか。その点にはこだわりがある。私はまず、言語表現として完成した詩を書きたい。
 私にとって、創作の出発点は書くことだ。音楽ではない。トロッタに携わる現在、振り返って残念な点であるとは思うが、私が根っからの作曲家、演奏家で、文字を書くことに興味を持たなければ、「詩と音楽を歌い、奏でる」トロッタを発想しなかったろうし、参加しなかったろう。したかもしれないが、今の私が抱く飢餓感からは遠かったと思う。詩を書く者、作曲をせず演奏をしない、詩しか書けない者として何ができるかを考えて私はトロッタに行き着いた。
 詩がどのように音楽になるかを見たい。詩が音楽になる場に立ち会いたい。古典にせよ現代作品にせよ、詩と書いても詞とは書かないはずだ。詞集とも書かない。そのような言語表現が音楽になればいいし、ならないなら、なぜならないかを考えたい。作曲家に依頼されて書く場合は、もちろん音楽のための表現になるが、それでもまず、言葉として完成させたい。その意味で、トロッタは詩と書いて、詞と表記しないのである。(つづく)


 【連載・八】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でる行為 二.詩と音楽の関係を考察する行為 三.トロッタを行ない、行われる場所 四.トロッタを行なう作曲者、演奏者、場を共有する聴衆・観客・支持者、トロッタを意識するすべての人々

 トロッタとはどういう意味ですか? と、よく問われる。意味はないし、意味はわからない、というのが本当だ。酒井健吉の曲『トロッタで見た夢』のもとになった詩に現われる、レストランの名である。東京の新橋にある。

『もっとはやく
あなたに会っていればよかった』
目の前の女がつぶやいた
若いとはいえない、
それどころか
 母親のような年齢の
私に向き合った女のつぶやき

ガラス越しに見える、港の風景
錨を巻きあげた船が
白い航跡を描きながら、
出ていこうとしている
女の言葉を思い返しながら
私はその風景を、
 ぼんやりと見ている

ここは新橋にあるレストラン
「トロッタ」
港の見える古びたレストラン
灰色の空に覆われた、冬のある日
ぬかるんだ道に
 足をとられながら
あてもなくたどりついた私を
女は待ちわびていたのである
いったい、いつから?
切なげな目に誘われて、
私は窓辺の椅子に腰かけた
  (『トロッタで見た夢』より)

 これは夢である。目が覚めてすぐ、詩にした。深く考えることも書いた。見たまま、夢で体験したままを書けばよかった。二〇〇一年一月のことだ。そして練習室を予約する時など、便宜的に「トロッタの会」名義を用いていた。短くて覚えやすく、新しい会を発足させる時には、「トロッタの会」を名乗ることに何の躊躇もなくなっていた。「トロッタ」とはどういう意味かと、各国語の辞書を引いてくださる方がおられるので恐縮してしまうが、真実は、何の意味もないのである。
 酒井健吉が、これを曲にして初演したのは、二〇〇五年八月十三日(土)。彼が主宰する、kitara音楽研究所の第二回演奏会「描かれる音楽−室内楽と絵画の融合−」が、その舞台だった。もともとはソプラノとピアノのための歌曲で、作曲が遅れ、本番に間に合わなくなったので、編成を変えた。ソプラノの田添千晴は同じだが、急遽、朗読の私とヴァイオリンの戸塚ふみ代が参加、ピアノは酒井自身が弾いたのである。これが、酒井健吉、戸塚ふみ代との、共同作業の始まりとなった。トロッタの始まりといってもいい。予定のまま歌曲として演奏されていたら、朗読、詩唱のための曲が現われるのは遅れていたかもしれない。(本番五日前に脱稿したので練習が間に合わなくなり、新たな編成で書き直して間に合わせたというのも面白い話である)
 今にすれば気負いだが、演奏会場で配るための印刷物を作って持参した。舞台に立つ予定はなかったので、印刷物で〃出演〃するつもりだった。結局は出ることになったから、過剰である。
 内容は、詩『トロッタで見た夢』についての短文、ラップ詩『歌う』、短編小説『「中央フリーウェイ」を書きたかった』、小説についての短文、詩『蝿』、「歌が、生まれる」という短文。「歌が、生まれる」という文章は、当時はこんなことを考えていたのかと、今の私の目にはおもしろい。
「唄うという言葉は、楽器や身体を打チ合フから起こったとも、言葉で何ごとかを訴フから起こったともいわれる」
 こんな書き出しで始まる。語源はどちらでもいい。しかし、訴フの方がそれらしい。まず訴えたいこと、歌いたいことがなければだめだと書いている。当然だ。その上で、詩および歌で、何ごとかを物語りたいという。
「日本語で物とは、森羅万象を指す言葉だ。それを語るのだから、物語るといえば、この世のありとあらゆる物を、言葉を用いて表わす行為になる。もちろん、訥々と語っていいし、それにも味わいはあるのだが、『平家物語』のように、楽器を伴い、歌を伴って行う物語りがある。むしろ、音楽性を有することこそが、物語本来の形ではなかったかと、私は思う。楽器や歌がなく、訥々と語っていても、人それぞれの調子が自然に生まれ、そこに音楽の芽を見ようとするのは、無理な話ではない。打チ合フや訴フを語源説とする以外に、ここでもまた、唄うという言葉、行為の発生が見られる」
 自身の文体を意識しているようで、気恥ずかしい。考え方の根本がどのあたりにあるかも、語源を探ったり、〃行為の発生〃という言葉を用いる点にうかがえる。自己模倣を、今の私は嫌っている。無知の中で七転八倒したいし、自分らしい上手さということから解放されたい。自分らしい下手さこそ、今の私はめざしている。それはともかく    、ここにある考え方は今も変らない。いちいちこんなことを考えてトロッタを開いているのではないが、当時はまだトロッタがない、つまり実践の場がないから、考えることに一生懸命だったのだろう。それこそ、訴えることに。同じ印刷物に載せたラップ詩『唄う』の方が、よほど嫌みがない。

誰のためでもなく
何かのためでもない
私はただ、音楽の神を想って唄う
どこかにきっといる、音楽の神に
頭を垂れ、素直な心をもって唄う
きっと聴いてくれる、
 聴いてほしいと願い
それが唯一、私が素直になれる時
素直になりたくて、唄うのだ
心を開き、身をあずけ
よこしまさのつけいる隙もなく、
 夢中になって
唄いたい、だから
誰かのためでも
 何かのためでもなく
ただひたすらになりたい、だから
歌を、歌を、心からの歌を
求めて

 詩の内容からしても、これは「トロッタの会」および、私の原点といえるだろう。何も求めない。歌いたいから歌う。演奏したいから演奏する。トロッタを開きたいから開く。それが、訴フということ。音楽に限らず、芸術表現はすべて、見返りを求めないところに成り立つ。求めなさすぎるのも、実は問題なのだが。
『トロッタで見た夢』は、二年後の二〇〇七年二月二十五日(日)、第一回「トロッタの会」で、詩唱版を演奏。本来のものだった歌曲版は、同じ年の七月二十二日(日)、名古屋の「名フィル・サロンコンサート」で、ソプラノとピアノ三重奏のための曲として、初演できた。また『唄う』は、二〇〇七年三月二十五日(日)、第二回「トロッタの会」で、ソプラノとヴァイオリン、ピアノのための曲として初演。先の「名フィル・サロンコンサート」でも同じ編成で演奏することができたのである。その日の当日プログラムに、酒井が二曲の解説を書いているので抜粋しよう。まず、『トロッタで見た夢』〜ソプラノとピアノ三重奏の為の〜。
「この不思議で奇怪で幻想的な詩『トロッタで見た夢』を木部与巴仁さんより頂いたのは二〇〇五年の春頃だったと記憶しています。歌曲にならないかと詩をいただいたのですが。もらった時はかなり戸惑いました。それは詩自体が所謂歌詞とは掛け離れた様な形になっておりまして、どうやったら歌曲になるか実際に音を書き出す前の構想にかなり時間がかかりました。(中略)今日漸く初演されるこの『トロッタで見た夢』の歌曲版ですが、二年前に書いた初版はピアノ伴奏のみの歌曲でしたが、今回の初演をきっかけに楽器編成をピアノ三重奏という形に拡げさせていただきました。曲は詩の中に登場する男女を一人のソプラノが歌い分けながら物語を進行させていく一種のモノローグオペラのつもりで書きました。詩の中の風景などを思い浮かべながら聴いていただけると幸いです」
 続いて、『唄う』。
「二年前の夏、私が主宰するkitara音楽研究所の演奏会に寄せて木部与巴仁さんが小冊子を制作しました。この『唄う』はその冊子の中に何気なく載っていたのですが、短い詩にもかかわらず強い内容に感激しました。私は直ちにこの詩に作曲しようと思い立ち、その詩を見た二ヶ月後に最初はピアノ伴奏として書き上げました。そして、今年三月、東京渋谷での『トロッタの会』の二回目の演奏会にて初演されました。その際、原曲に若干の改訂を加え、ヴァイオリンのパートを新たに書きました。今日演奏されるのは、その改訂版となります」(つづく)

 【連載・九】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でる行為 二.詩と音楽の関係を考察する行為 三.トロッタを行なう場所 四.トロッタを行なう作曲者、演奏者、場を共有し、トロッタを意識する聴衆・観客・支持者など

 役者、天本英世のことは様々に思い出す。何かをしようした時、意外なほど多くの影響を、彼から受けていることに気づく。
 天本はスペインに惚れこみ、何度もスペインに渡ったばかりか、詩人で劇作家、フェデリコ・ガルシア・ロルカの詩を朗誦していた。それを初めに教えてくれたのは、大学の友人で、一緒にミニコミを発行していたTである。幡ヶ谷に住んでいたTは、天本をよく新宿駅で見かけるという。いわれた直後から、私も見るようになった。長身、痩身に黒いマントを羽織り、人を寄せつけない雰囲気で歩いていた。子どもの頃から、何度も映画で親しんでいた天本だ。役を演じる彼を知るだけだったから、スペインに惚れているとは思いもよらず、見る目が変った。詩を詠む天本の舞台にも何度か接した。
 大学を卒業したころ、私は中野富士見町にあるplanBというライヴスペースに、常駐スタッフとして関わった。そのplanBで、天本にロルカの詩を詠んでもらおうと、間隔をおいて二度ほど交渉したが、不調に終わった。理由はギャランティの問題である。彼はプロの役者で、演じることで生活しているのだから、見合った金額を求めるのは当然だ。また単独で詠む場合もあるかも知れないが、私が聴いた時は必ずギターの伴奏者がいた。踊り手が一緒だったこともある。共演者のギャラも払わなければならない。天本の要求はもっともなことだ。しかし、今でも残念に思い返す。
 ちなみに、詩の朗誦、朗読接したのは、まず寺山修司であった。日本女子大学に招かれた寺山が自作の詩を詠み、それに合わせて舞踏家の岩名雅紀が全裸で踊った。これも私にとっては原点のひとつだが、今は措こう。
 私の学生時代、一九八〇年に、天本は『スペイン巡礼 スペイン全土を廻る』を「話の特集」から上梓した。七か月半かけてスペインを廻った旅の記録である。四百字詰め原稿用紙にして、おそらく五五〇枚ほどある。興奮した。個人の思いというものが、これほど凝縮された本を、それまで知らなかったから。いや、本にはどれも個人の思いが凝縮されているはずだから、それをストレートに表現した本を知らなかった、といった方がいいか。
『スペイン巡礼』は大評判になり、一九八二年、天本は二冊目の『スペイン回想 「スペイン巡礼」を補遺する』を、同じ「話の特集」から出した。前作の解題という趣だが、こちらにも興奮した。発売日に書店に駆けつけて買った。二年経っても、熱は冷めていなかった。そこに、こんな一節を見つけた。
「フラメンコの歌となるとこれは難しくて私はとても唄えないが、この『ロルカの13の民謡』は何とか全部唄えるようになった」
『ロルカの13の民謡』とは、ロルカ自ら、アンダルシア地方グラナダに伝わる民謡を採取し、ピアノ伴奏に編曲した歌曲である。
 ロルカは二十二歳年長の作曲家、マヌエル・デ・ファリャと親しく、その影響もあって、自分たち民族の音楽を研究し、伝承しようとした。ファリャとともに、〃深い歌〃という意味を持つカンテ・ホンドの歌い手を集めてコンクールを催したこともある。そのロルカの民謡を、天本英世が歌うなら、いつになってもいい、私も歌いたいと思った。
 無謀なことを考えたものだが、あてはないにせよ、本気だった。当時は、詩と音楽の関係を考えることもなく、伊福部昭への取材も始めておらず、天本のようにプロではないが芝居をしている者として、彼に倣いたいと思った。演劇の延長として、か。ロルカは自作の芝居に、『13の民謡』を使いこんでもいる。
    ロルカの話はここまででいい。「トロッタの会」で、今井重幸の編曲による「ロルカのカンシオネス〈スペインの歌〉」をシリーズとして歌うのは、まだずっと先のこと。私にとって、明確な意識はないが、詩と音楽の出会い、正確には演劇と詩と音楽の出会いがここにあったといいたい。
 一九八〇年代前半、トロッタにつながることとして書くべきは、後に『音楽家の誕生』となる、伊福部昭の取材を始めたことだろう。一九八三年、私は伊福部に電話をかけ、話をきかせてほしい、それをいずれは本にしたい、と申し入れた。伊福部は断ったが、なおも何度か電話をかけ、承知してもらった。それから十四年間、時にはまったく連絡を取らない時もあったが、とにかく取材を続け、出版社を探し、一九九七年に『伊福部昭・音楽家の誕生』を新潮社から上梓することになる。
 そのきっかけも、天本英世を朗誦者として招こうとした、planBだった。当時、伊福部昭の映画音楽を評価する声が高まっており、その観点からplanBでシンポジウムを開いた。満員の聴衆が詰めかけてくれたが、私には不満が残った。伊福部昭は映画音楽だけで語っていい作曲家ではない。その背後に、もっとずっと大きな音楽世界がある。それに向き合わなければ、伊福部は理解できない、と。一九八三年、映画音楽をオーケストラ組曲とした『SF交響ファンタジー』が初演されようとするころだった。planBの会場でも、日比谷公会堂で開催される演奏会のチラシを配布した。『SF交響ファンタジー』は、その後も繰り返して演奏され、CDになり、人気の曲として認められている。だが私には、比較していいことではないが、ひっそりとしたギター独奏曲『古代日本旋法に依る踏歌』の方が味わい深い。一九九七年、『伊福部昭 音楽家の誕生』刊行。二〇〇二年、『伊福部昭・タプカーラの彼方へ』刊行。二〇〇四年、『時代を超えた音楽』刊行。そして二〇〇七年、〃詩と音楽を歌い、奏でる〃「トロッタの会」発足。私には自然な流れである。つまるところ、自分たちの音楽を、ということなのだ。「トロッタの会」は、伊福部昭の音楽を研究する場ではない。伊福部に師事した作曲家が何人も参加し、伊福部その人の曲を演奏してもいるが、それは結果であって目的ではない。自分たちが信じる音楽を実践できればよい。私なら〃詩と音楽〃、詩が音楽になってゆく過程に注目したい。そのために、作曲家、演奏家と共同作業を行う。研究者ではない私に、『音楽家の誕生』を始めとする三冊は、最後の形ではなかった。自分たちの音楽を奏でることこそが最後の形となるだろう。私の〃詩と音楽〃が、仮に伊福部昭の音楽と違ってもかまわない。信じているならば。伊福部昭だって信じているのだから。
 天本英世に話を戻す。『スペイン回想』の巻頭に置かれた「フラメンコについての大いなる誤解」に、こんな一節がある。日本人はフラメンコを誤解している。フランメンコはギターのためにあるのでも踊りのためにあるのでもない。情熱的で騒がしく、派手できらびやかなものではないといい、こうつなげる。
「フラメンコというものの最初にまず何が在ったかと言うと、それこそ『初めに唄在りき……』というわけなのだ」
 フラメンコの唄、カンテ・フラメンコの中でも特に深奥で、哀しみ苦しみの極みを、カンテ・ホンドという。トゥリージャは農作業をする農夫の歌で、伴奏は牛の鳴き声や麦の穂を打つ音。トナは伴奏のない、まったくの歌。マルティネーテは鍛冶屋の歌で、金床を叩く単調なリズムを伴奏とする。サエタは、聖週間(サマーナ・サンタ)の祭において、聖母マリアと十字架のキリストを担いだ行列に向かい、どこからか誰とも知らぬ者によって歌い放たれる宗教歌である。
 天本はいう。フラメンコの精髄は歌で、ギターでも踊りでもない。初めは歌、それにギターが加わり、最後に踊りが加わった。
「フラメンコにおけるギターというものはあくまでも唄(カンテ)の伴奏として大きな意味を持つのであって、如何なる天才的ギタリストがその技巧を駆使して独奏(ソロ)を聴かせようとも、まず到底もたないものである」
〃詩と音楽〃というなら、そこまで行き着きたい。ギターの超絶技巧でももたないなら、資料や解釈を駆使した文章などで〃詩と音楽〃の精髄に迫れるはずはない。文章は音楽ではないから。歌わなければ。誰にもない自分だけの歌を。天本は、歌手ではなく朗誦者だった。私の推測だが、いきなり歌があるのではなく、つぶやきがあり、語りがあり、それが息に乗り、心臓の鼓動に乗って歌になるのでは? 歌以前の、しかし本人には歌以外の何物でもない〃カンテ・ホンド(深い歌)〃を、天本は歌っていたのだろう。(つつく)

 【連載・十】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でる 二.詩と音楽の関係を考察する 三.トロッタが行なわれる場 四.トロッタを行なう作曲者、演奏者、場を共有する聴衆・観客・支持者などの関係者

 第四回「トロッタの会」は、三回続いたタカギクラヴィア 松濤サロンを離れ、西荻窪のスタジオベルカントで開催した。声楽家のTさんが自宅に設けたスタジオである。酒井健吉の『夜が吊るした命』が、フルート、オーボエ、ヴァイオリン二挺、チェロ、ピアノ、朗読という、それまでになく大きな編成のため、松濤サロンでは手狭と判断したのだ。曲数も増えた。第一回は五曲、二回と三回が、無伴奏の朗読曲を入れて六曲だったのに比し、第四回は九曲となった。第四回以降、トロッタには木管楽器が欠かせなくなる。

第四回 二〇〇七年六月二十四日(日) スタジオベルカント公演
【作曲】橘川琢 『オーボエとピアノ、朗読による「冷たいくちづけ」』『ヴァイオリンとピアノのための「小さな手記」』第一曲 ゆりかご 第二曲 静かな絃に寄せて 【作曲】酒井健吉『みみず』『兎が月にいたころ』『フルートとピアノのためのカプリッチョ』『夜が吊るした命』
【作曲】田中修一『こころ』『TRIO BREVE〃牧嘯歌〃』第一楽章Allegro/第二楽章Canzonetta,Andante/第三楽章Allegro vivace

【ソプラノ】成富智佳子
【アルト】かのうよしこ
【フルート】高本直
【オーボエ】春日浩克
【ヴァイオリン】戸塚ふみ代
【ヴァイオリン】宮田英恵
【チェロ】豊田庄吾
【ピアノ】仲村真貴子
【ピアノ】森川あづさ*三浦永美子から交替
【朗読】木部与巴仁*戸塚ふみ代のヴァイオリン、かのうよしこの朗読と共に『バッハの無伴奏ヴァイオリン曲とともに詠む 塔のある町 付・世界を映す鏡』も朗読。曲は、パルティータ第2番ニ短調 BWV 1004 III Sarabande/パルティータ第3番ホ長調 BWV 1006 II Loure/ソナタ第4番ハ長調 BWV 1005 II Largo

 思い出すことは様々にあるが、まずチラシについて書こう。それまでのA4判タテからB4判ヨコになった。小松史明は画面に大きく、逆さに吊るされた鴉を描いた。周囲を、仲間の鴉が飛んでいる。これは、詩『夜が吊るした命』の光景だ。詩を書いたのは、二〇〇五年四月。京浜東北線に乗って新橋まで来た時、窓から逆さ吊りになった鴉が見えた。ビルの屋上で、アンテナの線に足をからませてもがいていた。残酷な光景だった。しかし電車を飛び降りて助けに行くこともせず、私はそのまま家に帰った。深夜、窓の向こうに想像したのは、あの鴉はどうなったのか、ということだった。もがけばもがくほど脱け出せなくなるに違いない。鴉を待っているのは、冷たい夜空の下の死    。
日輪落ちて
世界が闇に向かうころ
夕焼け空に浮かび上がった
 黒い影
逆さになった三角形が
真っ赤な雲を背景に
宙吊りされてもがいている
逃れたくて逃れたくて
 身をよじる 影
影の姿にとらわれて
 釘づけられた
私の眼

 こうして始まる『夜が吊るした命』を、酒井健吉が作曲する以前に、人の前で何度も詠んだ。無念な鴉を鎮魂したい思いだった。詩には魂を鎮める力があると、今でも信じている。オープンマイクの朗読会が多かったが、忘れられないのは、ある現代詩の講座だ。参加者が持ち寄った詩を詠むことになり、私は『夜が吊るした命』を選んだのだが、その日から数日後(数か月後かも知れないが、とにかく日をおかず)、主宰者が死んだ。年齢は私より若いほどだから、死ぬとは思わない。鎮魂の詩を書くべきなのだが、あまりに急なため実感できず、手つかずのままでいる。
『夜が吊るした命』の初演は、長崎である。二〇〇六年二月五日(日)、酒井健吉主宰のkitara音楽研究所 第三回演奏会において。会場は酒井の地元、諌早市のたらみ図書館 海のホールだった。図書館の中にあるが、二八〇人も入る立派な施設である。
 第一回「トロッタの会」の、ほぼ一年前になる。そして、この三日後に、伊福部昭が亡くなった。

