この原稿は1999年当時に書かれていたものです。手を加えずにアップしましたので、ご覧になった方には、読みづらいと思われます。改善していきたいと思います。ご了承ください。

■1

『そのキーを叩け!』

 十数年前は、すべての原稿を、紙に鉛筆で書いていた。

 正確には、四百字詰め原稿用紙に、○・九ミリのシャープペンシルを使って文字を書き、それを連ねて文章にしていたのだ。それが今では、キーを叩いて、原稿を書く。コンピュータの画面に向って文章を創っていく。

 なぜ?

 楽しいから。

 キーを叩かなくても文章は書けるだろうに、なぜ?

 そのように自分を変えたから。キーを叩きながら文章を書くうちに、そうすること自体が楽しくなってきたから。

 文章を書くのが好きなのか? キーを叩くのが好きなのか?

 その両方に、私は肯定の返事をする。

 書くことに限らない。映像にしても、音楽にしても、美術にしても、医療にしても、建築にしても、世の中のあらゆる面で、鉛筆からキーへ、道具が様変わりする現象が起こった。

 今や、誰も彼もがキーを叩いている。キーを叩かなければ、何も始まらないかのように。

 本当は錯覚だ。ものを創るのは鉛筆だっていいし、絵筆だっていいのである。しかし、まずキーを叩いて、ものごとを始める。

 誰も彼もというのも錯覚だろう。鉛筆やペンを持って文章を書く人は多いし、それで何も間違っていないし、時代遅れということもない。

 しかし具体的な話、どんな達筆で原稿用紙の升目を埋めても、出版社に届き、編集部を通過して印刷所に回される時、誰かの指がその文章をキーで打ち、コンピュータが読み取るためのデータに直される。

 かつては、作家の悪筆を読み取れる職人が、印刷所にはいたという。その職人にかかれば、みみずがのたうちまわったような文字、勢いが高じてもはや字とは呼べなくなったような線の連なりも解読できてしまう。しかし、その眼力も、必ずしも必要なものではない。

 少年時代、夏目漱石や芥川龍之介といった、いわゆる文豪の書いた原稿には、題名や署名を始め、いたるところに赤い筆や赤い鉛筆で、記号が書きこまれているのを見た。印刷する際の、活字の種類や大きさを指定したものだ。何も知らない私は、作家というものは、ああした記号まで自分で書きこみ、編集者に渡すのかと思っていた。しかし、現代では生原稿が印刷所にゆくことはないのである。 

 私の書いた原稿もまた、電話回線を通じて、データとして編集者のもとに送られ、印刷所に回される。

 少年時代から、書くことだけは続けてきた。ラグビーをやめても、芝居をやめても、ビデオをやめても、書くことはやめなかった。私にとって書くことは、生きることと同じだ。

 文字通り、原稿を書くことで、生活するための金を得ている。しかし、原稿が生活費に結びつかなくなっても、書くことだけは止めない。

 書くために、生きるために、キーを叩く。具体的にいえば、パーソナルコンピュータすなわちパソコン、そのMacintosh(マッキントッシュ)すなわちマックの画面に向って、キーボードのキーを叩くのである。

 私が向き合うべき、所有するマックは二十八台。二○○○年四月十四日現在の話だ。

 あきれるしかない数である。

 持ち運び可能のノート型、マックの世界でPowerBook(パワーブック)といわれるマシンが十五台。

 机の上に置いたまま使うデスクトップ型が十三台。

 おそらくこの数は、今後も増えていくだろう。

 最新鋭機はひとつもない。オールドマックと称される、古色蒼然たるマシンがほとんど。最も新しいものでも、二世代前の、旧・最新機種である。私は文章を書くだけだからいいが、それで絵を描いたり音楽を作ろうなどという人には、とてもじゃないが実用に値しないものばかり。

 もちろん、私はそのオールドマックすべてを、いつでも使えるように整備してある。

 しかし、私は一人。そして使うべき用途は、原稿を書くこと。となれば、一度に起動させておけるマシンの数は、二台がいいところ。デスクトップ用のモニタはタイプの違うものが三台あるが、それらを一度に使ったことはない。

 マック同志をつないでデータを共有することも、必要にかられれば行うものの、それとて二台が限度。何台もつないで部屋のあちこちでマックを起動し、モニタを点灯させることなど思いも寄らない。

 昔ながらの学生下宿レベルにある私の仕事場は、大量の電力消費に耐えられない。

 にもかかわらず、どうして私は、二十八台ものマックを所有しているのか。今となっては処理能力の極端に遅い、古ぼけた機械群を。

 

 もちろん世の中には私など足元にも及ばないマニア、コレクターがいる。古くからのマック愛好者は、実用に値しなくても、思いのこもったマシンを決して手放そうとはしない。もちろん、その人たちにしたところが、すべてのマシンを現役の道具として使っているのでないことは明らかだ。私もまた、同時に使いこなせない点においては同じである。

 所有欲? 研究目的? 愛好意識? それとも誇示しているのか? 金があまって仕方ないのか?