 第四回「トロッタの会」について、様々な記憶がある。これはどの回もそうなのだが、トロッタの記憶は街の風景と切り離せない。
 橘川琢とは、池袋にある東京芸術劇場のカフェで打ち合わせをした。その時点で橘川は、ヴァイオリンとピアノのための曲『小さな手記』と『冷たいくちづけ』の出品を決めていた。一方で、オーボエの春日浩克の出演予定曲が、酒井の『夜が吊るした命』だけだった。他の演奏者についてもいえるが、ひとり一曲では惜しい。最低でも二曲を演奏してもらい、見せ場、聴かせどころを作りたかった。橘川に、『冷たいくちづけ』にオーボエを使ってもらえないかと相談したのである。橘川は快諾し、その場で春日に電話をかけ、出演を了解してもらった。こうして、私が橘川の代表曲のひとつだと信じる、オーボエとピアノ、朗読による『冷たいくちづけ』が誕生することになった。第四回のチラシに、橘川の曲目解説が載っている。それによると、『冷たいくちづけ』の相談を芸術劇場でしたのは、二〇〇七年五月十九日だという。第三回トロッタの一週間前だ。間近に迫った本番の打ち合わせが主な目的だったのだろう。芸術劇場に行くと、その日のことを思い出す。
 酒井健吉は、四曲を出品した。『夜が吊るした命』は、一年半前に初演していたから、スコアは私の手元にある。阿佐ケ谷のコンビニエンスストアで、演奏者七人分のコピーを一生懸命に取った。演奏者を確保できたと電話した時の、酒井の〃ほんとですか!?〃という声も忘れられない。フルートの高本、オーボエの春日、チェロの豊田は、ヴァイオリンの宮田の友人だった。宮田は、戸塚ふみ代の、年若い友人である。
『みみず』『兎が月にいたころ』と、歌を二曲、出品している。どちらも第一期「詩の通信」で発表した。特に『兎が月にいたころ』は、トロッタの発会以前に、ぜひ歌ってほしいと、あるソプラノ歌手の演奏を聴きに横浜へ出向き、楽譜を渡した作品だ。その歌手は出演が無理となったので、第四回での演奏は、私と酒井の思いが、やっとかなったことになる。
 横浜といえば、横殴りの雨が降る夜、彼の地在住の田中修一に横浜駅で会い、ビールを飲みながら『こころ』と『TRIO BREVE〃牧嘯歌〃』の楽譜を受け取ったことを思い出す。『こころ』は一九九七年、『TRIO BREVE〃牧嘯歌〃』は二〇〇五年の作曲で、それぞれ改訂が施されている。二〇〇七年当時、田中は四十一歳である。『こころ』は、三十一歳の作曲だ。あるシャンソン歌手のために書いたが、演奏がかなわなかったので、第四回トロッタが初演となった。そして、萩原朔太郎の詩に依っている。朔太郎について、この時の私には思い入れがなかった。田中は少年時代から朔太郎に没頭している。好む詩と好まない詩の別はあるというが、田中は朔太郎が好きだ。私は詩を書く者として、なぜ朔太郎なのかという疑問を抱いた。現代の詩ではない、評価の定まった人の詩である、今さら朔太郎でもあるまい、ということ。現代の詩、評価の未知なるもの、他人に評価されていない詩と音楽こそ取り上げたい、そう思った。朔太郎への対抗意識があるだろうが、そんなちっぽけな感情は、取るに足らないものだ。評価が定まったというが、自分たちで朔太郎を再評価すればいいのである。詩人・萩原朔太郎ではない、音楽家・朔太郎に注目する。トロッタならそれができよう。『こころ』の出品は、その手始めになるものだった。
 まともな受付の準備もできないまま開場してしまった。開演中、舞台袖に置かれ放しだった私の鞄、それも口を開けたままの鞄が、散らかった精神を表わしていた。梅雨のさなかで雨が降っており、高い湿度の中で演奏を続けた。打ち上げの食事を調達しようと、演奏中にもかかわらずピザ屋に電話をかけ続けた。打ち上げの飲み物が足りなくなり、雨中を酒屋まで走った。二次会のため、阿佐ケ谷までタクシーを駆った。物足りない演奏に終わった曲は、必ず再演するのだと思った −− 。様々な記憶が心をよぎる。(つづく)

 【連載・十一】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタが行なわれる場 四.トロッタを行なう作曲者、演奏者、場を共有する聴衆・観客・支持者などすべての関係者

「結果がわからない、未知の要素を抱えています。しかし、誰の人生にも確実なものなどないと思えば、『トロッタの会』の歩みにも、私たち自身の歴史を重ね合わせることができます。『トロッタの会』だけではありません。人の手によって創られるすべての舞台が、人の歴史の投影でありましょう。お客様と、時間と場所を共にできること自体が、歴史です」
 第四回トロッタの、チラシの一文を引用した。人と楽器が増えたことについても言及している。
「編成が大きいからスケールがあるとは申せませんが、生きた人々と舞台に立ち、その人々がさまざまな声と音を発し、それを舞台に立ちながら聴く。そして声と音を返し、お客様に聴いていただく。そのやりとりには、自ずと重さが生じるはずです」
 これに続けて、人と楽器が増えれば、将来、曲数とスタイルも増えると書いているのだが、実はもう、曲は九曲と、限界に達していた。しかも当時は、まだ一曲の制限時間がなかった。必ずしも、人と楽器が増えたからいいとはいえない。人ひとり、楽器ひとつでも、曲数と曲のスタイルは自在に提示できる。聴こえる世界も、さまざまに表現できよう。

 第四回「トロッタの会」は、三回続いたタカギクラヴィア 松濤サロンを離れ、西荻窪のスタジオベルカントで開催した。声楽家のTさんが自宅に設けたスタジオである。酒井健吉の『夜が吊るした命』が、フルート、オーボエ、ヴァイオリン二挺、チェロ、ピアノ、朗読という、それまでになく大きな編成のため、松濤サロンでは手狭と判断した。第四回以降、トロッタには木管楽器が欠かせなくなる。曲数も増えた。第一回は五曲、二回と三回が無伴奏の朗読曲を入れて六曲だったのに比し、第四回は九曲となった。

第四回 二〇〇七年六月二十四日(日) スタジオベルカント公演
【作曲】橘川琢 『オーボエとピアノ、朗読による「冷たいくちづけ」』『ヴァイオリンとピアノのための「小さな手記」』第一曲 ゆりかご 第二曲 静かな絃に寄せて 【作曲】酒井健吉『みみず』『兎が月にいたころ』『フルートとピアノのためのカプリッチョ』『夜が吊るした命』
【作曲】田中修一『こころ』『TRIO BREVE〃牧嘯歌〃』第一楽章Allegro/第二楽章Canzonetta,Andante/第三楽章Allegro vivace

【ソプラノ】成富智佳子
【アルト】かのうよしこ
【フルート】高本直
【オーボエ】春日浩克
【ヴァイオリン】戸塚ふみ代
【ヴァイオリン】宮田英恵
【チェロ】豊田庄吾
【ピアノ】仲村真貴子
【ピアノ】森川あづさ*三浦永美子から交替
【朗読】木部与巴仁*戸塚ふみ代のヴァイオリン、かのうよしこの朗読と共に『バッハの無伴奏ヴァイオリン曲とともに詠む 塔のある町 付・世界を映す鏡』も朗読。曲は、パルティータ第2番ニ短調 BWV 1004 III Sarabande/パルティータ第3番ホ長調 BWV 1006 II Loure/ソナタ第4番ハ長調 BWV 1005 II Largo

 思い出すことは様々にあるが、まずチラシについて書こう。それまでのA4判タテからB4判ヨコになった。小松史明は画面に大きく、逆さに吊るされた鴉を描いた。周囲を、仲間の鴉が飛んでいる。これは、詩『夜が吊るした命』の光景だ。詩を書いたのは、二〇〇五年四月。京浜東北線に乗って新橋まで来た時、窓から逆さ吊りになった鴉が見えた。ビルの屋上で、アンテナの線に足をからませ、もがいているではないか。残酷な光景だった。しかし電車を飛び降りて助けに行くこともせず、私はそのまま家に帰った。深夜、窓の向こうに想像したのは、あの鴉はどうなったのか、ということだった。もがけばもがくほど脱け出せなくなるに違いない。鴉を待っているのは、冷たい夜空の下の死 −− 。

日輪落ちて
世界が闇に向かうころ
夕焼け空に浮かび上がった
 黒い影
逆さになった三角形が
真っ赤な雲を背景に
宙吊りされてもがいている
逃れたくて逃れたくて
 身をよじる 影
影の姿にとらわれて
 釘づけられた
私の眼

 こうして始まる『夜が吊るした命』を、酒井健吉が作曲する以前に、人前で何度も詠んだ。無念な鴉を鎮魂したい思いだった。詩には魂を鎮める力があると、今でも信じている。オープンマイクの朗読会が多かったが、忘れられないのは、ある現代詩の講座だ。参加者が持ち寄った詩を詠むことになり、私は『夜が吊るした命』を声にした。それから数日後(数か月後かも知れないが、とにかく日をおかず)、講座の主宰者が死んだ。年齢は私より若いほどだから、死の予感などまったくない。鴉を詩で鎮魂した私である。彼を鎮魂する詩も書くべきなのだが、あまりに急なため実感できず、手つかずのままでいる。
『夜が吊るした命』の初演は、長崎である。二〇〇六年二月五日(日)、酒井健吉主宰のkitara音楽研究所 第三回演奏会において。会場は酒井の地元、諌早市のたらみ図書館 海のホール。海沿いに建つ図書館にあり、二八〇人も入る立派な施設だった。
 日付を見ると、第一回「トロッタの会」の約一年前だ。戸塚ふみ代による、伊福部昭『サハリン島先住民の三つの揺籃歌』の演奏もあった。本来はソプラノのための歌曲だが、そのメロディをヴァイオリンで弾いたのである。戸塚が歌ったということになるだろう。ピアノ伴奏は酒井健吉。そして、この三日後 −− 。二月八日(水)、伊福部昭が亡くなった。九十二歳であった。

 第四回トロッタで初演された、橘川琢の『冷たいくちづけ』について。自戒しながら書くが、これは詩唱者をいい気持ちにさせてくれる曲だ。しかし、いい気持ちになってはいけない。芝居でも、できたと思った時は、必ず酷評されたから。聴いたり観たりする側も、ただでさえ気持ちいいだろう舞台上で、自己陶酔にひたる人間になど向き合いたくないに違いない。誰が、他人を気持ちよくさせるためにお金を払うだろう。気持ちよくなりたいのは、聴く側であり観る側なのだ。『冷たいくちづけ』は何度も練習したが、今にして思えば、それは細部を確認し修正するためというより、自分が気持ちよくなるためだったのではないか。反省している。自分の詩である。気持ちのいい言葉を選んでいるわけだ。練習する私を見つめる、待機中の演奏者の視線を覚えているが、〃何をうっとりしている?〃と思っていたのではなかったか。演奏者が心がけるべきは、作曲者の意図に添いながら、作曲者も知らなかった曲の魅力を引き出すことにあるはず。橘川琢は他人だから、彼の曲には試行錯誤しながら向き合った。私は詩『冷たいくちづけ』の、私自身も知らない魅力に気づいていない。その意味で、『冷たいくちづけ』にうっとりするのは早すぎる。
 それに比べ、田中修一の『TRIO BREVE〃牧嘯歌〃』を演奏した、ヴァイオリンの宮田英恵、チェロの豊田庄吾、ピアノの仲村真貴子は、クールだった。私のように、『牧嘯歌』とは何? それは牧童が草原で気ままに口ずさむ歌である、洗練よりも鄙びた趣で、などと文学的には解釈していなかったかもしれない。田中の楽譜どおりに演奏すれば結果は表われると、曲と冷静に向き合ったであろう。余談だが、同時並行して別室で練習していた私が、廊下で三人のうちの一人と鉢合わせし、練習はいいのですか? と尋ねたところ、もう充分にできましたからと答えた。私には考えられない短い練習時間だった。結果は、田中修一が満足する演奏となる。短い練習でも完璧に弾ければよし。長く練習しても自己満足に終わっていれば駄目。文学的な解釈を深めても、それが音楽に実を結ばなければ意味がない。評論をしているのではないのだから。数が増えた分、さまざまな人間性を見ることになった。何もいわなくても、態度でわかることがある。わからなくても、その態度自体がものをいっている。(つづく)

 【連載・十二】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタが行なわれる場 四.トロッタを行なう作曲者、演奏者、場を共有する聴衆・観客・支持者などすべての関係者

 トロッタの会を発足させる以前に、刺戟を受けた演奏会、演奏グループがあったことを思い出す。何をする際も、人生の経験が反映するだろうから、その時はトロッタにつながると思わなくても、後になって、さまざまな人に影響を受けていることを自覚する。音楽、演劇、映像、美術、舞踊など、さまざまな表現に接しながら、私ならこうする、私はこうしたいと、直感が湧いて作品につながった経験が何度もある。
 一九九七年は、私にとって『伊福部昭・音楽家の誕生』を刊行した年である。奥付の発行日は四月二十五日。約一か月後の六月十四日に、「二十絃箏 水無月の会」が芝abc会館ホールで開かれた。何度か、田中修一と私が初めて出会ったとして記した会だ。最近、会場で配られたプログラムがたまたま出て来た。表紙には、「作曲家と二十絃箏者との出会いから生まれた新たな世界」と副題されている。主宰者の野坂惠子が、プログラムに一文を寄せていた。抜粋させていただく。
「二十絃箏を弾く人たちで和やかに会を持ちたいと呼びかけて、今日のコンサートとなりました。/伊福部昭先生の作曲の授業でお会いしていた七人の作曲家全員が作品を提供して下さいました。嬉しく有難いことです。東京音楽大学で助手を務めておられる甲田潤さんと二十代の作曲家たちの作品が並びます。(中略)奏者の方は、高校生も居り、人生歴・音楽歴、実にさまざまで、福岡・京都・倉敷・名古屋・長野・松本からの参加もあり、ステージで各自、思い思いの音を力一杯披露することと思います。今、全てが力と欲で推し計られがちな世の中ですが。その競走社会から外れたところで音楽を楽しむ、これはなかなかすてきなことだと思っています。(後略)」
 八人の曲が取り上げられたが、そのうちの四人が後、トロッタに関わっている。伊福部昭、甲田潤、田中修一、堀井智則(現・友徳)である。伊福部を除く三人が自ら書いた曲解説を抜粋しよう。まず、甲田潤『二十絃箏のための ディヴェルティメント』。
「喜遊曲と訳されるディヴェルティメントは、ハイドンやモーツァルトに代表される十八世紀後半のウィーンにその名曲が生まれています。また今世紀初頭にもバルトーク、ストラヴィンスキーなどが、このタイトルで素晴らしい作品を残しています。/編成には三重奏、四重奏などの室内楽編成から小管弦楽編成に至るまでのさまざまの組み合わせを持ち、合奏形態も、弦楽、管楽、管弦合奏などと、いろいろであります。また形式についても一定のものはなく、奔放で娯楽的な性格を持っています。/水無月の会の皆さまからの、今回の十二人の奏者による四重奏曲のご依頼に、私はこのディヴェルティメントの持つ様式の自由さと、合奏の娯楽性を頼みに曲を仕上げることが出来ればと、昨年暮れからの三ヵ月を過ごしたのでした。(後略)」
 次に、堀井友徳の『二十絃箏のための四つの小品集』(一 紡ぎ歌、二 挽歌、三 戯れ歌、四 愁歌 )。
「この作品は、毛色の異なった四つの小品を二十絃箏の独奏用に、一つの組曲風にまとめたもので、今回は四曲を各々四人の奏者によって演奏されます。/一九九四年の『譚詩』(二面の二十絃箏のための)以来、久方ぶりに箏の作品を書くにあたって、前作のカラーを踏襲しつつ、より叙情的で音楽性の豊かなものをという思いで作曲しました。(後略)」
 そして、田中修一の『右大臣源実朝の和歌による琴歌 七夕』。
「くるしい時には、いつも、実朝に語りかけてきました。/大海の 磯もとどろに 寄する波 破れて砕けて 裂けて散るかも/炎のみ 虚空に満てる 阿鼻地獄 ゆくへもなしと いふもはかなし/等、愛誦する歌も数多くあります。吾妻鑑には、〈船中に於て管絃等有り〉(承元四年五月廿一日)〈郢律の曲を尽す〉(建暦二年十一月十四日)他が記されており、実朝が管絃の楽を好んでいた事を伝えています。/絶望と孤独の道を気高く歩んだ右大臣、源実朝。その魂の音響化を私の一生涯の仕事にしたいと考えております。(後略)」
 どの文章も、トロッタのチラシに載っていておかしくないと、私は感じる。作曲家の思いがこめられたのが曲解説だから、それは当然だろう。水無月の会は、二十絃箏のための会である。トロッタは、詩と音楽の会である。テーマは違うが、複数の作曲家が曲を発表する場であった点は同じだ。そして、そのような会は、歴史上、数え切れないほどあった。
 伊福部昭は、一九三四年、学生時代に札幌で新音楽連盟を結成して、演奏会を行った。メンバーは、早坂文雄、三浦淳史、伊福部の次兄、勲たちであった。伊福部、早坂は後に作曲家となるが、自分たちの曲は発表していない。プログラムに並んだ作曲家は、ストラヴィンスキー、ラヴェル、サティ、シュールホフ、ファリャたちである。同時代の海外作品を日本に紹介することがテーマだったといえよう。
 その早坂は、一九四七年になって新作曲派協会を結成。早坂は戦前、すでに東京に拠点を移しており、戦後に上京した伊福部も会に加わった。創立メンバーには二人の他、清瀬保二、荻原利次、松平頼則、小船幸次郎、渡辺浦人らがおり、後に武満徹、鈴木博義らも加わる。これは純然たる作曲家の会で、自分たちの曲を発表することが目的だった。ただし、伊福部は一曲も発表することなく脱会している。
 一九五一年結成の実験工房は、音楽だけの会ではなく、詩人の瀧口修造を拠りどころに、詩、美術、写真など、表現領域は多岐に渡った。音楽面だけを強調すると見誤るが、武満徹や鈴木博義、湯浅譲二、佐藤慶次郎、福島和夫らの作曲家に、詩人で音楽評論の秋山邦晴、音楽ピアニストの園田高弘らも加わっており、音楽性が強いことは間違いない。
 一九五二年に撮影された、清瀬保二邸における、新作曲派協会の集合写真。清瀬、早坂、松平、鈴木、武満らが写っている。また一九五四年頃に撮影された、実験工房の集合写真には、前記の人々が写っている。この二枚はよく見かけるものだが、見慣れているせいか、芸術家グループの雰囲気を表わす典型のように感じられる。彼らが表現しようとすることは、そこには写っていない。ただ人の思い、意志を感じる。特に音楽は形にしようのないものだが、意志があればそれで充分だろう。
 先の水無月の会の翌年から、紀尾井ホールを会場にした連続演奏会、「日本の作曲・21世紀へのあゆみ」が開かれた。敗戦後から今日までの、日本の作曲界の歩みをたどろうとするもので、一九九八年から二〇〇七年にかけ、全四〇公演を行うという壮大なシリーズになった。残されたプログラムは全九冊。これだけでも、貴重な音楽資料である。
 その一冊目には、新作曲派協会や実験工房を含む、作曲家グループの流れが俯瞰できる一覧表が掲げられている。現代音楽、日本現代音楽協会、新声会、地人会、白涛会、自由作曲家協会、山羊の会、三人の会、深新会、グループ20.5、アルス・ノヴァ、二十世紀音楽研究所と、実に多くの会があり、人の関わりがある。編者の小宮多美江が断っているが、これは作曲家の会であって、歌曲のグループや、より若い人々のグループは省かれているのである。そうした会のすべては、自発的な意志に依るものだ。最初に大口にスポンサーがあったとか、広告代理店の要請があったからなど、経済が先に立ったものはひとつもないだろう。はた迷惑でも、貧しくても、馬鹿げていても、人々の意志だけが歴史を作って来たということを教えてくれる。伊福部たちの新音楽連盟にしても、早坂らの新作曲派協会にしても、武満らの実験工房にしても、今や歴史に名をとどめる人々の会だから、意味ありとして語られるが、実際に行われていた当時は、海のものとも山のものとわからない会だったのだ。実験工房の瀧口修造のように、支柱となった人には年配者があっても、実際の運営に携わり、作品を発表しようとしたのは二十代、三十代の若者がほとんどであったろう。
「日本の作曲・21世紀へのあゆみ」が考えさせてくれたこと、また教えてくれたことは数多い。「日本の作曲・21世紀へのあゆみ」自体が、大きく見て、演奏会グループであったととらえることもできる。会自体を論じる者がいてもいいくらいだ。そして、私たちのトロッタが始まったのは、その最終年だった。(つづく)

 【連載・十三】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタを行なう場 四.「トロッタの会」作曲者、演奏者を始め、場を共有する聴衆・観客・支持者などすべての関係者

 更科源蔵の詩に依る伊福部昭の歌曲は、四曲である。すべて、根岸一郎の歌唱により、トロッタの会で演奏された。作曲順に、『オホーツクの海』(1958)、『シレトコ半島の漁夫の歌』(1960)、『摩周湖』(1992)、『蒼鷺』(2000)。
 どの曲の詩も、更科源蔵が一九四三(昭和十八)年、戦中に刊行した第二詩集『凍原の歌』(フタバ書院成光館)に収められている。ただ、詩の題名と歌の曲名に違いがある。『オホーツクの海』の詩は『怒るオホーツク』。『シレトコ半島の漁夫の歌』の詩は『昏(たそが)れるシレトコ』。『摩周湖』と『蒼鷺』は同じだ。なぜ、違うのか。さまざまな理由が考えられる。『摩周湖』と『蒼鷺』は固有名詞を用いている。動かない。だから、そのままにした。『怒るオホーツク』と『昏れるシレトコ』には変化する品詞が使われている。つまり、動く。だから歌曲の題を変えたと、結果的にいえる。歌の曲名には、動かず普遍的な固有名詞を使いたかった、その方が伊福部の感性にあった、ということか。動く言葉、その動かし方は詩の作者のものだから。
 トロッタの会には、詩はどのように音楽になるかというテーマがある。曲名ひとつにせよ大きな問題だ。『怒るオホーツク』は、独唱曲の場合は『頌詩〃オホーツクの海〃』、合唱曲の場合は『合唱頌詩〃オホーツクの海〃』として曲名が確定しているが、北海道放送(HBC)で一九五八年二月二十五日にラジオ放送された際は『オホーツク海』(註・同年四月十五日発行の「北海道放送」社報には〃コーラル・オード〃と記されている。〃合唱頌詩〃に等しい)。「音楽芸術」一九六〇年五月号に、オーケストラ伴奏の合唱曲として掲載されたスコアには、『合唱頌詩〃オホーツ〃』とある。一曲の題名が変遷している。〃オホーツクの海〃と〃オホーツク〃ではずいぶん違う。人が海の名を口にする時、〃オホーツク海〃を〃オホーツク〃といってすます場合がある。更科の詩『怒るオホーツク』は、その習慣でつけられた題名だろうが、〃オホーツク〃といった場合は、オホーツク海沿岸にある、ロシアの町の名とも受け取れる。海の名前は町名に由来するから、混同を避けるため、厳密な〃オホーツク海〃としたのであろうか。もちろん、〃海〃という言葉をつけた方が、演奏者と聴衆に、はっきり広大な海の光景を想像してもらえる。
 細かい話だが、『シレトコ半島の漁夫の歌』は、ここにカタカナで〃シレトコ〃と記しているが、私は『伊福部昭・音楽家の誕生』などで、〃知床〃と漢字表記を通してきた。全音楽譜出版社から刊行された、内田るり子編「伊福部昭歌曲集」では、『シレトコ半島の漁夫の歌』とカタカナ表記されている。初演者、ステファノ・木内の、例えば一九六八年十月七日(月)独唱会のプログラムにも、「シレトコ半島の漁夫の歌(木内君のために)」と、やはりカタカナ表記されている。それを漢字表記にしたのは、『音楽家の誕生』の執筆時、カタカナよりも漢字の方に重みが出ると思った私が、伊福部に質問した、その答えに依る。〃(問)シレトコは、漢字でもいいのでしょうか?/(答)さしつかえありません〃しかし、考えてみれば、シレトコとは本来アイヌ語であり、漢字では表わせないものだった。カタカナでも表わせないのだが、日本語では外来語をカタカナで表わすように、文字に意味を持たせず、音として表わす際はカタカナを用いるのであった。だから、『昏れるシレトコ』を歌曲とした場合、曲名はカタカナ表記で『シレトコ半島の漁夫の歌』とするのがいいのだろう。今は、そう判断している。

 二〇一三年二月十六日(土)、東京音楽大学民族音楽研究所の主催にて、演奏会「伊福部昭 室内楽作品を集めて/歌曲を中心に、ピアノ組曲、ヴァイオリン・ソナタを」が行われた。会場は、小田急線代々木上原駅に近い、古賀政男音楽博物館けやきホールである。演奏会には数名のトロッタ関係者が参加し、プログラムにも「協力・トロッタの会」の文字が入った。更科源蔵の詩に依る伊福部歌曲がすべて歌われ、〃詩と音楽を歌い、奏でる〃というトロッタのテーマに重なり、トロッタの成果が発展し、その線上に成立した演奏会である。私が出演することはなかったが、プログラムを作成するなど、数十日にわたって頭を締め続けたものなので、三回にわたり、これについて記そう。(「詩の通信Z」の発行が滞っていた時期と受け取ってほしい)
「伊福部昭 室内楽作品を集めて」で取り上げた更科の詩に依る歌曲は、すべてトロッタで根岸一郎が歌った。『シレトコ半島の漁夫の歌』は第十回、『摩周湖』は第十一回、『蒼鷺』は第十四回、そして『オホーツクの海』は第十五回。二〇〇九年から二〇一二年まで、四年がかりであった。根岸が四曲を歌い終えたことを踏まえて、私は民族音楽研究所の甲田潤に提案した。伊福部先生の歌だけの演奏会をしてみませんか−−。そのすすめに、甲田は即座に対応してくれ、その場で会場のけやきホールに電話をし、空き状況を確かめた。会場を確保してから、日程に合う演奏者を集めていったのである。更科の詩に依る歌曲だけだと四曲だが、『ギリヤーク族の古き吟誦歌』など北方諸民族をテーマにした歌を三曲、そして万葉集の歌に依った『因幡万葉の歌五首』も入れたい。これで伊福部の歌曲は網羅されたことになる。けやきホールは朝から夜まで使えるので、二部制にして、できるだけ多くの曲を演奏する機会にできないか。歌曲に加え、器楽曲は何を取り上げるかも問題になった。ギター曲や、小編成のオーケストラ曲『土俗的三連画』も候補に上がったのである。結果的には、『ピアノ組曲[日本組曲]』と『ヴァイオリン・ソナタ』に落ち着いてゆく。根岸一郎の出演は大事な前提条件だったが、幸いにも予定が空いていた。私の中では、根岸を核とした出演者の顔ぶれが想像された。甲田潤にとってはソプラノの弓田真理子であったろう。バリトンの白岩洵、オーボエの三浦舞も出演してくれることになった。白岩は、これまでのトロッタではアンサンブル曲のみを歌ってきたので、独唱曲を歌ってほしかった。彼の低い声が、『シレトコ半島の漁夫の歌』にふさわしいだろうとも思った。根岸が『アイヌの叙事詩に依る対話対牧歌』を歌い、弓田真理子が更科源蔵の詩に依る何かを歌うという案もあったが、それは実現しなかった。オーボエの三浦舞は、第十四回のトロッタで、根岸と『蒼鷺』を演奏している。三浦の演奏は評判がよく、ぜひ出演してほしかった。
 実をいえば、『ヴァイオリン・ソナタ』を演奏するなら戸塚ふみ代に出演してほしいと私は思ったが、これはかなわなかった。戸塚は二〇〇六年、同じけやきホールにおいて、甲田潤の発案で行われた「伊福部昭 追悼コンサート」で、ピアノの森浩司と『ヴァイオリン・ソナタ』を演奏している。出色の演奏だった。それがトロッタにつながってゆくのだから、私には大事な演奏だった。しかし今回は、東京音大の演奏者を第一に考えるという方向性があったので、藤原浜雄のヴァイオリンに落ち着いたのである(他の曲にも、他の演奏者で、という案が出たが、いずれも消えた。それはトロッタを含め、どの演奏会にもあることだ。ただ、チラシとプログラムの表紙デザインを、トロッタのデザイナー、小松史明に頼めたことはよかった。仮チラシのデザインとプログラムのレイアウトは私だが、絵も描ける小松の仕事は素晴らしかった)。
 根岸一郎がプログラムに寄せた一文に、『オホーツクの海』に関するこんな箇所がある。
「独唱版を演奏した私は、曲の持つ力に圧倒される思いがし、やはり本来の四声で演奏してみたくなった。原曲の重厚な管絃楽も魅力的だが、独唱版のピアノ、ファゴット、コントラバスという低音の強調された編成の効果は絶妙である。この室内楽編成のまま原曲の四声を重唱で演奏したらどうであろうか。このアイデアを私は独唱版演奏の後、木部さんに告げた。/その後、図らずも甲田潤さんと木部さんによって、今回の全歌曲と珠玉の室内楽によって伊福部先生の業績を回顧する画期的な企画がうまれ、私の夢が早くも実現する。若き日の新進作曲家による四声の声楽部と晩年の円熟の巨匠による室内楽がここに合体するのである」
 そんな『オホーツクの海』を、二部制となった演奏会の最後に置こうというのは、私と甲田潤の一致した見解だった。(つづく)

 【連載・十四】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタを行なう場 四.「トロッタ」の作曲者、演奏者を始め、場を共有する聴衆・観客・支持者など、すべての関係者

 演奏会には反映させられなかったが、準備段階で、更科源蔵の出身地、北海道・弟子屈にある弟子屈町図書館の学芸員、松橋秀和の協力を得ることができた(松橋は、二〇〇六年の伊福部追悼演奏会に、わざわざ北海道から足を運んでくれている)。更科の資料を閲覧できたのである。まず更科の足跡をまとめた「原野紀行」を二冊。そして、『シレトコ半島の漁夫の歌』男声合唱版の総譜。
「原野紀行」は、通算七十六回にわたり、「広報てしかが」に連載した文章を編集したものである。目次を拾ううち、次の回に目をとめた。第九回「伊福部昭作曲のスコア」。第十回「知床縦走」。第三十三回「第二詩集『凍原の歌』」。第四十六回「如月日記」。第四十九回「『青春の原野』」。第五十三回「『北海道の旅』」。
『北海道の旅』は更科の著書で、手元に二つの版がある。初めに刊行された一九六三年の現代教養文庫版と、一九七九年に改訂した新潮文庫版である。北海道ガイドの体裁を取りながら、道内各地への思いを綴ったエッセイになっており、詩『摩周湖』と『怒るオホーツク』を収めた。「摩周湖」の項に更科は書いている。
「摩周湖を書くことは、私にとってもっとも容易であり、同時に一番むずかしいことでもある。私はあまりにも摩周を知りすぎている。それは半ば私の中で肉体化しているとも言える。自分の内部のことは誰よりもよく知っているが、それを表現することがとてもむずかしいように。今でも機会あるごとに、私はこの風景を訪れる。それは故郷に父母を訪うのと同じように、悲しいにつけ喜びにつけて、この山と水とに語りたくなるのである。私はこの偉大な風景の麓に生まれたことを、どんなには誇りとし、また大事な私の幸福にしていることか知れない」
「黒いオホツク」では、こう書く。
「北海道を取りまく三つの海のうち、私はオホツク海が一番好きだ。滑らかな海浜の花で飾られた砂丘が、ここほど静かに清らかに咲きほこっているところはない、その砂丘のかげに網走、能取、サロマ、など無数の海跡湖がねむっている。それでいて海は荒っぽくて、底しれない深い色をしている。おこりだしたら手がつけられないほどあばれまくる。私は海岸で山のような波というのを見たのは、この海でだった。/この海岸は古い時代からいろいろな民族が、雲の影のように通りすぎた。斜里海岸に環状石籬(ストーンサークル)を残した人々、網走の洞窟に冷たく骨を埋めて眠っていた、モヨロ族といわれる人人、それから砂丘いたるところに竪穴を残して消えた族。ここに日本人が足跡を残したのはそれほど古くない」
 音楽を文学で語りたくない。文学で語っても演奏はできない。演奏するのは更科の文学ではなく、伊福部の音楽なのだから。そうは思うが、歌曲の場合、詩が先にあることを思えば、更科のこうした思いは忘れたくない。摩周湖やオホーツク海に関する情報ではない。更科の思いを。エッセイでもそうだし、音楽になればなおさらだが、エッセイの書き手、曲の演奏者が伝え表現したいのは、意味や情報で割り切れない感情、感性、感覚、情動だろう。書き手の心、読み手の心を動かすもの。意味や情報で動くのは、理性である(意味や情報で動く情動もあるので、無味乾燥なものとはいいたくない。また、情動を制御するのは理性だ)。
『凍原の歌』と『如月日記』は、伊福部から存在を教えられた。『音楽家の誕生』を刊行し、二冊目となる『タプカーラの彼方へ』の取材を行っていた時。更科さんの詩で、もう一篇、歌にしたいものがある。それが『蒼鷺』だと、伊福部は詩集『凍原の歌』の部分を示してくれた。『凍原の歌』には、伊福部の歌曲『オホーツクの海』『シレトコ半島の漁夫の歌』『摩周湖』のもとになった詩が収められている。ここに伊福部歌曲の原点があると、改めて実感した。二〇〇〇年十月二十八日、「伊福部昭作品による藍川由美リサイタル」が行われ、『蒼鷺』が初演された。そのプログラムに、伊福部がこんな解説を書いている。
「このたび、藍川由美さんが、拙作のみによるリサイタルを催されることとなった。三囘目である。ついては何か新作をとのご提案があった。思えば、十数年前、更科源蔵氏と作曲を約しながら、未だ果たさずにいる詩がある。『蒼鷺』がこれであるが、のびのびになったのには少し事情があった。/旧聞に属するが、一九八四年二月二十一日、更科氏の詩、拙作の『オホーツクの海』の合唱、オーケストラ版の東京公演があつた。これを聽かれた更科さんの御息女が、その印象を、即日、札幌の父君に電話された。その詩の中で、その夜、ソ連の作家ショーロホフが故郷のドン河のほとりで、静かに目を閉じたというニュースの流れたことに触れ、作品の最後は『故郷の流れのほとりで私も眠りたいのだ』と結んでおられる。何か氣になったが、翌年の秋九月、更科氏は本当にこの世を去ってしまわれた。/ここにいう故郷の流れとは釧路川のことで、私にとっても故郷となるが、詩『蒼鷺』でもこれに似た風景の中で『許さぬ枯骨となり、凍つた青い影となり』それでも動かぬと詠っておられる。このことは、氏の生きざまを知る私に、深い共感を与えると同時に、何か心に重く、その後、筆を進め得なかった。/歳月流れて、この度、機を得て脱稿することが出来たが、今となっては、唯、その責に應え得るものであることを希うのみである」
 詩人の数は多いのに、他者には一切関心を示さず、更科の詩だけを選んで歌にする。一九四三年、伊福部が二十九歳の時に抱いた思いを、晩年まで変わらずに持って。伊福部にとって現代詩は、更科の作品より他にないのか。そうなのだろうと思う。また、作曲家である伊福部が思いを託せる詩といえば、更科のものしかなかったのだろう。自分が書くとしたら、更科のような詩になる。そう思っていいかもしれない。
 詩集『如月日記』は、更科が最後に書き下ろした詩集である。病を得た更科が、日記のように書き続けた。伊福部がいう『合唱頌詩〃オホーツクの海〃』の「東京公演」とは、正しくは舞台初演だと思う。それ以前には一九五八年の「放送初演」があるのみ。北海道放送(HBC)に提供していただいた資料によると、この時は伊福部が指揮をし、三十三名のオーケストラ(演奏は東京室内管弦楽団)、三十六名の合唱で、スタジオではなく女子学院の講堂を借りきって録音。二月二十五日、HBCからラジオ放送された。第六回民放祭コンクール洋楽部門の参加作品で、北海道・東北ブロックで一位を獲得。全国審査を受けた結果、四月一日に第三位となったのだ。
 一九八四年の『合唱頌詩〃オホーツクの海〃』は、私も聴いた。二月二十一日、五反田のゆうぽうと簡易保険ホールで行われた「伊福部昭個展 北日本列島の詩」で、『交響譚詩』『シンフォニア・タプカーラ』『日本の太鼓〈ジャコモコ・ジャンコ〉』と共に演奏されたのである。それを、東京に在住する更科の娘が聴き、札幌の父親に報告した。その日は体調がよかったのか、久しぶりに身支度して、郵便局に行った。円山の方に飛ぶシマエナガの群れが見えたという。帰宅すると電話が鳴っていて、それが娘からの報告だった−−。非常に印象的な詩で、二〇〇六年の伊福部昭追悼演奏会では舞台で朗読させてもらった。音楽というと伊福部のことが語られ、それでいいのだが、こうしたエピソードを知ると、詩人の存在も忘れたくない。
『青春の原野』以前、更科には〃原野シリーズ〃と称される四作の小説がある。『父母の原野』『おさない原野』『少年たちの原野』『移住者の原野』である。幼いころから見聞きした日本人移住者、それ以前から生活していたアイヌの姿を、文章にして刻みつけておきたいという強い気持ちがあった。第一作が一九八三年に刊行され、翌八四年に第二作と第三作を刊行。しかし第四作が刊行されたのは、更科が死んだ翌年、一九八六年。『青春の原野』は、さらに翌年の八七年に刊行された。東京麻布獣医畜産学校、後の麻布獣医科大学に入学して上京する更科が、詩に目覚めてゆく姿を描いている。しかし物語は一九三四年で終わっており、当然ながら、更科にはまだまだ書くことがあったろう。第一詩集の『種薯』が刊行されるのは、一九三五年。私が関心を抱く伊福部昭との出会いは、遠い先の話である。(つづく)

 【連載・十五】  木部与巴仁
トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタの場 四.「トロッタ」の作曲者、演奏者を始め、考えと場を共有する聴衆・観客・支持者など、すべての関係者

 男声合唱版『シレトコ半島の漁夫の歌』の存在は、意識にまったくのぼっていなかった。恥ずかしい。知らなかったならともかく、初演時のプログラムをコピーし、読んだ記憶があるのに。スコアを見ると、作曲は一九六六年。伊福部が「北大合唱団創立五十周年を記念して」と記している。記念の曲に、『シレトコ半島の漁夫の歌』が選ばれたのだ。プログラムの文章を引用する。
「昨年暮、この曲の委嘱の依頼の為に、伊福部昭氏に始めてお会いした時、氏は何よりもまず、音楽にするのにふさわしい詩のない事を嘆いておられた。結局、前にも一度、使われた事もある、更科源蔵氏のこの詩以外にはないという事になったのであるが、その時、我々は、氏が〃ことば〃と〃音楽〃との結合について、氏の固有の音楽性から生み出される、独自の感覚を持っておられる事に深い印象を受けた」
 音楽にするのにふさわしい詩がない。〃ことば〃と〃音楽〃の結合について−−。詩人はたくさんいる。歌になった詩もたくさんある。しかし伊福部は、音楽にふさわしい詩がないという。どんな詩ならふさわしいのか。また〃ことば〃と〃音楽〃は、どうすれば理想的に結合するのか。結論は曲の中にあるだろう。
 更科は、まず詩に書いた。
「死滅した前世紀の岩層に/冷却永劫の波はどよめき/落日もなく蒼茫と海は暮て/雲波に沈む北日本列島」
 伊福部の歌詩はこうだ。
「死滅した侏羅(ジュラ)紀の岩層(いわ)に/冷たく永劫の波はどよめき/落日もなく蒼茫と海は暮れて/雲波に沈む北日本列島」
〃前世紀〃が〃侏羅期〃となり、〃岩層〃は明らかに〃がんそう〃だろうが、伊福部は〃いわ〃と歌わせる。〃冷却永劫〃は〃冷たく永劫〃となった。〃前世紀〃、〃がんそう〃、〃冷却〃は音楽にならない、ということである。そして、〃北日本列島〃という言葉はあるのだろうか。『合唱頌詩〃オホーツクの海〃』が演奏された伊福部の個展は「北日本列島の詩」と題されたが、私はこの言葉が他で使われた例を知らない。日本列島とはいうが、その北部という意味か。〃北日本列島〃は、そのまま音楽に生きた。
〃ことば〃と〃音楽〃の関係について、何らかの法則があるわけではない。「死滅した」は五つの音だが、これに五つの音符をあててもいいし、「死滅」の〃し〃一個に五つの音符をあててもいい。
「死滅した」を音符一つで表わす考えもあるだろう。作曲家の感性が、〃ことば〃と〃音楽〃の関係を決定づけるのである。
 北大合唱団のプログラムには、こんな文章もある。「この詩は、更科源蔵氏が昭和十二〜三年頃、知床の山中で、道に迷った時に作られたものだそうであるが、淡々とした叙景の中に、いかにも茫漠とした北端の秘境のイメージが、古めかしい香気と共に歌いあげられているように感ぜられる」
 弟子屈町図書館編集の「原野紀行」第十回は、「知床縦走」である。一九三六年の五月、知床硫黄山が四〇数年ぶりに大爆発したので、更科は間近で見ようと、仲間とともに同年の七月から八月にかけて知床硫黄山、羅臼岳を縦走した。一九三六年は、プログラムの文章がいう昭和十二、三年ではなく、昭和十一年。更科の年譜に、昭和十二、三年に知床に足を踏み入れた記述はないので、「知床の山中で、道に迷った時」も、一九三六年のことと思われる。