 最後の推測ははずれているが、好きであれば欲しくなるだろうし、研究もしたくなるだろう、控え目にでも他人に吹聴したくなる。そうした理由の上になお、私はそれらのマックで、原稿を書きたいのである。何かを創りたい。今すぐでなくてもいいから、何かを書く日のために、マックを持ち続けていたい。どのマックも、原稿を書くために役立てたい。その意識が、現在二十八台のマックになって表れている。

 ただ、正直にいう。時にはその数が、目の前に積み上げられたマックの塊が、どうしようもなく重荷に感じることがある。たった今、この原稿を書いている時点がそうだ。そうなると、目の前のほとんどを隣の部屋に片づけてしまう。そのように気分を入れ換えることも、マックと長くつきあう過程には必要だ。

 子供の時に観た映画『東京オリンピック』で、海外の特派員たちがタイプライターのキーを、個性豊かに打ち続ける姿が印象的だった。

 ヘミングウェイは立ったままタイプライターのキーを打ち続けるという伝説を、いかにも行動派の彼らしいと納得した。

 ウィリアム・バロウズの『裸のランチ』には、麻薬の幻覚作用によって、おぞましい虫に変身したタイプライターが登場する。タイプライターとは彼らにとって、それほど身近なものなのか。うらやましくも不気味な話だった。

 しかし、日本語とタイプライターは、永遠に出会わないだろうと思っていた。文章を書くためのキーボードなど、英語のタイプライターを使う人の占有物だと思っていた。日本語の文章を書くためにキーを叩く日が来ようなどとは思ってもみなかった。理由は簡単だ。英語の文字はアルファベット二十六文字しかない。しかし日本語には……、いったいいくつの字があるのか。

 日本語のタイピングを可能にしたのがコンピュータだ。コンピュータにデータを組みこみさえすれば、どんな文字でも打ち出せる。何語でもいいのである。どんな文字が混在してもいいのである。

 もちろん、英語圏で生まれたパーソナルコンピュータに、日本語の文字を表示させ、文章を作らせるのは、たいへんな難事業だった。日本におけるパソコンの歴史について詳述した本や記事の類は多いが、ここではそのことに触れないでおく。素人の私にも、画数の少ないアルファベットなら表示も簡単だろうが、画数も字数も多い漢字をコンピュータに扱わせるのがたいへんだろうという想像はつく。しかし、わかるのはそこまでだ。

 私自身についていえば、キーの打ち初めは、ワープロとの出会いである。

 鉛筆からキーへの移行は思いのほか、スムーズだった。抵抗感はまったくなかった。むしろ、このようなものが欲しかったのだという思いが先に来た。 

 書くために使用する道具はさまざまに変わっている。

 原点は、紙と鉛筆。

 次に和文タイプライター。

 そしてワープロ。

 その後に、パソコンが来た。

 紙と鉛筆を使っていたころ、原稿用紙に書いた文章を他人に見てもらうことはあった。

 いうも恥ずかしいことながら、私は字が下手だ。文字の国、中国に行けば、とても一人前には扱ってもらえない字なのである。いい加減さが許される国、日本だから、私の字でも通用している。もちろん、ていねいに書く。手紙ともなれば、心をこめて。それでも、下手くそさは隠せない。

 しかし、私にとっての文章は、他人に見てもらうためのものである。

 文章とは、まず、世の中に対する自己表現のひとつであるという思いがある。自分ひとりの思いなら、わざわざ文字にすることはない。字という、他人とものごとを共有するための記号を使っているのである。それならば、自己顕示という意味ではなく、見ず知らずの他人に自分の思いを伝えるために文章は書かれるべきという方向性は、自然に生まれてくる。

 二十数年前、つまり七○年代半ば以降、高校生の私は友人と語らい、ガリ版印刷のミニコミを発行した。原稿用紙に書きつけた文字を、鉄筆を使って蝋原紙に刻みつけ、謄写版を使って、一枚一枚印刷した。

 そのために、下手くそながらせいいっぱい、他人に読んでもらえる字を工夫して書いた。

 その志向は大学生になっても続き、謄写版印刷機を購入する。木箱に入った、手作りの印刷機。電気で動くわけでもなく、マイクロチップを埋めこんだ基盤があるわけでもない。しかしあれも、今から思えば立派なマシンだ。マックを始めとするパソコンが次から次へと形を変えていくのに、おそらく謄写版は、私が手に入れたころは、ほとんどその変化を止めていたはず。つまり、印刷機の形として、完成の域に達していた。パソコンより上ではないだろうか?