 演奏会「伊福部昭 室内楽作品を集めて」で、私はプログラムを編集した。主な内容を掲げる。
一、プログラムと解説[作曲者自身の言葉による]
一、出演者プロフィール
一、伊福部昭を語る〈寄稿〉
一、採録「作曲家訪問 伊福部昭」丹羽正明
一、詩
 曲解説は、当初は執筆者をたてる予定だったが、それぞれの曲に関する伊福部の文章を引用することにした。楽譜に伊福部自身の解説が載っている場合はよかったが、楽譜が出版されていない場合は、演奏会プログラムや雑誌、新聞などから採った。結果的にそれでよかったと思う。伊福部の肉声が、文字を通して伝わって来るようだったから。
 寄稿文集「伊福部昭を語る」は、読み応えあるものになった。執筆者は私の他、伊福部昭の甥の伊福部達(東京大学名誉教授)、今井重幸(作曲家)、金井芙三枝(舞踊家)、小林淳(映画関連文筆)、小宮多美江(音楽評論家)、丹羽正明(音楽評論家・元東京音楽大学教授)、根岸一郎(声楽家)、米田栄子(ピアニスト)、和田薫(作曲家)。編集しながら思い当たったのは、演奏会「伊福部昭 室内楽作品を集めて」が、歴史の積み重ねの上に成り立ったという事実だ。
 例えば、小宮多美江らが尽力した、「日本音楽舞踊会議/日本の作曲ゼミナール1975−1978」の記録、『作曲家との対話』(新日本出版社)。一九八二年の刊行で、伊福部は、高田三郎、中田喜直、小山清茂、松平頼則、芥川也寸志、松村禎三、早坂文雄、林光、三善晃、諸井三郎、別宮貞雄、間宮芳生、石桁真礼生、小倉朗、清瀬保二、安部幸明、大木正夫、清水脩、平尾喜四男ら、登場する作曲家二十人の筆頭に置かれている。『音楽家の誕生』の取材を始めたころに刊行された本だから、私も当時、真っ先に読んだ。プログラムを編集しながら、改めて、一冊の価値を実感した。
 友人の小林淳は、ミュージシャンの井上誠と『伊福部昭の映画音楽』(ワイズ出版)を一九九八年に著した。以降、小林の仕事は、『日本映画音楽の巨星たち』『伊福部昭 音楽と映像の交響』『ゴジラの音楽』などにつながってゆく。井上誠が一九八三年に出したアルバム『ゴジラ伝説』は出色だった。楽譜が入手できなかったため、自分の耳で聴いて、伊福部の映画音楽をシンセサイザーで再現し、井上が抱いている伊福部昭の世界を音で創ってみせた。伊福部も、ライナーノーツに「井上さん、ごくろうさん」という題の言葉を寄せており、内容を含め、それ自体が貴重だ。発売前に、私が企画したシンポジウムに井上を招いて『ゴジラ伝説』に耳を傾けたことが、昨日のように思い出される。
 丹羽正明が「音楽芸術」の一九五八年一月号に書いた、「作曲家訪問 伊福部昭」を再録できたこともよかった。そこには四十三歳だった伊福部の姿が活写されている。丹羽自身、東京大学の大学院に籍を置く二十三歳の若者だった。丹羽は後に東京音大の教授となり、伊福部が同大学に迎えられる際に力を尽くす。
 詩のページには、八つの歌曲の全文を掲載した。ここまで、更科源蔵の詩については詳述してきたが、北方諸民族の歌、伊福部の詩に依る『ギリヤーク族の古き吟誦歌』の「アイ アイ ゴムテイラ」「苔桃の果拾ふ女の唄」「彼方(あなた)の叫び」「熊祭に行く人を見送る歌」、伊福部の訳詩に依る『サハリン島先住民の三つの揺籃歌』の「ブールー ブールー」「ブップン ルー」「ウムプリ ヤーヤー」、知里真志保の訳詩に依る『アイヌの叙事詩に依る対話対牧歌』の「或る古老の唄った歌」「北の海に死ぬ鳥の歌」「阿姑子(あこし)と山姥(やまんば)の踊り歌」には言及しなかった。一つには、まだ私が、それらの歌に思い入れられないことが原因だ。更科の歌は、やはり日本語、現代語の表現だから、感情を移入できる。しかし〃ギリヤーク族〃、〃サハリン島先住民〃、〃アイヌ〃は、私にはまだ遠く、想像力が働かない。『音楽家の誕生』には、それらの曲が生まれる過程を記した。北方民族を研究した服部健との交流が伊福部に強い影響を与えたということも明かすことができた。網走の北方民族博物館に足を運び、服部の遺品を閲覧させてもらい、特にその「樺太旅行記」を写して紹介できたことはよかったと思う。ただ、私が北方諸民族に共感できるかどうかは別の話なので、今少し時間がかかるだろう。それは『因幡万葉の歌 五首』も同じである。伊福部は、自分の祖先に関わりがあったと想像できる万葉歌人、大伴家持と、その叔母、大伴坂上郎女(いらつめ)の歌を選んで歌曲にした。伊福部の祖先は因幡国の豪族だった。血ということを、伊福部は非常に意識している。日本人の伝統的な美観を音楽にしたかったのだろう。しかし残念であるが、私は意識できない。意識できないのではなく、しようとしていないのだろうが、現代人としての自分を意識するのに精一杯なのだ。自分が編集したプログラムを見ながら反省する。しかし、反省を促すだけの内容にはなったと思う。(つづく)

 【連載・十六】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でる 二.詩と音楽の関係を考察する 三.トロッタが行われる場 四.「トロッタ」の作曲者、演奏者を始め、考えと場を共有する聴衆・観客など、すべての関係者

 第五回「トロッタの会」は、二〇〇八年一月二十六日(日)開催である。会場は、早稲田奉仕園リバティホール。早稲田奉仕園は、一九〇八(明治四十一)年に創設されたキリスト教主義の団体で、一九二一(大正十)年完成のスコットホールや、録音施設AVACO(アバコ)スタジオで知られる。九十年の歴史を持つスコットホールは魅力だったが、最大収容人数二百名の会場を使う勇気は、二〇〇八年の段階ではなかった。集客力と資力の問題である。そこでまず、八十名収容のリバティホールを選んだ。

第五回 二〇〇八年一月二十六日(日) 早稲田奉仕園リバティホール公演
【作曲】橘川琢『ヴァイオリンとピアノによる組曲「都市の肖像」』「水の歌が聴こえる」「Silent Actress」「少年期 コール・ドラッジュの庭」『朗読、アルト独唱、ピアノとヴァイオリンによる詩歌曲「うつろい」』
【作曲】酒井健吉『緑の眼』
【作曲】田中修一『遺傳』『立つ鳥は』
【作曲】Fabrizio FESTA『いのち』
【作曲】松木敏晃『冥という名の女』

【ソプラノ】赤羽佐東子
【アルト】かのうよしこ
【朗読/バリトン】木部与巴仁
【フルート】高本直
【ヴァイオリン】戸塚ふみ代
【ピアノ】栗田浩平・森川あづさ
【打楽器】鈴木亜由美

 松木敏晃は、橘川琢と同じく、音楽評論家・西耕一に紹介された。陸上自衛隊中央音楽隊の作編曲者として活躍している。伊福部昭の『交響譚詩』『シンフォニア・タプカーラ』吹奏楽版を編曲し、それは中央音楽隊の演奏により、キングレコードから「伊福部昭 吹奏楽作品集」としてCD化され、二〇〇五年に発売された。松木は、西荻窪のスタジオベルカントで開かれた第四回のトロッタに足を運んでくれ、彼なりの感触を掴んだようだった。
 ファブリチオ・フェスタは、酒井健吉の紹介である。二〇〇六年にイタリアで行なわれたデュエアゴースト作曲コンクールに、酒井は『フルートと管絃楽の為のブルレスカ・コンチェルタンテ』を応募して二位に入賞。その時の芸術監督がフェスタで、イタリアで対面して以来、二人の親交が生まれた。フェスタが望んだのは、日本語詩にもとづいて曲を書くことだった。
 プログラムを読み直し、それは毎回のことなのだが、力作、意欲作が並んだと改めて思う。
 酒井健吉の『緑の眼』は、酒井が参加した二〇〇七年十一月二十三日の演奏会「長崎に集う作曲家シリーズ No.1」で初演された。初演者は、酒井の友人である長崎の打楽器奏者、福田祥一と、ヴァイオリンの戸塚ふみ代、そして朗読の木部である。
 プログラムの酒井の文章によれば、「過去の朗読を含む作品に有りがちであった音楽が朗読の伴奏であるということを回避することを目的として」作曲したという。その結果、「朗読は今までに比べ、言葉をリズムに合わせて発音する一楽器としての要素が強くなった」とも。私の考えと合致する。私は、音楽が朗読の伴奏でいいとは思っていない。極論だが、朗読こそ音楽の伴奏でいい。ていねいにいうなら、両者は対等だろう(*この記述、伴奏をおとしめる意図はまったくない。何か別の表現がないか、常に考えている)。もともと、朗読で意味を伝えようとは思っていないのである。言葉を発するのだから意味は伝わるのだが、それは演奏が終わった後、できるなら意味を思い出し、噛みしめてほしい。演奏中に聴こえるのは、音としての声でいいと思っている。
 長崎の初演は満員だった。かつて銀行だった建物、旧香港上海銀行長崎支店の古い空間は、朗読と合わせ、ヴァイオリンも打楽器もよく響いた。
『緑の眼』はSFだ。緑色に光る流星が地上に落ち、その光を見た人々から、緑色の目を持った赤ん坊が産まれた。それは世界的な現象となり、爪はじきされていた子どもたちも、やがては全世界を覆うまでに増え、世界戦争を経て現人類に取って代わる−−。
 どの私の詩も同じではないが、トロッタを始めるころ、「世界」という言葉をよく使っていた。試みに、松木が足を運んでくれた第四回トロッタを見よう。チラシにいきなり、こんな詩文がある。 「日輪落ちて 世界が闇に向かうころ/夕焼け空に浮かび上がった黒い影/逆さになった三角形が 真っ赤な雲を背景に/宙吊りされてもがいている」
 酒井健吉作曲、『夜が吊るした命』の詩である。宙吊りになった鴉と日没の情景を重ね、命の終りと世界の終わりを重ねている。
『塔のある町』という詩があり、これはバッハの無伴奏ヴァイオリン曲に合わせて詠んだのだが、本番のために短い詩を付した。それが『世界を映す鏡』。題に「世界」と謳っているが、詩はこんな風にしめくくられる。
「土気色の町に/心は白く燃える/世界を映しながら」
 そして、橘川琢の『冷たいくちづけ』。こんな風に始まる。
「世界が終わろうとする日に/くちづけをしたい」
 同じ第一連の最後の行。
「世界が終わろうとする日/心には何も 残っていなかった」
 続いて第二連。
「雨が 降り続いている/世界の終わりに向けて」
 第三連にもあった。
「求め合った 狂おしく/世界が終わろうとする日に」
 第四回のトロッタは「世界」だらけである。これは欠点だろうか。プログラムの構成上、反省していいとは思うが、詩の欠点とはいえない。「世界」を相手にして詩を書いていた私を、若いと思い、若くて何が悪い、若さ、誇大妄想を失ってはいけない、特に詩においては、と思う。「世界」と言い過ぎることより、言わなくなった自分こそ反省したい。
 酒井健吉のために書いた『緑の眼』は、世界と向き合った詩だ。私なりの文明観を提出している。地球の生命体は、宇宙の意志によって生まれ、いつでも滅び、入れ替わる。古いものと新しいもの、現在のものと未来のものは、生き残るための闘いを経て、一方が淘汰されるだろう。人間とそれ以外の生き物には何の差もなく、『緑の眼』に登場する蜥蜴も人も、同じ地球の住人である。−−このような詩を、私はまた書かなくてはなるまい。
 早稲田奉仕園での演奏会は、は打楽器が禁止されている。奉仕園には宿泊施設があり、軒を接するようにして住家がある。迷惑を考えてのことだが、私は『緑の眼』を取り上げたいと思い、交渉の結果、演奏開始時間に配慮する約束で何とか実現にこぎつけた。『緑の眼』がプログラムの初めに置かれたのは、それが理由だ。打楽器の鈴木亜由美は、東京音大の卒業生で、甲田潤に紹介された。有賀誠門の指導を受けた、優れた奏者であった。
「世界」というなら、初めて海外から参加したファブリチオ・フェスタにも、世界性がある。彼と直接に話したわけではないから、なぜ日本の演奏会、それもトロッタに参加したいと思ったかはわからない。日本語の詩を使って歌を書きたいというのだから、一種の誇大妄想かもしれない。もちろん、音楽家としての意欲があるのだろう。彼の求めに応えようとした時、外国人にもわかる詩。よりリズム感のある、簡潔な文語体で書かれた詩がふさわしいと思った。詩のテーマも、『緑の眼』のような物語性より、象徴性を重んじた方がいい。人間を象徴するものとは、生命力である。そこで書いた詩が、『いのち』であった。詩は「湧き立つる/潮(うしお) 紅き/そは我が血なり」で始まる。フェスタが選んだ楽器は、フルートとピアノ。それぞれ、高本直と森川あづさが演奏してくれた。歌は、赤羽佐東子。
 トロッタは、ソプラノを探していた。一回と二回の西川直美、三回と四回の成富智佳子には感謝している。彼女たちがいなければ初演できない曲があった。しかし、理由はそれぞれだが二回以上の出演は無理だったので、トロッタで、できるだけ長く歌い続けてくれるソプラノが必要だった。エレクトーンシティ渋谷に足を運んだ日本歌曲の演奏会で、赤羽のみごとな歌を聴いた。彼女は日本歌曲を自身のテーマにしているという。打診した結果、快く出演を承知してくれた。第五回トロッタでは、『いのち』の他、田中修一の『立つ鳥は』の再演も依頼した。以後、赤羽との長いつきあいが始まる。(つづく)


 【連載・十七】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタが行われる場所 四.作曲者、演奏者を始め、トロッタの考えと場を共有する聴衆・観客など、すべての関係者

 第五回「トロッタの会」について書こうとしながら、第四回までのことを、私は書き飛ばしているのではないかと不安になる。それほど、第五回については書きたいことが多い。第四回までも、同じように、書くことが多くあったはずなのに。しかし、今は振り返らずに書き進めよう。
 松木敏晃のために書いた詩『冥(めい)という名の女』の主人公「冥」に、特定できる存在はない。いわば永遠の女性像である。私は長い間、〈水にかえる女〉の幻想を抱き続けてきた。
 −−都心の一角に、池がある。自然の湧水だ。かつて、周囲には料亭が建ち、大勢の人でにぎわっていたが、今やすっかりさびれて駐車場となり、いつ埋め立てられてもおかしくない状況になっている。その池に、日中は人と変わらない暮らしをしているが、夜になると水に帰ってゆく女がいる。その姿を、例えば泉鏡花のような幻想譚にしようと思いながら、筆力のなさから、そのままになってしまっていた。これを酒井健吉との共同作業で、詩にし、曲にすることができた。初演は二〇〇七年七月二十二日(日)、名古屋市音楽プラザの名フィルサロンコンサートにおいて。さらに二〇〇八年九月二十八日(日)には、谷中ボッサの第四回「声と音の会」で、改訂版を初演している。〈水にかえる女〉は、具体的というより象徴的な主題だから、小説より詩の方がふさわしかったと思っている。
『冥という名の女』は、下落合の住宅地を歩いていて、くちなしの群生に出会った経験に基づく。
「くちなしの/真白き花に手を伸ばし/物いいたげに微笑む女/湧き立つ思い/抑えるすべを知らず」
 女の前に無数の男が現われたが、その誰もが姿を消し、くちなしの花だけが女の周りに咲いている。男を喰らって生きる女。それが「冥」だ。
「冥」といい〈水にかえる女〉といい、私の永遠の女性像はどこから来ているのかと思う。ひとつは、水の神の伝説であろう。歌人で民俗学者の釈迢空・折口信夫が暮らした大井出石町に、やはり自然の湧水がある。周辺は高台で、大井の海岸に向かうにつれて低くなる。その傾斜地のいくつかに、点々として湧水がある。当然だが、それらは地下水脈でつながっている。水の神は自由自在に地下水を行き来しているのだ。折口の弟子、歌人の岡野弘彦が書いた『折口信夫の晩年』に、大井出石町の風景や、水神伝説のことが描かれ、私は何度も現地に足を運び、文章にもした。水の神が女だったらどうか。その発想が〈水にかえる女〉に結びついた。
 そして『冥という名の女』の、男を喰らって生きる女性像は、やはり泉鏡花の『高野聖』に影響を受けている。そこに描かれた年齢不詳の女は、魔物である。山深く暮らし、現われた旅人を片端から自分のものにし、用が済むと獣に変える。語り手の僧だけは変身させられなかったが、男たちは、変えられてもいいと思っているのだろう。女との経験は、それほど甘美なものであった。そうした女性像を、私も表現したいし、表現するなら私は、〈水にかえる女〉や「冥」のように、『高野聖』とは違って東京、都市を舞台にしたいと思う。大都会にも魔性の、永遠の女はいるはずだから。
『冥という名の女』は、朗読の私、アルトのかのうよしこ、ピアノの栗田浩平で初演された。松木のトロッタ参加は、この一度にとどまっている。『冥という名の女』は、作曲者監修のもと、練り直して再演しみたい。そう思わせるだけの魅力があった。
 第五回トロッタで、私は初めて歌を歌った。田中修一作曲の『遺傳』である。詩は私ではなく、第四回に田中が出品した『こころ』と同じ、萩原朔太郎。
『遺傳』を歌ったことについて、私はじっくり振り返りたいと思いながら、果たせずにいる。田中が私を初演の歌手に指名したことについても、はっきりした理由を知らないままだ。曲中に朗読があり、歌と朗読の組み合わせだから、私がふさわしいと思ったか。そう思いはするものの、現在のように、根岸一郎や白岩洵、さらに篠原大介といったバリトンがいたら、彼らに歌を託したのかとも思う。『遺傳』の高音部は私にはいささか高すぎるものであった。それをわかっていてなお、田中は歌うようにいった。初演は、私に加え、ヴァイオリンの戸塚ふみ代と、ピアノの栗田浩平。二〇一〇年十二月十二日(日)には、谷中ボッサのソロ公演で、萩野谷英成によるギター伴奏版を演奏した。二度歌いながら、整理できない。味わいたくて整理したくない気持ちさえある。
 第五回トロッタに、橘川琢は『うつろい』と『ヴァイオリンとピアノによる組曲「都市の肖像」』を出品した。『都市の肖像』は重要だが、『うつろい』について書こう。初演は、朗読の私、アルトのかのうよしこ、ヴァイオリンの戸塚ふみ代、ピアノの森川あづさ。
 その後、トロッタで一度、橘川の個展で二度演奏されており、これは橘川の代表曲になったと思う。プログラムの解説には、次のように書かれている。古い歌曲や唱歌、寂しげで懐かしい歌謡曲などを想わせる、時代がかってはかなげな歌を作りませんかと彼が誘い、私がそれに応えた−−。
 喫茶店は異空間だ。現実と隔絶した、そこだけの世界。喫茶店だけの秩序が成立してもいる。高校生のころから、喫茶店で原稿を書くことを習慣にしてきた。喫茶店めぐりは好まない。変わった喫茶店を探したいのでもない。特定の店に通う。そこを自分の居場所にしたいから。ファミリーレストランやファストフード店の進出で、喫茶店は少なくなった。長居しやすいので、私もそうした店には行く。しかし、チェーン店に『うつろい』のごとき気配はない。
 詩は春夏秋冬に分かれる。喫茶店の中に幻想の四季がある。春は店いっぱいに桜が咲き、花吹雪が舞う。夏は窓の向こうに水平線が見え、太陽が天井を貫く。秋は木立が燃えて落ち葉が床に敷かれた。冬、マフラーを巻いて席についていると、店の中が雪で白くなってゆく……。
 思い出したが、第五回トロッタと同じ二〇〇八年一月二十六日(土)日の昼間、東京音楽大学J館スタジオにて、民族音楽研究所主催の公開講座、「伊福部昭を巡る作曲家たち」が開催された。伊福部と、弟子の池野成、松村禎三の作品が演奏されたのである。幸いというべきか、トロッタの練習が東京音大で行われたので、私は三十分ほど抜けて『アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌』の詩を詠んだ。アイヌ語では詠めないから、それは弓田真理子の歌にまかせ、日本語訳詩を詠んだ。
 反省はある。現在のトロッタなら、三十分でも会場を抜け出すことは不可能だ。あまりに練習スケジュールが厳しいから。本来の舞台の前に別の舞台に立つことの信義は問題視されていい。公開講座の舞台でも、私に期待されたのは解説だったのに、それを踏み外して朗読−−、自己表現をしてしまったことへの批判があった。しかし私には、解説をする気など、最初からなかった。
 私にとって伊福部昭とトロッタは、切り離せない。自著『伊福部昭・音楽家の誕生』があったからトロッタがある。『音楽家の誕生』は文字だけの表現だが、音楽がテーマなのだからそれではいけないと、詩を通して音楽の実践を志した。他のメンバーは作曲や演奏を通して、それぞれの思いがあろう。伊福部昭を知らなくてもいい。知らないメンバーにとって大事なことを、私も知らない。互いに刺戟しあっていけばいい。だから、私は民族音楽研究所主催の舞台に立った。その夜はトロッタの舞台に立った。どちらも大事だったのだ。
 第五回のトロッタで忘れられないのは、舞台に上げたピアノを、お客様と一緒になって下ろしたこと。もちろん親しい友人に頼んだのだが、ありがたかった。また開場した後で、『緑の眼』の楽譜が見当たらなくなってしまった。昼間の練習場所に忘れて来たのだ。近所だからよかったが、思い返すとぞっとする。これに似た事態は、その後も起こり続けている。曲の締め切りを設けるかどうかという問題も起こった。練習時期になっても曲が完成せず、本番直前になってやっと書き上がる事態が続いていたのだ。本番の前半で、演奏を終えた奏者が、後半で帰ってしまったことも苦い思い出である。仕事でする演奏会ならそれもいい。しかしトロッタは……。意志を通わせる難しさを痛感した。(つづく)

 【連載・十八】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でる 二.詩と音楽の関係を考察する 三.トロッタが行われる場所 四.作曲者、演奏者を始め、考えと場を共有する聴衆・観客など、すべてのトロッタ関係者

 第六回トロッタから、二人の新たな作曲家が加わった。宮封カ香と、清道洋一である。演奏者として、ヴィオラの菅原佳奈子、チェロの對馬藍、ルネサンス・リュートの乃絵羅(のえら)も。作曲家別に、曲について記そう。

第六回 二〇〇八年六月八日(日) スタジオベルカント公演
【作曲】橘川琢『恋歌』より〜夏の歌・ゆめ うつつ・逢瀬〜
【作曲】清道洋一『椅子のない映画館』
【作曲】酒井健吉『むらさきの』『室内楽劇 天の川』
【作曲】田中修一『「大公は死んだ」附 ルネサンス・リュートの為の「鳳舞」』『田中未知による歌曲』
【宮封カ香】『ほたる』
【作曲】Fabrizio FESTA『NEBBIE(霧)』『HIBAKUSHA』

【ソプラノ】赤羽佐東子
【アルト】かのうよしこ
【朗読】木部与巴仁
【ヴァイオリン】戸塚ふみ代
【ヴィオラ】菅原佳奈子
【チェロ】對馬藍
【ルネサンス・リュート】乃絵羅
【ピアノ】森川あづさ

 初参加の清道洋一には、音楽評論家、西耕一により、〃邦楽創造集団〃オーラJの演奏会で引き合わされた。日を改めて会おうということになり、二〇〇八年四月五日(土)、神田神保町の喫茶店ミロンガで打ち合わせをした。
 清道から何かの提案があると予測したが、私がその場に持参したのが、詩「椅子のない映画館」である。「詩の通信」第I期の二〇〇六年九月十五日(金)号で発表した。

その映画館には、椅子がないのだという。まっくらな部屋に押しこめられ、人々は立ったまま、スクリーンを見つめる。そこで映画を観たという友人は、六畳間と四畳半を足したくらいの広さだったと、適当なことをいった。なお半信半疑だったが、彼は地図まで描いてくれた。間違いなくあると、しきりに力説する。好奇心には克てず、一枚の紙切れを頼りに、私はその町に足を踏み入れた−−。

 散文詩である。改行の多い一般的な詩の形式と比較して、ショートストーリーを連想させる、しかし小説とは決定的に何かが違う散文詩に、少年の頃からひかれていた。一語一語、一行一行で想像力をかきたてるより、淡々とした文章で物語を編み、その全体で詩的環境をもたらしたい。もともと小説を好きだったからだろう。詩を書くなら散文詩だと決めていた。現実はそうでもなく、占める割合は少ないのだが、散文詩には今も惹かれる。『椅子のない映画館』は、不思議な空間性といい、何もない空間を訪ねてゆく男の心理といい、ひとつひとつが詩的であり(自分でいうものではないが)、それでいて物語があるという、書きたかった散文詩になった。西耕一からは、清道が劇団に所属し、芝居の音楽を書いていると聞いていた。物語性に、素直に反応してくれるのではという期待があった。

考えてみれば、映画館の椅子は、必ずしも必要なものではないかもしれない。通常の映画館でも、満員なら立ち見を強いられるから、同じことだ。映画館にとっても、椅子などない方が、おおぜいの人に入ってもらえて好都合だろう。しかし、理由は別にあると思う。その映画館に、椅子がない理由である。映画には、立ったまま観られることを望む性質が、ありはしないか。世界を目の当たりにする。それが映画の本質なら、居心地のいい椅子で、傍観者になって時間を過ごすなどという態度が、許されるはずはない。世界は受け身では観られない。自分で自分を支えて、向き合わなければ!

 清道は、代表曲『蠍座アンタレスによせる二つの舞曲』を含む録音集を持参していた。私がそれを聴いている間に清道は詩を読み、曲を聴き終えるや、『椅子のない映画館』で曲を書きましょうといってくれた。ヴィオラとチェロを初めて登場させたことにより、トロッタの音の幅に広がりが生れ、異なる音域の楽器を組み合わせる妙味が出るようになった。
 宮封カ香とは、これより先に長崎で会っていた。酒井健吉の『緑の眼』が初演された「長崎に集う作曲家グループVol.1」で、宮浮ヘ司会をし、私とも舞台で言葉を交わした。東京にやって来た理由は、尺八修業のため。NHK技能養成所に入所して、尺八奏者たることをめざしたのだ。
『ほたる』は、そんな宮浮ェ初めて書いた曲である。音にする喜びを、これで知ったという。第七回のトロッタから、宮浮フ作曲による『めぐりあい』が、アンコール曲として歌われる。宮浮ノも作曲してほしいと思った。期待どおりの美しいメロディを届けてくれた。彼女が持つ天性の力は、続くアンコール曲『たびだち』でも証明されることになった。
 橘川琢の『恋歌』は、「詩の通信」で発表した詩「夏の歌」「ゆめ うつつ」「恋歌」三篇を組曲にしようとしたものだ。それぞれ、恋愛詩である。このころが、私にとって、恋愛詩のピークだったかもしれない。忙しければ忙しいほど気持ちに余裕がなくなり、恋愛詩は書けなくなる。しかし、ふと冷静になった時、恋愛詩を書かなければならないと思う。そうでなければ、生きる苦しみを詠んだ詩ばかりになってしまう。『椅子のない映画館』のような空想的な詩は書いているのだから、恋愛からも生活からも自分を解放することは可能なはずだった。

破れた恋
かなわなかった願い
傷ついた心
消えてゆく人影 (「夏の恋」より)



ダンサーでもないわたしたちが
スタジオで踊っていた
七夕の夜に
(「ゆめ うつつ」より)



わたしではないわたしが
遠ざかる季節に
愛をかわす
(「逢瀬より)

 恋愛詩は、音楽を生むだろう。生活の詩は、音楽になるだろうか? なったとしても、歌いたくないし詠みたくない。空想的な詩は、雰囲気のような音楽を生むかもしれない。思わせぶりで、足りない想像力を補うような。やはり、最も音楽的であり、もしかすると音楽そのものを内包するのは、恋愛詩かもしれない。
 田中修一はいった。「〃みのむし〃などやめた方がいい」。みのむしの代わりに彼が用意したのは、鳳だった。
『大公は死んだ』は、第三回トロッタで、無伴奏で詠んだ詩である。その時、「みのむし」という短い詩を続けて詠んだ。塔の頂の牢獄で、孤独に死んでゆく大公。それをじっと見ている、みのむし。主観と客観、大と小の対比を意図したが、田中には小さいと映ったのかもしれない。今回は、『大公は死んだ』はそのまま詠み、ルネサンス・リュート独奏曲『鳳舞』を詩に続けて演奏した。  チラシの解説に、田中は書いている。「ビジュアル的には葛飾北斎の鳳凰の絵を意識しています」「中間部には天岩戸神社の御神楽の音型があらわれます」やはり彼は、大きさを意識していたと思しい。大きさ自体は私も好きだ。
 その田中のもう一曲が、『田中未知による歌曲』である。作曲者が用意してくれた、田中未知の紹介文をそのまま引く。
〈1892-1915 和歌山生まれ。未知は、版画家・田中恭吉の号。白馬会原町洋画研究所を経て東京美術学校日本画科入学。竹久夢二らと交流を結ぶ。同人誌『ホクト』『密室』を発刊。1914年、恩地孝四郎、藤森静雄と、詩と版画の雑誌『月映(つくはえ)』刊行。萩原朔太郎より装幀と挿画を依頼されるが、完成を見ず、1915年、和歌山市内で死去。田中恭吉の装幀、挿画による朔太郎の第一詩集『月に吠える』は1917年に刊行された。和歌山県立近代美術館に、多くの作品が遺されている〉
 二十三歳で生を閉じた未知、田中恭吉。その短詠を用いることで、田中修一なりに、詩と音楽の関わりを考え、詩から生まれる音楽、音楽になった詩について考え、実践したかったのだろう。(つづく)

 【連載・十九】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩はどのように歌になるかなど、詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタが行われる場所 四.作曲者、演奏者を始め、考えと場を共有する聴衆・観客など、すべてのトロッタ関係者

 田中未知、恭吉について、多くは知らない。二十三歳で亡くなったということ、その関心が美術に始まり文学に及んだということから、彼の精神は混沌の状態にあったと考えられる。混沌とはいうまでもなく、何かが生まれようとする、るつぼ。既成の価値観ではとらえられない、彼だけの精神、創作態度。美術も文学も等価値であり、美術作品にも文学作品にも彼の本質は反映している。二十三年の先があれば、表現の分野はどちらかに絞られたかもしれないが、病と死がそうさせなかったことが、恭吉が人に感じさせる大きさを生んだといえよう。
 田中修一が「よるの芽 短詠三十二」から選んだ五作品を掲げる。俳句でも和歌でもない。詩といわず、彼は短詠という。

傷みて なほも ほほゑむ 芽なれば いとど かわゆし/
こころよ こころよ しづまれ しのびて しのびて しのべよ

むなしき この日の 涯に ゆうべを 迎へて 懼るる/
ひと日に ひと日を かさねて なに まち佗ぶる こころか

よろこびの はてなる 笑みを かなしみの けふに おもひて/
夜をふかみ 聴き入る といき あめつちに ひとつの といき

みつむれば なみだに 溶けて うらうらと 涯をも わかぬ/
蒼穹よ 晴れて うれしも いやはての われの おくつき

わかれし ものの かへりて 身につき まつはる うれしさ/
すこやかよ すこやかよ  疾く かへりね わがやに

 声に出して詠みたくなる作品、歌手なら歌いたくなる作品、作曲家なら旋律化したくなる作品だ。思い返せば−−、短歌を詠む、歌うということが、子どものころはわからなかった。短歌朗詠が描かれた小説の一場面を、どう受けとめればいい? メロディはどうするのかと思った。登場人物はどんな声を出しているか判断できなかったのである。
 結局、詠み手、歌い手固有のメロディでいいのだ。百人一首の競技などでは、誰もが聴き取れる詠み方が求められるだろうが、そうでなければ即興でかまわない。自然なメロディを見つけ出すのも、詠み手、歌い手次第。他人の前で詠み、歌う以上、パフォーマーとしての感性を問われるのは当然である。しかし、子どものころは、それがわからなかった。
 田中修一は、未知(恭吉)の短詠に、彼のメロディを見出したのだ。田中修一はもともと萩原朔太郎に共感していたから、朔太郎の詩集『月に吠える』の挿画に使われた未知(恭吉)の版画に関心を抱いたのだろう。そして短詠にも共感した。そこから歌が生まれた。詩が音楽になる、ひとつの過程がここにある。
 初演した、かのうよしこにふさわしい歌だろう。かのう本人が、初演の日に、この曲を自分のレパートリーにしたいと喜んでいたことを覚えている。
 これと対照的に感じるのが、ファブリチオ・フェスタ作曲の『NEBBIE(霧)』である。レオナルド・ダ・ヴィンチの作品にインスピレーションを得て、フェスタの親友、カルロ・ヴィターリが自由に詩を書いた。ダ・ヴィンチについても詳しくはないが、画家であり科学者であり、あらゆる分野に飽くなき関心を持って追究していった人物であるくらいは承知している。その科学的態度に、混沌という形容はふさわしくないかもしれないが、ダ・ヴィンチとて、最初は混沌の段階があるだろう。多くの人にとって、混沌は混沌のまま。しかしその中から、ダ・ヴィンチはものごとの本質をすくい上げてみせるのだ。ファブリチオ・フェスタは、同じイタリア人として、ダ・ヴィンチを身近に感じていただろう。そこで『NEBBIE』を作曲した。歌の始まりに置かれたのは、ダ・ヴィンチの原文を詩にした「水」。続いて掲げるのは、ヴィターリのオリジナル詩「家に帰る」。私の歌の師の好意に預かり、イタリア語を日本語に翻訳できた。

水の性質は透明である。
だが蒸気、または霧にも変化する。
凝縮した雲は、まるで固体物質であったかの様に
光と陰を取り込む。



デルタ地帯の静寂で優雅な蒸気に私は気づく、
柵状に葦が生い茂った野辺には、
生き物たちの時間がある。
取り外された蝶番の上にイラクサ(刺草)が伸びる。
痛み−空虚なわだち。
記憶は泥土を枯渇させる。
今夜は違う

「水」には、ダ・ヴィンチらしい、科学的態度が明らかだ。「家に帰る」もまた、観察の結果、生まれた詩である。詩といい歌といい、気分が生むように思われがちだが、正岡子規が唱えた「写生」を思い出すまでもなく、根底にあるのは、科学とまで行かずとも、客観的な視点、観察的な態度だろう。恋の歌にせよ、恋心を客観的に見なければ、詩にはならない。
 酒井健吉の『室内楽劇 天の川』は、典型的な物語詩から生まれた。もとになったのは、誰もが知る、天の川をはさんだ織姫と彦星の物語である。愛し合う恋人たちが、一年に一度、晴れてさえいれば七夕の日に会えるという大枠は変えず、自由な物語を発想した。−−七月七日、今年も彦星は天の川のほとりに立った。しかし不思議だった。七月七日は決まって雨。一年に一度しか会えないというのに。織姫の父、天の帝が自分を苦しめるのだと思い、彦星は星が渦巻く天の川に飛びこみ、泳ぎ渡って織り姫に会おうとする。それを見つめる織姫の父、天の帝。彦星が知らない、隠された真実があったのだ……。
 初演は、二〇〇七年七月の名古屋。名フィル・サロンコンサート「詩と音楽二〇〇七」の舞台であった。詩に登場するのは、織り姫と彦星、織り姫の父である天の帝、そして、一切の行方を観察している、かささぎ。詩を書いていた時のことは、よく覚えている。詩は七つに分かれているが、一篇に一篇、七日をかけて書いていった。酒井健吉は「室内楽劇」としたが、私もまた、書いている時の態度、詩にこめた意図は、オペラを作ることだった。例えば、詩に「織姫の詠唱」と記し、アリアを意識したのは、それが理由だ。曲は、この歌で始まる。

(*織姫の詠唱)
星が流れてゆく
逆巻きながら
渦巻きながら
たくさんの星が
天の川を 流れてゆく
ほとばしり あふれる
この胸のうちに似て

 また、かささぎも歌う。かささぎには、帝のそばに侍る道化の役割を与えた。始めの五行が歌、続いて語りとなる。

(*かささぎ)
七月七日は 雨が降る
星祭りには 雨が降る
あの子は いつも
泣いている
天の川は渡れない

天の帝よ
このかささぎに
問わせてほしい
あなたはなぜ
七月七日になると
星の嵐を呼び
星の雨を降らせるのか
ゆったりと星を流す
あの美しい天の川が
荒れ狂っている

 自己満足は禁物だが、『天の川』は、詩と音楽を歌い、奏でるトロッタの、典型と呼べる曲になったと思う。物語に無理を感じない。音楽がわかりやすい。歌と語りと演奏が過不足なく織り合わされる。人も楽器も最小限だが、物語も音楽も大きい。若者の一途さ、権力への反抗心、ストレートで純粋な愛の形、若者の気持ちを知りながらどうすることもできない年長者の苦渋、そして思いがけない結末。書きたい物語を書けた。酒井健吉も、自身の特長をよく表わせたのではないか。織姫の赤羽佐東子がよかった。若く美しい女性の表現は、赤羽にふさわしい。機会があれば、何度でも演奏したい曲である。(つづく)


 【連載・二〇】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩と音楽のあらゆる可能性を考察すること 三.トロッタが行われる場所 四.作曲者、演奏者、考えと場を共有する聴衆・観客など、すべてのトロッタ関係者

 第六回トロッタでは、チラシに載っていない曲が演奏された。『めぐりあい』である。シリーズ化されたため、後に『めぐりあい 夏』と題されることになるが、こんな詩だ。

季節が夏に向かうころ
わたしたちはめぐりあう

風が吹いた
不安な街角
影に寄り添い
歩いていた

季節が夏に向かうころ
わたしたちはめぐりあう

鳥でさえ歌うのに
歌いたい
鳥と一緒に
明日こそ
晴れるようにと

どこへ行くの?
わからない でも
私は生きられる
ありがとう
あなたの歌を聴いたから

 トロッタを毎回締めくくる、アンコール曲として発想した。横浜のピアニスト岡部由美子が、ヴァイオリンの松実健太、チェロの小川剛一郎と、ピアノトリオの演奏会を毎年開催している。そこに足を運んだ際、アンコール演奏を聴きながら、勃然と考えが浮かんだ。トロッタでも、アンコール曲を演奏したい、それなら、舞台と客席が一体になれる曲がふさわしい、と。どの演奏会に行ってもアンコールはある。なぜ、岡部由美子たちの会に限ってそう思ったのか。理由はわからない。
 作曲者に考えたのは、初参加の宮封カ香である。宮浮ネら、アンコールにふさわしい曲を書いてくれると思った。根拠はないが、宮浮ェ『ほたる』以外の曲を書く機会になればよかった。狙いは当った。編曲は酒井健吉が手がけ、お客様との合唱・合唱が実現する。以降、トロッタの作曲家が順に編曲してゆくことになった。−−『たびだち』、それに続く『めぐりあい』。六回ずつ演奏されるうち、批判的な声も聞こえて来た。温かみのある曲を演奏会の最後に置くと、それまでの緊張感ある流れが台無しになってしまう、と。見解の相違であろう。相違するところに、岡部由美子たちの会でアンコール演奏を発想した理由があるかもしれないと感じている。

 続く第七回トロッタについて記そう。会場は初台のスタジオ・リリカである。リリカは、リリカアートスクールが所有するスタジオだ。オペラの稽古などに使われている。第六回でスタジオ・ベルカントが満員になって息をするのも苦しい有様だったので、少しでも広い場所を探した。
 前回から、小松史明のチラシに変化が現われている。A3判の用紙を使い、絵の主題を左右に展開する、大きな画風になった。直接の原因は、チラシの判型が変わったから。第六回から出演者も曲も増えたので、A3判横向きになったのだ。第一回から三回まではA4判縦。第四回は人が増えたのでB4判横になり、第五回はまた人が減ったのでA4判縦に戻った。そして第六回からA3判横になり、以降、一貫している。人と曲が増えたことで問題も生じたが、小松の絵が大きくなったことは、私はよかったと思う。その分、手間をかけてしまっているに違いないのだが。
 第七回のチラシには、右から左に大きく、真赤な花が描かれた。花いけの上野雄次が参加することになったからである。上野の曲は、橘川琢の『花の記憶』。

【作曲】橘川琢 『花の記憶』〜朗読、ソプラノ独唱、ヴァイオリン、ピアノと花による〜』
【作曲】清道洋一 『ナホトカ音楽院』
【作曲】甲田潤 『嗟嘆(といき)』
【作曲】田中修一 『こころ』『チェロとピアノのための狂詩曲』第一楽章 Andantino-Adagio 第二楽章 Allegro energico
【作曲】宮封カ香 『めぐりあい・冬』(編曲/橘川琢)
【作曲】山本和智 『齟齬』
【作曲】Fabrizio FESTA(ファブリチオ・フェスタ)『神羽(かんばね)殺人事件』

【ソプラノ】 赤羽佐東子
【ヴォーカル】 笠原千恵美
【フルート】 田中千晴
【ヴァイオリン】 戸塚ふみ代
【ヴァイオリン】 田口薫
【ヴィオラ】 菅原佳奈子
【チェロ】 對馬藍
【ピアノ】 森川あづさ
【トランペット】 赤澤良之
【ベース】 山本圭一
【ドラム】 山田幸治
【花道】 上野雄次
【朗読】 木部与巴仁
【朗読】 堀江麗奈