 七○年代中期以降の私と仲間にとって、謄写版印刷機は情報の発信装置、四畳半という小さな世界に生きる私たちの意志を、外に向って送り届けるための、魔法の箱であった。自分たちで決めた発行日の前日は、徹夜で謄写版を使い、インクで手も顔もまっくろにしながら、印刷にふけったのである。

 謄写版印刷は、現代のようにコピー機が普及する前は、最も一般的な簡易印刷の手段であった。教育機関や行政機関には、必ず備えられていた。しかし、今やどこにもその姿を見かけない。かつては蝋原紙に、誰もが読める手書きの文字を刻みこむ、鉄筆の名人がいたものだ。しかし、その名人も姿を消した。

 私たちの謄写版は、今、どうしているのか?

 すまないと思う。かつてはあれほど頼りにしたのに。

 続いて私と仲間は、和文タイプライターを入手した。

 ひらがな、かたかな、数字、漢字、それに基本的な記号が並んだ文字盤がある。その上を、すばやくハンドルをすべらせて文字を選び、タイプしていく。タイプする瞬間、がちゃんという手ごたえのある音がした。手元にないから正確な数は書けないが、英文のタイプライターと異なり、比較にならないほど多い文字だ。しかし、専門的な勉強をしたわけではないのに、我流ながら、いつしか高速のタイピングが可能になった。文字をすばやく選べるということが、快感になっていったのだ。私はこれを使って、ミニコミはもちろん、演劇の公演やビデオの上映会などのチラシを作った。

 和文タイプで思い出すのは、鉛の文字を特注したこと。無数と思われる漢字がすべて備わっているわけではないから、ない字は頼んで作ってもらう。それを文字盤にさしこんでタイプしていくわけだ。

 後から思えば、データとして、パソコンの中に納められているのと違い、鉛でできた文字を手にしたことは、実感を伴った、得難い体験であった。町の活版印刷所をのぞくと、鉛の活字をおさめた木の箱がある。あそこまで専門的ではないけれども、素人なりに、字というものの重みと手触りを味わった。パソコンを使っている限り、字には重みも手触りもない。パソコンが普及していく今後、あのような活版印刷所はどうなっていくのだろう?

 ただ、謄写版にせよ、この和文タイプにせよ、それらを使って文章を書いていくわけではない。あくまでも、ミニコミの版下を作るための道具である。正確には、書くための道具とはいえない。印刷するための道具である。

 印刷手段は重要だ。革命が起きてもクーデターが起きても、印刷手段、広報手段、宣伝手段を持った新聞社や印刷所は、放送局と並んで狙われる。

 個人が印刷手段を持ちにくかった時代にはそうであった。しかし、コピーマシンがコンビニエンスストアに一台ずつ置かれ、パソコンに接続するプリンターが普及し、インターネットの網目が世界を覆って、誰にでも情報が発せられるようになると、革命家や青年将校たちは、もはや新聞社や印刷所を占拠しなくなる。今や一人一人が情報の発信者になっているから。情報を独占する者は、もはやどこにもいないから。

 一九八三年、ワープロを入手。これが、書きながら、印刷するためのデータも同時に作っていけるようになった契機である。

 高性能のワープロもあったが、そんなものは買えない。私が手に入れたのは文房具程度の安っぽい機械である。一行表示、一行印刷という限定された機能は貧弱だった。しかし、書いた文字がそのまま印刷できることに、私は少なからず興奮した。それがコンピュータの力によっているのだということも、その価値を高めた。

 一方には、文章を作るためのワープロではなく、パーソナルコンピュータが登場していた時期だ。アップル・コンピュータは、すでに一九七六年に産声を上げている。マッキントッシュは一九八四年に誕生する。私のワープロは、絵も描けなければ音楽も創れなければ計算もできない。袋小路に入った、行き止まりの機械であった。それでも、この時のワープロとの出会いが、私にとって、キーの叩き初めとなる。

 私はまず、自分の書いた文章を、他人に見てもらえるものにしたい。そのために、キーを叩き始めた。

 よくいわれることがある。

 原稿用紙に鉛筆やペンで書くのと、キーを叩いてパソコンの画面に書くのと、どういう違いがあるのか。できあがる文章は違うのか。パソコンが日本語に与える影響とは?