 作曲者として、これまで協力として名を連ねてきた甲田潤が、初めて曲を出してくれた。そして山本和智が初参加。
 演奏者として、ヴォーカルの笠原千恵美、朗読の堀江麗奈、フルートの田中千晴、ヴァイオリンの田口薫、花の上野雄次、そして山本和智の『齟齬』のため、ジャズのトリオとしてドラムの山田幸治、ベースの山本圭一、トランペットの赤沢良之が初参加した。
 まず、甲田潤の『嗟嘆』について。実のところ、第六回に酒井健吉が出品した『むらさきの』の吉行理恵もそうだったが、他人の詩については書きにくい。『嗟嘆』は、ステファヌ・マラルメの詩を上田敏が訳したもの。マラルメ作だが、日本語で歌われるのだから、上田敏の詩だろう。やはり、書きにくい。私の中にドラマが生まれない、という意味で。
 トロッタとして、私以外の詩を使うことには、何の問題もない。ドラマが生まれるか生まれないかをいうのなら、それは私に問題があるのだろう。私が、作曲者が選んだ詩人の作品に関心を持てないという点で。伊福部昭が歌に用いた更科源蔵の詩には強い関心を持ち、ドラマ性も感じる。自分が歌うわけでもないのに。
「憧れる美しい人に寄せる青年の純粋な恋心と、秋になぞらえて、忍び来る死という暗い影と、それを静かに受け入れようとする心を、上田敏は美しい言葉を選び、かなり原詩に近い形で訳しています」
 甲田潤の解説だ。恋と秋と詩を重ねて、彼は初冬のトロッタに『嗟嘆』を出品してくれたのか。マラルメの詩『半獣神の午後』からドビュッシーは『牧神の午後への前奏曲』を作曲し、ニジンスキーのバレエ『牧神の午後』が生まれた。上田敏は四十一歳の生涯に多くのヨーロッパ文学を紹介して後進に強い影響を与えた。そうしたことを知っていてもなお、私はマラルメと上田敏を、自分のものにできない。申し訳ないが書けるのはここまでだ。
 そのようにいうなら、田中修一の『こころ』はどうなのか。第四回トロッタで成富智佳子が歌った歌を、笠原千恵美が再演することになった。もともとシャンソン歌手のために書いた曲だから、それを本業とする笠原千恵美はうってつけだった。期待に違わない演奏だったと思う。しかし、詩は私ではない、萩原朔太郎。
 朔太郎について、このころの私は引いた気持ちでいた。吉行理恵、マラルメおよび上田敏と同様、既成の詩人だと思った。だから書けることはないのだが、ただ第五回トロッタで、私は朔太郎の詩による田中の曲『遺傳』を歌っている。第六回で田中は、朔太郎の詩集『月に吠える』に装画を提供した田中恭吉(未知)の短詠を用いた歌曲を発表した。『こころ』は第四回と第六回に出品。田中は朔太郎へのアプローチを繰り返したし、私の中にも、なぜそこまで彼はこだわるのか、という思いが芽生える。結論をいおう。当時の私には、音楽家としての朔太郎が見えていなかった。詩人、朔太郎の姿しか映っていない。詩を書く者としてしか位置づけられないなら、トロッタには関係がない。しかし、朔太郎が音楽家なら話は別だ。朔太郎は詩を書き、音楽をした。マンドリンを弾き、ギターを弾いた。合奏団を組織して演奏会を行なった。音楽教師でもあった。「詩と音楽の研究会」という、非常に気になる名前の会を組織してもいる。十代から二十代の全般、一九一七年(大正六)年に三十二歳で第一詩集『月に吠える』を刊行するまでの朔太郎は、音楽活動を第一にした。才能があれば音楽家になっていたとさえ書いているが、実態は音楽家だった。音楽に挫折して、彼は詩人になった。こうなると私の中にドラマが生まれる。
 −−当時はまだ、朔太郎がわかっていなかった。詩としての『遺傳』にある音楽性にも、想像が及んでいなかった。『遺傳』の初演も、今にして思えば演奏の出来以上に不充分だ。田中修一による朔太郎の提示は、むしろこの先に意味を持って来る。(つづく)


 【連載・二十一】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩はどのように歌になるかなど、詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタが行われる場所 四.作曲者、演奏者、考えと場を共有する聴衆・観客など、すべてのトロッタ関係者

 第七回トロッタのころ、私は萩原朔太郎が解っていなかった。詩としての『遺傳』にある音楽性に想像が及んでいなかった。『遺傳』の初演も、いま思えば演奏の出来以上に不充分だ。田中修一による朔太郎の提示は、むしろこの先に意味を持って来る。朔太郎の音楽的事跡を簡単に記そう。

一八八九年 三歳 横浜でオルゴールを買う。
一八九七年 十二歳 ハーモニカ、紙風琴、手風琴に親しむ。
一九〇三年 十八歳 銀座の十字屋でマンドリンを買う。
一九〇六年 二十一歳 陸軍戸山軍楽隊入学を志すが、年齢制限を過ぎていたため果たせず。
一九一一年 二十六歳 比留間賢八にマンドリンを習う。
一九一四年 二十九歳 東京と前橋を往復しつつ、前橋を拠点とする準備を進めた。自宅書斎を音楽室とする。マンドリン演奏会を盛んに催し、ギターと合わせて自ら演奏。市内に洋楽指南所を設けて指導にあたる。詩「ぎたる弾く人」を書く。
一九一五年(推定) 二十九歳 ゴンドラ洋楽会を組織する。この人脈が後の群馬交響楽団、群馬マンドリン楽団につながる。
一九一七年 三十二歳 第一詩集『月に吠える』を発表。以後も前橋で演奏会を開催し続けるが、一九二五年の再上京に及んで、音楽活動はほぼ終わりを告げた。

 第二次大戦後、朔太郎作曲のマンドリン曲『機織る乙女』の楽譜が発見されたり、室生犀星の詩をもとに朔太郎が作曲した『野火』が演奏されてもいる。
 二〇一二年二月十六日(木)、私は群馬県前橋市の「萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち前橋文学館」を訪ねた。館のホールでトロッタを行なえないかと思ったからだ。名フィルサロンコンサートなどで共演したチェロの新井康之が前橋出身で、文学館のホールで何度か演奏会を開いたと教えられたことも頭にあった。
 まったく初めて訪れる人間が、他人の街をうろうろして何ができる? と思った。朔太郎は近代詩の巨人と目されているし、研究者も数多い。私が知らないだけで、彼の音楽活動についても充分な研究がなされているのでは? 彼はやはり詩人で、研究の名に値しないほど朔太郎の音楽人生は貧弱だったのでは? 仮に貧弱だったとしても、私は彼の音楽活動について、詩以上に知りたいし、共感できる……。
 あれこれ考えながら、人通りの少ない商店街を歩き、朔太郎が詩に詠んだ広瀬川のほとりを歩いて文学館にたどりついた。さまざまな資料を見せていただいた。朔太郎が演奏会を企画した際のの自筆メモや自筆楽譜などもあったが、それらは朔太郎が詩人として大成しなければ打ち捨てられただろうと思われた。しかし、とにかく残っている。それらの断片が、後に朔太郎の詩を作る土台になっただろうと直感された。彼は本格的に作曲をしなかったから、詩は音楽を生まなかったが、音楽は詩を生んだといえるはず。文学館ホールで演奏会を催せることも、このようなホールの常とはいえ、朔太郎が生んだ可能性だと思った。「詩と音楽の関係」の一節を引く。
「あらゆる芸術の中で詩と音楽とは最も密接の関係を有して居る。此の二個の者は姉妹芸術と称するよりも、寧ろ全然同一の基調の上に立つ同体異頭の変形芸術である」「詩とは何等理智又は叙述の手段を借りずして躍動するリズムそのものを言葉或は符号に複写した(註・ここまで傍点)者に外ならぬ。そして音楽は之を音響に複写したものである」
 文学館を訪れた時はまったく頭に上らなかったが、朔太郎は五十五歳で死んでいる。たった今、この文章を書いている私と同じ年齢ではないか。(おかしな表現だが)同じ年の者として、彼が五十五年の人生に、詩を書く傍らでいい、どんな音楽を生きたかを知りたいと、トロッタを行う我が身を振り返りながら痛切に思う。

「葉子、マンドリンとギターを持っておいで」という。私は父がそういえばよいと思っていたので、急いで廊下を歩いて、自分の部屋のマンドリンと、応接間にある父のギターを取りに行った。(中略)/父は少し改まって座り、着物の衿を合わせ直し、そして、くちゃくちゃに吸口を噛んだ敷島を灰皿にぎゅっと押しつぶすと、使い古した何の飾りもないギターをかかえ、細い五本の指先をこまかく動かすのだった」

 長女、萩原葉子による『父・萩原朔太郎』から引いた。朔太郎はトセルリの『嘆きのセレナーデ』が好きで、葉子のマンドリンと朔太郎のギターで、しばしば合奏を楽しんだ。「どんなに飲んだ時でも、テンポは狂わなかったし、私のちょっとのまちがいにも、すぐやりなおしをさせた」。古賀政男が好きだったともいう。「『影を慕いて』の前奏曲は、父の得意中の得意で、まるで指をギターに打ちつけるほど感情をこめて弾いた」
 これでいいのだといえる。娘を相手にした、わがままに振る舞える日常。そこに朔太郎の音楽は生きていた。『嘆きのセレナーデ』や『影を慕いて』の情緒に浸り切る態度に、自己鍛練の厳しさはうかがえない。しかし、自己鍛練をしなければならないのか、ともいえる。音楽は、鍛練のためだけにあるのではない。鍛練しなければならないのは、飢えた人間だけだろう。『父・萩原朔太郎』に描かれた詩人は、飢えていなかった。そもそも彼の飢えとは、どこにあったのか……。
 前橋文学館のトロッタは、まだ開催されていない。集客の難しさを館の方に教えられ、よそ者がいきなり行っても一人の聴衆も集められまいと想像された。前橋に対して力不足だし、朔太郎に対しても力不足だ。トロッタ自体、演奏会場を満員にできない現実があり、友人・知人がいる東京でさえ満足のゆく結果を得られず力不足なのに、前橋で何ができるのかと思う。−−田中修一は、二十一歳の時、朔太郎の詩に依る『漂泊者の歌』を完成させている。
「日は断崖の上に登り/憂いは陸橋の下を低く歩めり。/無限に遠き空の彼方/続ける鉄路の柵の背後(うしろ)に/一つの寂しき影は漂ふ//ああ汝 漂泊者!」
 田中がこの詩に接したのは十四歳の時。そして七年後、二十一歳で歌として完成させた。初演時は二十五歳。私が初演した『遺傳』は、二十一歳でほぼ完成させ、初演時は四十四歳。成富智佳子と笠原千恵美がトロッタで歌った『こころ』は二十七歳で作曲し、四十一歳で改訂初演。『月に吠える』の挿画を描いた田中未知(恭吉)の短詠をもとに四十二歳で作曲・初演し、四十六歳の時には朔太郎の同名詩による『歳日と共に亡び行く』を作曲した。以下、私が「ギターとランプ」(「ギターの友」二〇一二年二月号)に記した田中修一の言葉−−。
「歌劇に情熱をもったモーツァルトは、歌劇の詩と音楽との立場について、こう述べています。『歌劇にあっては、詩は音楽の従順な娘でなくてはならない』私は、詩を私の音楽に、てなづけようとしているのかもしれません。しかし、どちらかが優位に立つ主従の関係というより、詩と音楽は触発する関係にあるといえるでしょう。朔太郎は『詩の中にすでに音楽があり』『詩と歌詞は厳しく分けられなければならない』などと述べています。その意見に頷きながら、私は『漂泊者の歌』『こころ』『遺傳』を旋律化いたしました。なぜでしょう? 歌にするとは、言葉に威力を与えることであり、言葉を美しい声にゆだねたいという気持ちが、作曲の動機のひとつになります。また、魅力的な詩に触れた時、その世界の音楽化を試みたいと少なからぬ作曲家が衝動に駆られるのではないでしょうか」
 続いて、連載の次回から。
「ストラヴィンスキーに〃音楽は音楽以外の何ものも表現しない〃という有名な言葉があります。私も同意見ですが、歌曲については別の考えがあります。伊福部先生は、こんなふうにおっしゃいました。〃歌詞を伴う作品にあっては、別の考え方が必要となる。特定な詩とかドラマの要素が加味されることとなるからである。勿論、これを無視しては意味をなさない。従って、作曲者は音楽の自律性を保ちながら特定な世界の雰囲気の醸成にも配意しなければならぬこととなるのである〃(攻略)」
 この言葉に、作曲家の立場から見た、〃詩と音楽〃の関係が語られているのではないだろうか。(つづく)


 【連載・二十二】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩はどのように歌になるかなど、詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタが行われる場所 四.作曲者、演奏者、考えと場を共有する聴衆・観客など、すべてのトロッタ関係者*サントリーから発売された同名の炭酸飲料とは一切関係ありません。

ああ
パルチザンスクの川の流れ
わが学舎(まなびや)は丘に建つ
ナホトカの地に幾星霜
楽の音を聴く同胞(はらから)よ
今宵は歌え
潮騒に
−−ナホトカ音楽院校歌

『ナホトカ音楽院』は、ロシアにある架空の音楽学校を舞台にした物語詩である。ナホトカは極東に開かれた港町で、貿易の拠点、シベリアに抑留された日本兵の多くがナホトカから帰国したなど、日本との関わりが深い。小樽と敦賀が姉妹都市の関係にある。しかし、私は足を運んだことがない。ナホトカに音楽学校があるかどうかも知らない。百%の虚構だ。つまり言葉だけで、どれだけ世界が創れるかの試み。架空の日本人留学生を主人公に、架空の音楽学校に学ばせた。孤独、恋、死、病。青春につきものであり、これらいずれの要素にも、音楽はよく似合う。ここにないのは、革命だけだ。しかし、おそらく一九九一年のソ連解体以前を時代背景にしているだけに(主人公は作者の分身だから。となると、一九七〇年代後期から八〇年代前期にかけた時代だろう)、失敗した革命という、作者も無意識だったテーマが隠されているかもしれない。いずれにせよ、これは清道洋一にうってつけの詩だと思い、作曲を打診したところ快諾を得た。それらしい校歌まで作って見せたのである。詩は、こんな風にして始まる。

朝日に向かって建つ
ナホトカ音楽院に
幸運を求めてはいけない
ナホトカ音楽院はどこですか?
道ゆく人は答えなかった
ナホトカ音楽院ですよ
知らない 知らない
音楽学校です
そんなものは知らない
今ならいえる
丘の上に建っている
ほら! あの白い建物だよ!
疾走するトラックに背を脅かされ
一本道を歩いた

 編成は、声がヴォーカルの笠原千恵美と、朗読の私。ヴァイオリンの戸塚ふみ代と田口薫、ヴァイオラの菅原佳奈子、チェロの對馬藍、ピアノの森川あづさ。さらに清道は、美術に山中紀子、文筆に後藤匡治を迎え、映像を投映したり、学校案内を作成して配るなどの工夫もした。
 清道は、より広々した大きな舞台を想定していただろう。しかし、スタジオリリカでは狭かった。映像は充分な効果を上げられなかったし、これは想像だが、ピアノ五重奏も、音楽学校の舞台における架空の演奏会として行ないたかったのではないか。
 清道洋一に限らない。私がそうだが、演奏会を連続して行う以上、それは後悔の連続である。失敗を次の機会にどう解決するか。再演された曲は、大抵の場合、この繰り返しに当てはまっている。  初参加した山本和智の『齟齬』は、〃齟齬〃をテーマにした詩を書いてほしいという、彼の依頼を受けてできあがった曲である。齟齬とは咬み合わないこと。異なる要素が咬み合うようにするのが音楽であり一般の表現だが、咬み合わなさを求めるとは珍しい。咬み合わないことがテーマではない。咬み合わなさを表わそうとした(と、私は解釈する)。そうでなければ、どんなに声量、音量を上げても聴こえるはずがない、声とジャズ・トリオ、弦楽四重奏とジャズ・トリオの共演など発想しない。打ち合わせの時、山本は提案した。私が書く詩を、自動翻訳ソフトで外国語に変換させる。それを日本語に変換させる。さらに、それを外国語に変換させ、また日本語に変換させ……。繰り返すうち、あり得ない文章が生れるだろう。それをもとに作曲してみたい、と。これ以上の説明は不要だ。原詩と誤訳詩の全文を掲げる。

【『齟齬』原詩】

月の齟齬
闇に浮かび闇に照る
冷たさを
手に取っていた

星々の齟齬
闇にきらめき闇に散る
戯れを
手に乗せていた

風と雲の齟齬
どこまでも続いて果てしなく
もつれあう
心を一瞬の微笑みに遺し

大地の齟齬
永遠の沈黙を聴いた
夢すら閉じこめ
重たい眠りをむさぼっている

海原の齟齬
群れなしてすべる白い波
泡立つ感情が
水平線を支えていた

鳥たちの齟齬
山に現われ森に消え
歌いながら舞う
その姿こそ魂だと考えている

花の齟齬
盗みたいのか
花の色は花のもの
時間さえ盗めはしない

【『齟齬』誤訳詩】

鳥の調子外れのLa山、それ、私が次に端、および彼を微笑んで示させる夢なしでもいて、その人がすぐさまその人が心で閉じる地球の調子外れの永遠で静かな生活費に作るために聴いた海の調子外れがビーズですが、もつれて、形成する群衆の気持ちを空白にしてください、睡眠の狂人が悪党を望んでいて、彼に/をする、それ;そして、あなた、/、その人、滑りやすいあなたがその人が支えることができた/である、地平線、あなた、その人が花の色を盗むことができない/は息なしでいなくなって、雲では、そのaプレーが星の調子外れの不鮮明でその寒さをそれに選んで、ほろ酔いの調子外れは月の調子外れの不鮮明でそのIカップルを取りました;そして、あなたが花であると考えるaの調子外れを盗みたいなら手で不鮮明で光り輝いて、また、花のものの持続時間への手の上の不鮮明に撒かれるために、踊る図がIをゆったり過ごすのがそれに従って、見えなくなる、in、植林してください。そうすれば、歌うのは、精神です。

 あらゆる試みがなされてよい。負担もまた、私は引き受けよう。原詩と誤訳詩の対比も、聴こえるように朗読されれば興味深いものになっただろう。興味深いよう朗読する工夫もできた。しかし聴こえなかったなと思う。それは演奏者としての後悔だ。どうすべきだったのか。突然、拡声器を取り出してもよかったかもしれない。舞台を抜け出し、客席に分け入って聴こえやすい場所を探してもよかったか。演奏時間内の叛逆を試みてもよかったのではないか。作曲者が、通常の表現行為に叛逆しているのだから、演奏者も叛逆する。叛逆と叛逆の闘いもまた〃齟齬〃だろう。(これは山本和智に叛逆していうのではない。原詩『齟齬』を、私は苦労して書き、愛着を抱いた。美しい世界だとも思っている。日本画家、加山又造の絵に触発されながら書いたのだ。しかしそれが自動翻訳されて誤訳詩となる。日本画の美から遠くなる。詩の運命を考えた。詩にも叛逆する権利はあるだろう)
 橘川琢の『花の記憶』は、作曲者の歴史において、画期的な作品になった。この時以降、橘川は花いけの上野雄次と共同作業を続けて今日に至るのだから。第七回トロッタの『花の記憶』は改訂初演である。橘川が属する日本音楽舞踊会議・作曲部会の演奏会「7+1の音像」が初演。二〇〇八年十二月八日(日)のトロッタにさかのぼる一か月半前、十月二十日(月)の舞台であった。その時は編成が違っている。初演は島信子のソプラノと私の朗読、並木桂子のピアノ、それに上野雄次の花いけだった。トロッタ版には戸塚ふみ代のヴァイオリンが加わった。さらにいえば、初演時のチラシに上野の名はなかった。花いけを想定しておらず、上野に参加してもらえば、よりよくなると準備の段階で交渉したのだ。
 詩『花の記憶』を書いたのは、まったく偶然である。陶芸家、西川聡の個展で、作品に添えられた上野の花を見た。そして帰宅後、たちまち詩を書いたのである。(つづく)


 【連載・二十三】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタが行われる場所 四.作曲者、演奏者、考えと場を共有する聴衆・観客など、すべてのトロッタ関係者*サントリーから発売された同名の炭酸飲料とは一切関係ありません。

花となり生きる
人となり生きる
思いを託す
色と形
立つ そこに居る
花の姿
止まったまま
時間は水に浮かぶ
命も映えて
心に落ちる静かさ

 上野雄次に書いた詩『花の記憶』、「一」の冒頭である。上野の存在は、造形作家、扇田克也によって知らされた。扇田は、ガラス造形の分野において、家をかたどった〃ハウス〃シリーズなどで知られた作家である。二〇〇七年十月二十六日(木)、日本橋高島屋の個展「光のカタチ」を訪れ、その印象を詩にして扇田に送ったことで交流が始まった。特に二〇〇八年三月三日(月)から十五日(土)にかけ、日本橋茅場町の森岡書店で「扇田克也+木部与巴仁『光の部屋』」を開催し、オープニングとクロージングにはイベントを開催。オープニングでは、私の詩で酒井健吉が作曲した『光の詩(うた)』を、ソプラノの赤羽佐東子と、二十絃箏のかりんが初演した。その扇田から、二〇〇八年二月二十二日(金)と二十三日(土)、上野が日本橋茅場町のギャラリーマキでライヴを行なうと案内された。題名は「燐舞-rinbu-」。共演は俳人の生野毅(私は生野とも後に共演できた)。残念ながら予約がいっぱいでマキを訪れることはかなわなかったが、陶芸家、西川聡の個展で上野の花に接することができた。同年三月二十六日(水)から三十一日(月)まで、千駄ケ谷のギャラリーSHIZENで行われた「西川聡陶展 地の器」がそれである。

咲けよ
音は無く
花となり生きる
人となり生きる

暗闇で 花は
変わらずにある

 私の場合、理念や感情より、視覚を刺戟されて言葉が生まれるようだ。それでなければ言葉が言葉を生む。「止まったまま/時間は水に浮かぶ/命も映えて/心に落ちる静かさ」とは、器にはられた水に浮かぶ赤いダリアそのもの。赤は暗闇にこそ映える。その時に花は生き、上野雄次も花となり生きるのである。

すべてがあればいい
そう思い 花に向かう
人生の一切
世の一切が 器にあれ
思いは春にたかぶる
ところが 花は
そんな気負いなど知らぬ気に
自然なのだ
支えるものもなく
すっくと立つ
空気の隙間に
危うさと心地よさの
得もいわれぬバランス

『花の記憶』の「二」が始まる。この時はまだ上野と話していない。何を考えているか、どんな考えで花を生けているか知らなかったが、その後、何度も上野に接して来た今、詩は上野雄次論になっていると思う。直感でつかんだものがあったのだろう。

面影が心に沁みる

生まれながらに持った
色と形
哀しみなど無縁
花は何も語らない
怖いほどの潔さ
その花に向けて
話しかけたい私がいた

 もちろん、長い時間、花と向き合い、考えも体験も深めて来た上野の思いが、私にわかるはずはない。詩に描かれたのは、あくまで私の目と身体を通した花の姿、色と形だ。詩は「三」に続く。私なりの物語を花に託そうとしていたことがわかる。花に向き合った印象は一瞬で決まる。長々と見つめて読み解いてゆくものではない。味わいを深めることは必要でも、向き合うためには一瞬の印象が力になる。白刃を交える真剣勝負のように、一瞬で物語が生まれなければ、それは私にとっては興味の薄い表現である。

器の陰に
花を見る
じっとしている


氷雨が落ちた夜
伝え聞く
人の死
普段と変わらず
朝には新聞を開いた人が
昼にはこと切れた
ひとりの部屋で
ひとりのまま
好いた人があり
嫌った人があり
その一生を映していた
花の面

 花には人の生き死にが重ねられる。花の一生、特に咲いて散るまでが、人生に似た変化を見せるから。実は人も花も形を変えながら連綿と時代を超え、生命体として生き続けるのだが。私も、上野の花から死の物語を想像した。人の死を聞いて花を生ける上野の姿も想像した。曲名の『花の記憶』は、題名通り、花、花を生けた上野、花を見た人、花を生けられた器、花のある場所など、花のすべてを表わした言葉である。

誰もいない
雨に濡れる公園
足跡だけを残して
あの人も あの人も
あの人も
死んでゆく

そんなつもりではないのに
心に残った
花の赤を
手向けようとしている

 二〇〇八年十月二十日(月)、日本音楽舞踊会議・作曲部会の演奏会「7+1の音像」で上野がどんな花を生けるか、まったく想像がつかなかった。これに先立つ五月十八日(日)、私は埼玉県戸田市のOMATA倉庫で、サックス奏者、岡本紀彦と上野雄次が共演した「花と音のライヴパフォーマンス『臨界 rinkai』」に、観客として参加している。詩を書いたので始まりの部分を引く。

上野雄次の肉体はこのためにある

二〇〇八年五月十八日
臨界 ライヴパフォーマンス
午後六時 会場は小俣倉庫
埼玉県戸田市早瀬 荒川に近く
彼は立つ
立った瞬間 その姿に死を意識する
死を与えようとする者
錆びた鉄の輪が
三メートルの高さに
今日の器はこれだと積み重なる
匂う むき出しの鉄
鉄の骨 鉄の筋 鉄の肌
一本の竹が立つ

ごんごんごんごんごんごんごん

頭上に迫る天井クレーン
電動のこぎりが火花を飛ばす
臨界の合図として
上野は竹を引き抜く
放り投げる
鉄の輪も投げ続ける
たちまちほこりは立ちのぼり
客席に舞う

上野雄次の意志はこのためにある

力にまかせ
力で花と闘う その危うさ
肌が鉄で切られると思う
流れる血を思う
臨界 ライヴパフォーマンス
音楽は岡本紀彦
楽器はサクソフォン
吹き散らす音

 当日の模様が少しは伝わると思う。上野の花いけに、暴力性を感じる人がいる。それは忌避につながる。しかし、私は祝祭の表現だと思っている。祝祭に暴力、あるいはそれに近い行為が伴うのは、世界至るところに共通する。『花の記憶』にせよ、日本音楽舞踊会の初演、第七回トロッタの改訂初演、いずれにも程度の差はあれ暴力に通じる表現が見られた。しかし、吹き飛び舞い落ちる花びら、飛び散る花の体液に、美を感じる人もある。互いに、ということだが、橘川の曲は上野の花を受け止め、上野の花いけにも橘川の曲を受け止める力があった。そのようなスタイルの表現であったと解してもいい。古今の名曲を持ってきて、そこに上野の花をからめても上々の結果が得られるわけではないのである。(つづく)


 【連載・二十四】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタが行われる場所 四.作曲者、演奏者、考えと場を共有する聴衆・観客など、すべてのトロッタ関係者*サントリーから発売された同名の炭酸飲料とは一切関係ありません。

 上野雄次が出演した『花の記憶』は、名古屋でも演奏されている。連載第三回を始め、『ひよどりが見たもの』『水にかえる女』『天の川』などについて、名古屋の演奏会については何度か記したので重複するが、ヴァイオリンの戸塚ふみ代が力を尽くして開催できた名古屋での〃トロッタ〃、「名フィル・サロンコンサート『詩と音楽』」と「『名フィル』の日」についてまとめよう。二〇〇九年の『花の記憶』が、名古屋での活動の、今は最後になっている。
 まず、名フィル・サロンコンサートの「詩と音楽」シリーズ。会場はすべて、名古屋フィルハーモニーが本拠とする名古屋市音楽プラザ・音楽サロンである。名フィルが定期演奏会の会場としてきた、JR金山駅に近い、名古屋市民会館と道を隔てて接する。一九九六年十二月から運営が始まり、オーケストラが練習する合奏場を始め、大小の練習室、団員の控室、楽団の事務局、ライブラリーなどがある。その一室で練習をし、そのまま本番会場の音楽サロンに向かえるのだから、すばらしい環境だった。

二〇〇六年七月十五日(土)
【作曲】酒井健吉『トロッタで見た夢』『兎が月にいたころ』『ヴァイオリンとピアノのための狂詩曲』『ひよどりが見たもの』(註・『トロッタで見た夢』は改訂初演、他は初演)
【ソプラノ】石川宏子
【朗読】木部与巴仁
【ヴァイオリン】戸塚ふみ代
【ピアノ】山本敦子

二〇〇七年七月二十二日(日)
【作曲】酒井健吉『唄う』『旅』『イヨンノッカ』『トロッタで見た夢-ソプラノとピアノ三重奏の為の-』『水にかえる女』『天の川』(註・『唄う』は改訂初演、本版の『トロッタで見た夢』は改訂初演、『水にかえる女』『天の川』は初演)
【ソプラノ】児玉弘美
【朗読】木部与巴仁
【ヴァイオリン】戸塚ふみ代
【チェロ】新井康之
【ピアノ】山本敦子

二〇〇八年七月十八日(金)
【作曲】橘川琢『冷たいくちづけ』『冷たいくちづけ』『うつろい』『《都市の肖像》第二集「ロマンス」』『「恋歌」〜夏の歌・ゆめ うつつ・逢瀬〜』『鼠戦記』(註・『鼠戦記』が初演)
【アルト】谷田育代
【朗読】木部与巴仁
【ヴァイオリン】戸塚ふみ代
【ピアノ】山本敦子

 作曲家はひとり、個展の形式である。曲は四曲で始まり、二年目からは休憩をはさんで六曲を演奏するようになった。第一回は、トロッタ以前に始まっている。長崎で、酒井健吉らのkitara音楽研究所の演奏会に参加したよりも前だ。名フィル・サロンコンサートが、トロッタにつながったといえるだろうか。詩による曲があり、それのない器楽曲があり。トロッタの構成と同じだ。
 会場の音楽サロンは、合唱の練習などに訪れた名古屋市民の、憩いの場所である。その一角で、名フィルの有志らによる小規模の演奏会が行なわれて来た。それを無料で楽しむ習慣が、名古屋の人々には根づいている。そのような場所で、大きな制約もなく、自由に〃トロッタ〃を行なえたことは得難い機会だった。
 註に記したが、名古屋を初演ないし改訂初演とする曲が多い。ほとんどは後にトロッタで再演したが、ソプラノとピアノ三重奏版『トロッタで見た夢』『鼠戦記』は、名古屋で演奏したきり。いつかは陽の目を見せたい。やはり作曲家にとって、演奏する場所の有無は大きな問題である。少しでも、演奏の機会を作らなければと思う(酒井健吉に導かれた長崎の演奏会についても、何度か書いてはきたものの、まとめて記さなければと改めて思う)。
 トロッタで慣れた奏者以外との共演は貴重な経験である。特にピアノの山本敦子とは、計六度行なわれた名古屋の〃トロッタ〃のうち、五度共演した。人によってこんなに曲の解釈が違うのかと思った。特に橘川琢の『冷たいくちづけ』で、山本のテンポが極めて重厚かつゆっくりだった。橘川からは、もっと速くという指示は出なかった。ならばと、私も東京の〃トロッタ〃とは異なる表現を心がけた。それでよかったのだと確信している。
 続いて、「『名フィル』の日」。「名古屋フィルハーモニー交響楽団メンバーによる室内楽コンサート」と銘打たれている。午後早くから夜まで三部構成に分け、名フィルの有志が好きな曲を好きなように披露してゆく。名フィルのメンバーと親しめる楽器大体験コーナーや懇親会もあり、一種のお祭りといえよう。しかし、演奏する間は真剣だ。特に、東京から行く私にとっては。「『名フィル』の日」にも三年続けて出演できた。しらかわホールは一九九四年にオープンした、座席数七百の、名古屋を代表する中規模の会場で、響きがよい。東京では、小さな空間でトロッタの曲を演奏して来たが、大きな空間でもできる。それが朗読と詩唱の決定的な違いだと思っている。音楽として表現している。朗読なら、大ホールよりむしろ、小さな場所の方がふさわしいだろう。しかし、トロッタの詩唱および、詩唱を伴う曲は、空間が大きくても小さくても自在に表現できる。



二〇〇七年八月十九日(日)
【作曲】橘川琢『冷たいくちづけ』
【朗読】木部与巴仁
【ヴァイオリン】戸塚ふみ代
【ピアノ】田中ゆりあ

二〇〇八年八月三日(日)
【作曲】酒井健吉『祈り 鳥になったら』
【朗読】木部与巴仁
【ヴァイオリン】戸塚ふみ代
【チェロ】新井康之
【ピアノ】山本敦子

二〇〇九年八月二日(日)
【作曲】橘川琢『花の記憶』
【ソプラノ】児玉弘美
【詩唱】木部与巴仁
【ヴァイオリン】戸塚ふみ代
【ヴィオラ】篠原聡子
【チェロ】新井康之
【コントラバス】濱田尚子
【ファゴット】ゲオルギ・シャシコフ
【ピアノ】山本敦子
【花いけ】上野雄次

 このうち、酒井健吉の『祈り 鳥になったら』は、第一回トロッタで、無伴奏で朗読したものである。「『名フィル』の日」のために改訂した。

鳥になったら
わかると思っていた
人はなぜ 哀しいのか
人はなぜ 疑うのか
空を飛びながら
風を切りながら でも
わからなかった

 原詩は、このような形を五回繰り返す。そこへ新たに、酒井健吉に深い関わりを持つ、長崎の物語を織り合せた。第一連の前に置いたのは、このような詩文だ。

どこへ行こうとして
何をしようとして
冬の風に身をさらすの
わからなかった
わかろうともせず
石畳の坂を
ひとりの少女がのぼってゆく

丘の上で 今朝
男の人たち二十六人が死んだ
信じる心を捨てようとせず
槍にかかって死んだ
少女はその一切を ついさっき
見届けたばかり

『花の記憶』演奏の二〇〇九年には、依頼されて別の曲の解説をした。名フィルの元コントラバス奏者、岡崎隆の企画で、須賀田礒太郎の『東洋組曲』を抜粋で演奏したのである。須賀田の研究者でもなく、解説するなら、二〇〇二年に神奈川フィルハーモニー管弦楽団が須賀田の交響詩『横浜』を復活演奏した際に解説を書き、実際に須賀田の楽譜を発掘した片山杜秀が適任なのだが。しかし私としては、伊福部昭や早坂文雄らと同時代に活躍し、その後、埋もれた存在だった須賀田に触れられたことはよかった。
 〃トロッタ〃が東京以外の土地で演奏したのは、二〇〇九年の『花の記憶』で最後となっている。長崎、名古屋の他に、もっと機会があってよい。人の思いがそれを可能にするのだから、思い続け、現実化しなければなるまい。(つづく)


 【連載・二十五】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタを行う場所 四.作曲者、演奏者、考えと場を共有する聴衆・観客など、すべてのトロッタ関係者*二〇一三年にサントリーが発売した同名の炭酸飲料とは一切関係ありません。

 第七回のトロッタに話を戻そう。最後を飾ったのは、Fabrizio FESTAファブリチオ・フェスタが私の詩にもとづいて作曲した、『神羽(かんばね)殺人事件』だった。詩は長く、とても一度で解説できる分量ではないが−−。

神の羽と書いて神羽と読む / 北に向かって二時間 / 自動車(くるま)を走らせると見えてくる / 荒々しく削ぎ落とされた三角の岩山 / 神羽山(かんばねさん) / 麓には現代(いま)も / 神々の遊び場という / 手つかずの森が広がっている / 人などまだいない時代(ころ) / 神は神羽山の頂で白く大きな羽を休めた
 
 まったくの物語詩、散文詩で、韻文を歌曲にするより困難が予想された。しかし作曲者は、書き始めこそ遅れたものの、五連に分かれた長篇詩に、次々と音楽をつけてきた。どの小節でどの詩文を詠むか。厳密ではないが、その指示もなされていた。さらに、日本語を使った赤羽佐東子のソプラノ歌唱は、もちろんフェスタ本人が旋律化した。

三週間が経つ / 男の死体が発見されたのは / 神聖なその場所だった / 立ち入りを禁じられた神羽山だが / 航空写真を撮影するヘリコプターには何もかもが見渡せる / 男は平たい石に横たえられ / 真裸にされていた / 首筋には深い刃物傷 / ただし血は流れていない / 誰が / どこで / なぜ殺した? / さらしものにした理由(わけ)は?

 古代史、民俗を背景にした推理小説といった趣である。主人公は、事件の謎を解こうとする刑事。刑事は女性で、殺された男の恋人だった。彼女の胎内には、三か月の生命が宿っていた。もちろん、男との間の……。このような類の小説を特に好きというわけではなく、読んだこともない。ただ、現代人にも古代人と変らない情念が流れている、それは今では、狂気と呼ばれるものかもしれない。そんな物語を書いてみたかった。一連の後は略し、二連に移ろう。二連の前後を略し、筋に関係ある箇所を掲げる。

人さまに恨まれるような主人ではありません / それは私がよく知っている / 変わった様子など何もありませんでした / それも私がよく知っている / 金銭や女性関係のトラブルもなかったと思います / 誰でもない私がその女性なのだ / 初めて訪れた男の家だった / 初めて向き合う男の妻だった / ぽつりぽつりぽつり / しかしはっきりとした言葉で語っている / やつれているが美しい / 私はこの女と / 神羽山でさらしものにされた男を分け合っていた / 今は妻よりもきみを愛している / 男の言葉を信じた / きみといる方が楽しいよ
信じるしかなかった

「荒々しく削ぎ落とされた三角の岩山」神羽山。架空の山だがモデルはある。私が生まれた町にある、山岳信仰の霊場。烏帽子山とも呼ばれ、その異名から三角の岩山であることがわかろう。創作の背景を声高にいうつもりはない。私は無意識に、書きたいから書いた。書いた意味を私が実感するのは、ずっと先のことだという予感がする。−−刑事は、死んだ男の子を身ごもっていると、誰にもいえなかった。男の死と自分の存在は無関係。そう、自分に言い聞かせるしかなかった。

いえない / 誰にも / 男とのことは / 上司にも同僚にも / 私は男の死に無関係だし / 私の存在が事件を引き起こしたわけでもない / いわなくていい / 私がいなくても男は殺されていた / 打ち消しながら思っている / 私がいたから男は殺されたという可能性を / ただひとり / 誰にもいわず / 二十四時間打ち消し続けている

 連想するのではないが、独奏楽器のフルートが、鳥を想わせたことは事実だ。人は死んで鳥になる。鳥は死者の生まれ変わり。鳥の声は人に似る。そんな死生観は伝えてあったから、フェスタもその考えを音楽に生かしてくれたかもしれない。フルートは、高本直から変わった田中千晴である。田中は、上野雄次が出演し、すみだトリフォニーで行われた『花の記憶』の初演に足を運び、トロッタのスタイルを感じてくれていた。−−第三連で、新たな人物が登場する。それは神羽神社の宮司で、殺された男の妻には、兄に当たる男だった。三連の始まりは、朗読のソロである。

手がかりは未だありませんか / 壮年の宮司が茶を出してくれる / お山の湧き水で煎れたお茶でございます / 神羽山を背にした神羽神社 / 神域を汚されて宮司様はさぞお腹立ちでしょう / 水を向けたが返事は意外なものだった / 人の魂はなべて天に帰ります / お山の頂は天に近い / 亡くなられたのは不幸だが頂にあったのは幸いです / ご迷惑ではないのですか / 私は魂の道案内をいたすまで / 迷惑でもそうでないとも申せません / 白い影が視線の彼方を横切った / 気を取られた私に宮司は微笑んでいう / 私の妹です / 殺された男の妻だった / あの子には不幸なことでございました / 失礼いたします / 音もなく立って消えてゆく

 この引用部分を詠み終えると、ヴァイオリン二挺によるグリッサンドが始まり、ところどろこ、ソプラノ、ヴィオラ、チェロ、ピアノが聴こえてくる。第三連の後は省略しよう。第四連は、女同士の闘いである。テーマは嫉妬だ。三連の曲は高音のヴァイオリンで始まったが、第四連は低音のチェロから、中音のヴィオラへと受け継がれていった。−−やがて事件は思いがけない展開を見せる。男の妻も殺された。同じように首筋を刺され、真裸で神羽山に放置されていた。刑事の目に、男は自分だけを愛しているといいながら、死んだ後は妻と一緒に神羽山から空へ昇ったと映る。犯人は、宮司だった……。

鳥葬という行いがございます / チベットなどに伝わる / とむらいの方法が日本にもありました / 神羽の地はそのひとつ / 私どもの家系が / 鳥葬の務めを果たしてまいりました / 現代(いま)は法律で禁じられておりますが / 魂を天に送るため / 死体を鳥に食べさせる考え方には / 現代人など及びもつかない長い歴史があるのです
(中略)
妹は夫と再会するため天に上りたいと申しました / その心情はよくわかります / わかるなら私は魂を導いてやらねばなりません / これから死ぬという連絡を受けて / 妹の家に行きますと / 刃物を首に突き立てたまま / 風呂場で死ねずにおりました / すぐ楽にしてやり血を流しきった後で / 妹をお山に運んだのでございます

 このような物語を、イタリア人の作曲家が理解できたのかと思う。勝手にいうことだし、詩を書く者との意思の疎通が必要だろうが、刑事の歌で進行する、オペラに作曲することも可能だった。物語は、刑事のこんな言葉、叫びで締めくくられるから。
「男の魂が天にあるのなら死んで会いに行きたい」
「お願い」
「鳥葬にして」
「お願いだから私を鳥葬にして」
 聴いた方々は、『神羽殺人事件』をどう思っただろう。私の表現に改善の余地はあった。演奏時間が長過ぎた反省もある。だが再演して、曲の真価に磨きをかけたい。音楽を朗読の伴奏にしたくないし、音楽とより緊密なやりとりをしたいし。そのためには、作曲者自身に立ち合ってもらう必要があるだろうが。
 第七回トロッタの締めくくりは、宮封カ香作曲、橘川琢編曲の『めぐりあい 冬』。演奏が進むにつれ、上野雄次が銀杏の落ち葉を会場に蒔いてくれたことが、静かな興奮として記憶されている。(つづく)


 【連載・二十六】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタを行う場所 四.作曲者、演奏者、考えと場を共有する聴衆・観客など、すべてのトロッタ関係者*二〇一三年にサントリーが発売した同名の炭酸飲料とは一切関係ありません。

 第七回トロッタの、拾遺というべきいくつかの事柄を記そう。
 ヴォーカルとして初参加した笠原千恵美は、愛知県の高校で、私の友人だった。結婚前の旧姓の方が、私には親しい。幼児から音楽を修めて来たが、音大には進まず、教育大学を出て音楽教師になった。しかし思うところあって教師を辞めた後、何年かしてシャンソン歌手を志したのである。シャンソンを習い始めたころ、これからレッスンだといって、東中野の喫茶店に、楽譜でいっぱいの鞄を提げて現われたことがある。笠原が友人たちと発行する印刷物に、原稿を寄せてほしいという依頼だったと思う。その原稿は書かずに終わったはずだ。声が以前と変わっていたことが印象に残っている。
 シャンソンの会の案内を受け、何度か足を運んだ。自作の書き下ろし曲を収めた,彼女のCDを送ってくれもした。CDの発売元は、西荻窪の駅前にあるライヴスペース、奇聞屋である。オーナーの吉川正夫は、作曲もするピアニストで、奇聞屋を経営するだけでなく、レーベルを持ってCDや演奏会を製作している。
 奇聞屋では、月に一度の割合でオープンマイクの朗読会が行なわれている。オープンマイクとは、誰でも参加自由の形式である。私も毎月通って、詩を詠んでいた。オープンマイクの会は方々にあったが、朗読のスタイルを探る貴重な機会になった。奇聞屋で試した方法をトロッタに活かした例はいくつもある。希望すれば、朗読に合わせ、吉川が即興でピアノを弾いてくれた。〃詩と音楽〃の可能性を探れるのも、奇聞屋の特徴だった。
 初めて奇聞屋に足を踏み入れる前から、笠原がCDを出した場所だとという意識があった。高校時代からの縁がある。奇聞屋の縁がある。後にトロッタに参加する作曲家、今井重幸が経営するシャンソンの店で、笠原は今井のピアノ伴奏で歌ったこともある。思い切って、トロッタに参加してみないかと声をかけた。承諾してくれたが、彼女はよく思い切ったと想像する。子育てがたいへんな時期でもあったから。
 実はその前    。笠原の個人サイトで、近ごろはショパンの曲などに懐かしさを感じる、という記述を読んでいた。シャンソンは大切だが、クラシック音楽に原点を感じていることがわかった。トロッタの音楽傾向、演奏のスタイルと一致する(マイクの有無はシャンソン歌手にとって大きな問題だろう。その点も、笠原は思い切ってくれた)。実は、『伊福部昭・音楽家の誕生』に結びつく伊福部の取材を、初期は笠原と一緒に行っていたのだ。それは私よりも音楽に詳しい、笠原を見こんでのことだ。取材そのものがいったん中断したので、笠原と世田谷区尾山台の伊福部邸に足を運ぶこともなくなったが、それもまた、彼女と私の縁である。