 経験からいえば、できあがった文章には何の違いもない。できあがるべき文章は決まっているのだ。彫刻でも絵画でも建築でも、創り出す前は見えないだけで、あらゆるものの完成形は、すでにこの世にある。人はそれを現すために、鑿をふるったり、鉛筆を握ったり、図面に向ったり、キーを叩いたりする。

 肉体行為の違いはある。書くという言葉は、ひっかくの掻くから来ている。鉛筆は筆になってもいいし、ペンになってもいい。紙は石であってもいいし、木であってもいい。とにかく、何かで何かをひっかく。そこから書くという動作と言葉が生まれた。

 しかし、キーを叩くとは、もはやひっかくことではない。つまり書くとはいわないはずだが、動作が作った日本語は、文章を作る限りにおいて叩くとはいわず、書くという。それをわかっていれば、文章を創ることにおいて、鉛筆やペンとキーの比較は問題にならないはずだ。

 私は書道家ではない。文字そのものを表現の最終形態にしているわけではない。いい文字ではなく、いい文章を書きたい。そのために、ひたすらキーを叩くのである。

■2

「そのキーを叩け!」

 「わたしは煙草を吸いすぎるし、酒も飲みすぎる。しかし書いても書きすぎるということはない。書きたいことが次々と湧いてきて、わたしがどんどん書き続けようとすると、尽きることなく浮かび上がり、そろそろ眠りにつけ、あるいは九匹の猫たちの相手をしろ、はたまた妻と一緒にカウチに腰かけるんだと、わたしは自分に言い聞かせる。おまえは競馬場にいるか、マッキントッシュに向かっているかのどっちかじゃないか。そこでわたしはやめることにして、ブレーキをかけ、このいまいましい代物を一時停止させる。わたしが書いたものが自分たちが生き抜いていく助けになったと誰かが書いていた。わたしだって助けられた。書くこと、馬たち、九匹の猫たち」

 超えたい。しかし超えられない。どうしても超えたい。いつになったら超えられるのか。超えられなくても、超えようとすること自体を楽しみたい。そう思わせるいくつかのこと、そして、何人かの人がいる。

 チャールズ・ブコウスキー。このアメリカ人の作家は、私にそう思わせてくれる人物の一人。

 冒頭に引用したのは、ブコウスキーの日記を編んだ『死をポケットに入れて』(河出書房新社・中川五郎訳)の、一九九一年八月二九日の一節である。

 『町でいちばんの美女』『詩人と女たち』『くそったれ!少年時代』など。彼には多くの小説があり、詩があり、『バーフライ』や『つめたく冷えた月』は映画にもなり。そのどれもこれもが型破りで、エネルギッシュで、毒に満ちていて、しかし純情そのもので。酒のみの女好きの競馬好きの、酔いどれ詩人と称される人物。

 そんな人間など近づきになりたくない、私には関係ないと常なら思うのに、ブコウスキーだけは、なぜか、いいなあと思ってしまう。ブコウスキーのようになりたいとは露ほども思わないのに、どういうわけでか、ブコウスキーだけは認めたい。理由はひとつ。酔いどれにもかかわらず、彼が原稿を書くことに、一生懸命だから。

 ブコウスキーが最晩年、マッキントッシュで原稿を書いていたことに、私はどうしても注目する。あのブコウスキーが。五十年もタイプライターを使ってきたブコウスキーが。七三歳で死んでしまう、その二年前になってマックを使い始めたという。そんな老年になってマックを使う人間がいるか。長年タイプライターを使ってきたのなら、残りわずかの人生、それで作家人生を貫徹させてもいいじゃないか。誰も文句はいわないし、不思議とも思わないし、むしろマックを使う方が変だ。

 「コンピューターというものに、やたらと怒りまくっている編集者をわたしは知っている。二通の手紙を受け取ったが、彼らはコンピューターに毒づいている。恨みつらみが綴られた手紙の文面を読んでわたしはひどく驚いてしまった。それにその子供っぽさにも。コンピューターが私に成り代わって文章を書いてくれるわけではないことはちゃんとわかっている。仮にそういうことが可能だとしても、わたしはそうしてほしいとは思わないだろう。彼らは二人ともちょっと言いすぎなのだ。魂にとってコンピューターはいいものではなかったという推論がある。確かに、そういう部分もあるだろう。しかしわたしは便利さを取る。もしも二倍の早さで書けて、作品の質がまったく損なわれないのだとしたら、わたしはコンピューターのほうを選ぶ。書くというのはわたしが飛ぶ時。書くというのは情熱を燃やす時。書くというのはわたしが左のポケットから死を取り出し、そいつを壁にぶつけて、跳ね返ってくるのを受け止める時」(九一・九・一二)