 オープンマイクの話が出たので、それについて記しておく。朗読ということにも触れよう。
 オープンマイクは、私にとって自由の象徴だ。マイクの前でなら誰が何を声にしてもいいという発想は、表現の自由を保証するものである。マイクの前は、何があってもいい世界である。散文でもかまわないが、特に詩は、文章表現の原点に位置すると思う。ということは、詩の朗読は自由の原点である。無限の自由があるなら、他人の詩ではなく自分の詩こそ詠みたい。オープンマイクの朗読に、著名作家の著名な作品を詠む傾向があるが、私は反対である。考えてみよう。伝統和歌の場も一種のオープンマイクだ。そこでは、ひとりひとりが創作者である。他人の歌ではなく自分の歌を詠む。詠む行為自体が創作であり、創造である。書いて、声に出す。その一連を歌という。伝統の世界がそうなのだから、ましてや現代のオープンマイクでは、詠む人にも作品にもオリジナリティを求めたい。志を高くした結果が不出来なら、結果など誰も問わない筈である。
 ニューヨークの教会で、詩人たちの朗読を聴いた。ジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグの友人だったビート詩人、グレゴリオ・コーソ(二〇〇一年に死去)が、しきりに禁忌の言葉を口にするので会場から失笑が漏れた。その言葉を吐き出すことで、彼は自由を得るつもりだったか。抵抗感をなくせと聴衆をたきつけたわけでもあるまい。若者たちにとって、そんな言葉は禁忌ではないから。会場に起こった笑いは、老詩人への憐れみか。
 ビート系詩人を特徴づける活動に、ポエトリー・リーディングがある(オープンマイクは、その影響を受けていると想像する)。詩の朗読だが、ただ詠むだけではない。演劇にも音楽にも踏みこむ創作性、つまり自由が求められる。人前に立つからには、自由に振る舞わなければ。突っ立っているだけはない、いかに自由に振る舞うか。そこに表現がある。ヴァイオリニストは自由に弾く。バリトン歌手は自由に歌う。打楽器奏者は自由に叩く。譜面があっても演奏家は自由になれる。技術をもって。譜面に縛られたくなければ、それも可能である。
 ただ、第七回トロッタで、演奏曲目に合わせて会場を変更するということがあった。もちろん初めての会場で、足を運んで交渉し、しかるべき仲介がなければ駄目というところをお願いして使用できることになっただけに無念であった。新宿の路上で会場に電話をし、開催不能となった時のことは忘れられない。今なら、どうするだろうか。早稲田奉仕園のスコットホールを使うことが前提になっているが、そこを変える気は今の私にはない。曲を変えてほしいと思うだろう。当時は、トロッタはこのようにありたいという確信がなかったのかもしれない。作曲家を前に、優柔不断の態度を取ったということかもしれない。自由であろうとしながら、不自由を合わせ持っていた。そのような悔しさを味わいながらたどりついたスコットホールだから、不便はあっても、手放したくない思いが強い。
    となると、記憶が錯綜しているが、第七回トロッタの会場となったスタジオ・リリカは、前の会場が使えなくなった後で借りることにしたようだ。形としては、前の会場では演奏できなかった曲を演奏できる自由を得たことになる。自由の定義はさまざまだろう。何を大事にするかは、その時々で変ってくる。

 第七回トロッタに、田中修一は『チェロとピアノのための狂詩曲』を出品した。第七回唯一の器楽曲であった。奏者は、チェロが對馬藍、ピアノが森川あづさ。二人は都立芸術高校以来の友人だ。親しい友が演奏する機会、という感傷を私が抱いたことは事実。私が、笠原千恵美を高校の友人とまず思うことにも感傷がある。聴く側にとって、感傷の押しつけは迷惑であろう。私がドライというよりウェットで、割り切りが難しい人間性の持ち主であることは承知している。しかし、人と人の関係は大切ではないか? 『チェロとピアノのための狂詩曲』をまかせるにあたり、私と田中修一は、對島の演奏を聴きに横浜に足を運び、言葉を交わした。森川との練習を早めに始めてもらえるよう、楽譜を相当前から用意して渡してもいる。そうした準備を積み重ねての演奏だった。
 狂詩曲とは民族的素材における幻想曲をさす……題材は汎く東アジアにとった……日本文化と中国、東洋との関係は…共通点と相違の混淆の中にある……チェロのおおらかな唄声で、東アジアにおける農夫の植物的感性の表彰を試みたい。
 こんな認識のもとに作曲された、田中修一の狂詩曲である。期するものがあったと思う。今、私は演奏そのものを評するつもりはない。聴いた人がわかっているし、その場にいなければわからないことだ。名手が弾けば巧い演奏になるだろう。そのようなものを聴きたいと、私は思わない。演奏をまかされた人間が、その人間性でいかに演奏するか、演奏したかを聴きたい。田中のテーマでいえば、東アジア人としての對馬と森川が、ということになる。日本語を用いて朗読すれば、日本人が詠んでいるとわかってもらえる。しかしチェロは? ピアノだと? 書法はアジアでも、楽器と奏法はヨーロッパだから、それこそ混淆の罠に陥りかねまい。私の朗読自体、日本語を使う安心感にあぐらをかいていないか。自由に、自分を批判してみてはどうだろう。省みるべき点が、トロッタには無数にある。


 【連載・二十七】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタを行う時間と場所 四.作曲者、演奏者、考えと場を共有する聴衆・観客など、すべてのトロッタ関係者

 二〇〇九年五月三十一日(日)の第八回トロッタを念頭に置きながら、トロッタの現在形である二〇一三年九月二十八日(土)開催の演奏会、「フランシス・プーランク 音楽の肖像」について書こう。両者には共通点がある。
「音楽の肖像」は、プーランクとロルカの関係に注目したところから始まった企画である。プーランクは一九三九年一月生まれ、ロルカは一九三八年六月生まれ。年は違うが七か月しか違わないから、同い年と考えてもいい。
 詩と音楽の関係を考える時、ロルカの存在を避けて通れないことは、ロルカの詩を朗読し続けた天本英世の思い出と共に記した(「連載・九」)。プーランクが一九四三年に作曲した『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』は、第二楽章の楽譜に、〈フェデリコ=ガルシア・ロルカの思い出に〉という献辞があり、詩『六絃』の一節が記されている。また一九四七年には、詩集『もろもろの歌』に収められた「唖の子供」「散歩するアデリーヌ」「枯れたオレンジの木の歌」をもとに、『ガルシア・ロルカに捧げる三つの歌』を作曲(詩の題名は小海永二訳・青土社刊『ロルカ全詩集T』)によった)。
 −−ロルカはプーランクと会っている。だから作曲家は詩人に曲を捧げた。私はそう思った。しかし、調べれば調べるほど、ふたりが会ったという記録は見当たらない。だが、プーランクにピアノを教えたのはスペイン人ピアニストで、ドビュッシーやラヴェルの曲の初演者として知られるリカルド・ヴィニェスである。またロルカは、パリから帰国してグラナダに居を定めようとしていた作曲家、マヌエル・ド・ファリャに出会い、大きな啓示を得た。ヴィニェスはファリャの曲を演奏するなど、パリで深い結びつきがあった。プーランクはファリャを知っている。ロルカはヴィニェスを知っていたのか? いずれにせよ、プーランクとロルカには間接的な関係があった。あと一つでいい。二人の関係に明確な手がかりを得たいと思い続けているのだが……。
 第八回トロッタに、作曲家・成澤真由美が参加している。私は成澤のために、詩『オリーブが実を結ぶころ』を書いた。ロルカはオリーブの木の下に眠っているというが、現地を訪れたことがないので実感は薄い。ただ、学生時代から天本が詠むロルカの詩を何度か聴いて、オリーブがロルカとスペインに切り離せない、象徴だということはわかった。また天本英世のエッセイに教えられ、ロルカがアンダルシーア地方の民謡を採取し、ピアノ伴奏による十三の歌にまとめたことも知った。そこで、徳岡弘之がギター伴奏に編曲した「ガルシーア・ロルカのスペインの歌」の楽譜を求め、折りに触れ開いていたのである。「ドン・ボイソのロマンセ」など、何曲かの詩にオリーブが現われる。深い知識や体験はない、素直過ぎるのだが、『オリーブが実を結ぶころ』は、私なりの、ロルカへの捧げ物なのである。

わたしは瑠璃
わたしは紫苑

オリーブが実を結ぶころ
女たちは出会う
すり切れた衣を
吹く西風になびかせて
誰 あなたは
何処(どこ)から来たの
言葉もなしに
語り合う

 赤羽佐東子と笠原千恵美、誰をどちらにするかは成澤が決めることだが、二人の女声を念頭に置いて、私は詩を書いた。詩を詠んだある人が、「西風」をギリシア神話の風の神、男神のゼピュロスと解したが、その意図はなかった。しかし、作曲者と歌い手がそう解釈してくれるのは自由だ。ただ、詩のクライマックス−−、

知っている
この道は海に続く
知っている
この道は谷間に続く
それでもあなたは行くだろう
あてもなく
でも考えて御覧
あなたが探す男は
このオリーブの根に
深くからまれ
眠っているかもしれないよ

 この部分、オリーブの根にからまれて眠っている男には、ロルカの姿を託した。一九三六年。スペインで内戦が勃発し、ロルカはファシストの兵に捕われる。グラナダに近いビスナール村に連れて行かれたロルカは、〈大いなる泉〉とも〈涙の泉〉とも呼ばれる泉のそばで、夜明けとと共に銃殺され、遺骸はオリーブの木の傍らに埋葬されたというのだ。
 プーランクは、おそらくロルカに会っていないが、死の知らせを聞いて劇しく動揺したであろう。その直後は音楽に結びつかない。七年が経ってヴァイオリン・ソナタが生まれ、十一年が経って歌曲が生まれる。会ったことがなくても、面影に捧げることはあるだろう。それでいいと思うし、それぞれの師を通じ、二人は間接的に身近に感じ合っていたのである。
 第八回トロッタのチラシに描かれた小松史明のオリーブは、彼らしい虹色の色彩をまとっている。八回目の作曲者と曲、出演者を記そう。

【作曲】伊福部昭 『日本組曲』
【作曲】今井重幸 『ピアノと絃楽四重奏のための「仮面の舞」』
【作曲】橘川琢 『詩歌曲「異人の花」』
【作曲】清道洋一 『蛇』
【作曲】甲田潤 『ピアノのための「変容」』『縁山(えんざん)流声明と絃楽のための「四智讚(しちさん)」』
【作曲】田中修一 『砂の町』
【作曲】成澤真由美 『オリーブが実を結ぶころ』
【作曲】宮封カ香 『めぐりあい・若葉』(編曲/清道洋一)

【ソプラノ】 赤羽佐東子
【ヴォーカル】 笠原千恵美
【フルート】 高本直
【オーボエ】 今西香菜子
【ヴァイオリン】 戸塚ふみ代
【ヴァイオリン】 田口薫
【ヴィオラ】 仁科拓也
【チェロ】 伊藤修平
【コントラバス】 丹野敏広
【バンドネオン】 生水敬一朗
【ピアノ】 徳田絵里子
【ピアノ】 並木桂子
【ピアノ】 森川あづさ
【ピアノ】 山田令子
【花道】 上野雄次
【詩唱】 木部与巴仁
【縁山流声明】 小島伸方、冨田浩雅、夏見裕貴

 先に名前を挙げた成澤真由美に加え、作曲家として今井重幸が初参加し、既に物故していたが、伊福部昭の曲も初めて演奏した。また、オーボエの今西香奈子、ヴィオラの仁科拓也、チェロの伊藤修平、コントラバスの丹野敏広、バンドネオンの生水敬一郎、ピアノの徳田絵里子と並木桂子、山田令子が初参加し、甲田潤の曲の参加者として、縁山流声明の小島伸方、冨田浩雅、夏見裕貴が出演したのである。何と、多くの人々を迎えたことか。
 今井重幸は、〈古弟子〉と称される、伊福部昭初期の弟子である。第一回トロッタ以来、何度か足を運んでくれていたことに加え、今井は荻窪、私は阿佐ヶ谷に住み、しばしば駅で顔を会わせていた。第一回トロッタの後、二〇〇七年三月七日(日)にサントリーホールで開かれた第一回伊福部昭音楽祭のパーティで、酒井健吉が今井と話をし、もしトロッタで演奏するならこんな曲があるといわれたと聞いてもいた。ある時、思い切って、トロッタに曲を出品しませんかと持ちかけたのである。伊福部の流れを汲むベテランの作曲家とトロッタの場を共にしたかったし、今井を通じて、さまざまなことを勉強させてもらおうとも思った。
 これは人によってどう受け取られるかわからないが、年長者として権威的立場になるのが私は嫌だ。誰とでも同列でいたい。ただし、今井重幸を上座に据えて責任を放棄するということではない。誰がいるにせよ、自分のすることに私は責任を取る。今井の初出品曲は、ピアノと弦楽四重奏のための『仮面の舞』だった。酒井に自薦したのは、この曲だと思われる。今井はフラメンコに関わり、舞踊曲も多く書いている。幼時に見た舞楽面の記憶。韓国を旅して出会った仮面劇や農舞楽の印象などを一曲に結実させた、実に今井らしい作品である。東京音楽大学・民族音楽研究所で行なわれた初合わせを、昨日のことのように思い出す。


 【連載・二十八】  木部与巴仁

トロッタtorotta [名詞] 一.詩と音楽を歌い、奏でること 二.詩と音楽の関係を考察すること 三.トロッタを行う時間と場所 四.作曲者、演奏者、考えと場を共有する聴衆・観客など、すべてのトロッタ関係者

 第八回トロッタの準備を進める過程で、「本番までの通信」を発行し、関係者に配った。三月三十日号を第一回に、五月三十一日の本番一週間、五月二十五日号を第五回として終わっている。約二か月に五回書いたわけだ。文章を抜粋しながら振り返ってみる。

●「本番までの通信:一」(三・三〇発行)より
「第八回『トロッタの会』開催が決定いたしました。五月三十一日(日)十四時開演で、新宿ハーモニックホールにてお目にかかります」
 本番の約二か月前に、開催日を決めたようだ。現在(二〇一三年八月)は、半年前に会場決定、三か月前にチラシ完成という流れだから、余裕は増えた。
 新宿ハーモニックホールは、初めての会場である。もともと運送会社だったビルの地下にある。社長がピアノを弾く家族のためにと造ったホールで、経営者が替わってからは、会社の行事や貸しホールとして使われている。小さいながら緞帳付きの舞台があり、約一五〇席の客席には座り心地のいい椅子が固定されている。最寄りは地下鉄の西新宿駅だが、JR新宿駅からも遠くない。トロッタには手頃だと思った。

●「本番までの通信:二」(四・十三発行)より
「第八回『トロッタの会』の準備が進んでいます。デザイナー、小松史明さんによるチラシの原稿が、間もなく印刷所に入稿されます」
 本番一か月半前に、まだチラシを作っている。そして、今井重幸、甲田潤、田中修一の名をあげながら、次のように書いている。
「お三方とも、故伊福部昭氏に師事されました。今回のトロッタ8は、『五月三十一日』に行われます。これは、伊福部昭氏のお誕生日です。重なったのはまったくの偶然であり、気がつかなかったのですが、ピアニストの山田令子さんに教えていただきました。それで山田さんもアメリカから帰国して『日本組曲』を演奏し、伊福部氏のお誕生祝いの意味合いを持たせる運びとなったのです」
 トロッタには、作曲家、演奏家とも若い人々が参加しているが、伊福部も、かつては一人の若者だった。『日本組曲』は十九歳の作品である。それ以前にもギター曲、歌曲を書いたが、楽譜は残っていない(近年、歌曲『平安朝の秋に寄せる三つの歌』が発見され、初演が期待されている)。十九歳の伊福部の曲をトロッタで演奏する。「若者・伊福部昭」が参加する、若者の声を聴きたい、と思った。芸術作品には、何歳に、どの時代のどこで創ったかが刻印されている。後世の者には、それを読み取る楽しみがある。

●「本番までの通信:三」(四・二十七発行)より
「第八回『トロッタの会』のチラシを配布し始めました。毎回いっていることですが、チラシを配るところから、すでに演奏会は始まっています。舞台に立ち、声を発する。それ以前の、遠い時間に、トロッタは、もう開演しています」
「本場数日前、特に前日から当日にかけては、誰であっても慌ただしいことになりますが、なぜだろうと思います。あとほんのわずか、時間があればできたことなのに、と。当日プログラムやアンケートなど、たった今、この時間に作ってもいいはずなのに、それをしないで慌ただしく、直前に作ることになる(後略)」
 つけ足すことはない。あえていうなら、トロッタは常に次回開催を念頭に置いているので、演奏会の間も休みはない、常に行なわれている、ということだろうか。プログラムやアンケート作りなど、直前の慌ただしさは今も解消されていない。どうすれば楽になるのかと常に思っている。
 この回の通信には、四月二十日(月)、鳥取県の因幡一宮 宇倍神社で開かれた「神へ捧げることほぎの歌 伊福部昭の音楽」と、四月二十五日(土)、六本木のストライプハウスギャラリーで開かれたライヴ「春は幻」のことが記されている。前者には東京からも演奏者が出かけ、甲田潤と田中修一が参加。盛況だったそうだ。後者は、上野雄次が五弦ウッドベースの水野俊介と共演。立ち合ったが、雨の降るベランダで、上野は激しい花生けを見せた。水野俊介は、上野との共演を数年越しに実現させたという。
「甲田潤、田中修一、上野雄次、そして故・伊福部昭の各氏は、いずれもトロッタ8に参加されます。このような、各所での時間の流れがトロッタに集まり、その後また、各所に流れてゆくのかと思うと、感慨を覚えます」
 この思いは、今も、これからも、決して変わらない。

●「本番までの通信:四」(五・十一発行)より
「『本番までの通信』第四号は、本サイトにてお送りいたします。更新されたサイト、開設されたブログを生かします」
 このころ、ブログtorotta.blogspot.jpを開設したようだ。それまでの「通信」はコピー印刷だったが、四号は印刷せず、ブログに文章を公開した(それが今はフェイスブックwww.facebook.com/kibeyohani中心になっている。スタイルの変化は、時代の要請でもあろうが、決していいことだとは思っていない。情報の発信はチラシや案内状を主体にし、お客様に対するのは本番の会場だけ。それを原則にするのが最も簡潔で、健康的な形だと思う。どんな形を使ってでも集客したいのは当然の願いだが)。
 少し長い引用になるが、以下は重要である。
「トロッタは〈詩と音楽を歌い、奏でる〉会です。器楽曲は重要ですが、今は私の立場で書いているので、詩について考えます。(中略)歌人の岡野弘彦氏には多くのことを教わります。岡野氏に、「歌を恋うる歌」という随筆があります。土岐善麿の、自由律の歌が紹介されていました。
 あなたをこの時代に生かしたいばかりなのだ、あなたを痛痛しく攻めてゐるのは
 その性情・才能・肉体の全く僕と等しい青年にあなたを捧げたいのだ
 一九三三(昭和八)年に出版された歌集、『作品1』にあるのだそうです。これらの歌は、『短歌に寄せる』と題されていて、つまり捧げている相手とは歌なのです。だから、この随筆の題』歌を恋うる歌』になるのです。土岐善麿は短歌を、熱烈に愛しました。岡野氏によれば、善麿に起こった感興が、どうしても短歌の形にならなかった。そのいらだたしさの中、定型を破った自由律短歌が生まれた。定型短歌に対する、思慕の念となってほとばしった、ということです。
 私が書く詩は、自由な様式を持っています。そこから生まれる曲も、自由な様式です。自由さを支えているのは、言葉をお借りすれば、歌を恋うる思いです」
 引用しながら、私は本当に歌を愛しているのかと自問した。愛しているなら、どのように? 答えは、私が言葉に愛情を持っている事実に隠されていると思うが、まだ言葉にはできない。

● 「本番までの通信:五(五.二十五)」より
「明日五月二十六日(火)は、東京音楽大学に近い、雑司が谷地域文化創造館で、十七時半から二十一時半まで練習します。ここは二十八日(木)の練習場所でもあるのですが、急に場所を探さなければならなくなり、明日はホールを使うことになりました。より安い音楽室でいいのに。音楽室が空いていなかったので仕方ないのですが、経費のことを考えると、ぞっとします。しかし、制作とは、ぞっとすることの積み重ねではないでしょうか。これまでで一番ぞっとしたのは、二台ピアノを使った練習でした。当初の予定時間では不充分だったので延長することになりました。ピアノ代が二倍かかりますから、これでまた…万円、と思い、血の気が引きました。が、その時は、それをせずにいられなかったのです」
 商業演劇のプロデューサーに、電車に飛びこんで死んだ人がいた。何があったか知らないが、製作者には他にいえない悩みがある。経済、人間関係、スケジュール、作品はいつできるのか、など。相談してくれればよかったのにと思っても、できるくらいなら死なずにすんだ。打ち上げは不参加でも、席が用意されていなければ、打ち上げもないのか? と思うだろう。今まさに、第十八回トロッタの製作が進んでいる。