 大事なことを忘れていた。

 私はブコウスキーが七三歳で死ぬことを知っている。しかし、ブコウスキー本人は知らない。マックを使い始めた時、ブコウスキーは余命が二年しかないなど、少しも思っていない。何歳まで生きるか知らないが、とにかく生き続ける限りは書き続けるし、生き続ける限りはこのマックを使おうと思う。だから彼は、未知の道具であるマックを手に入れた。それはこれから先もずっと使っていくつもりだったから。

 あと二年で死ぬことを知っていたなら、ブコウスキーはこれまで同様、タイプライターを使ったかもしれない。あえて、手間がかかるという危険性をおかすことなく、これまで通りの速度で書ける、手慣れた道具を使い続けたかも知れない。マックを使うことで書く速度は二倍になったとしても、故障した時の対応、馴れるまでの稽古、そうしたことを考慮に入れれば、総合的な速度は変わらないのではないか。

 だからこそ思う。ブコウスキーはまだまだ生きるつもりだった。少なくとも全速で生きて、全速で書いて、全速で飛び、情熱を燃やし続けるつもりだった。七一歳だから少しセーブしようなどという気は、さらさらなかった。

 世の中に何割かいる、未知のものに勇敢な人間だったのだろう、ブコウスキーは。

 例えば私は、未知のものに対し、どうしても構えてしまう。

 まず、CDが出た時がそう。それまでのLPでどうして駄目なのかと思ってしまった。コンパクトディスクのような頼りない、ちっぽけな、きらきら光るだけの円盤が出す音など、信用が置けないと思ってしまった。黒光りした、重々しいレコードが好きだった。しかし、世の趨勢、今ではCDで音楽を聴く。

 私は携帯電話が嫌いだ。携帯電話が出始めた当初、それを使っている人の、これ見よがしな態度が嫌だった。使っている人の風体が、何やらいかがわしい、手首に金の鎖をしているような人間が目だったのも、嫌悪感をかきたてた。この気持ちはぬぐい去れない。先日も、電車の中で携帯電話をかけていた男性と喧嘩寸前になった。幸いに、最後は譲り合ったからよかったが、突っ走っていたらどうなったかわからない。

 水泳の世界でも、鮫肌水着などと呼ばれる、新手の水着が開発された。ほぼ全身を覆う水着を、私は実は、好きではない。見た目が美しくないからだ。選手が鍛え上げた、美しい肉体が見られないからだ。このような意見は、水泳関係者以外の、やじ馬の吐くものであろう。別に彼らは美しさや、外見のために水泳をしているわけではない。ひたすら記録をのばすため、試合で勝つために精進している。だから聞き捨ててもらってかまわないのだが、そこに先端の技術が投入され、大記録が期待できようとも、鮫肌水着ある限り、私は水泳を見たいと思わない。

 パソコンが世に広まり始めた時も、同じだった。私はワープロを使っていたが、原稿しか書かないのだから、パソコンを使う必要はないじゃないかと思った。だいいち、あんな高いもの。見てくれだけのもの。そしてこれは、初期のマックのことだが、日本語の扱いが粗雑なもの。さらにこれは、アップル・コンピュータがパワーブック以前に開発した、携帯可能のマック、Portable(ポータブル)のことだが、電池を入れれば約十キロになるあんな重いものを持ち運べなんて、どうにかしている----。悪態ばかりついていた。

 私がパワーブック150を持ち出して喫茶店で原稿を書いていた時、サラリーマン風の男女が、私をさしてひそひそと話していた。

 「音がいやだよね」

 これはつまり、キーを叩く音が嫌だという。うるさかったのだろう。携帯電話と同じかもしれない。本人は気持ちよくても必要でも、周囲には雑音としか聞こえない。

 「重いんでしょ」

 そう、実際に重いのだ。パワーブック150は約二・五キロ。ポータブルとは比べ物にならない軽さだが、それでも重い。一日持ち運べば夕方には嫌になって放り出したくなる。パワーブックだけ持って外出するのではないのだから。

 「モノクロじゃあね」

 原稿書くのに色とりどりの字を見てどうする。

 「電池だってそんなにもたないみたい」

 約二時間しかもたない。一個の重量もかなりのもの。頭の痛いところだ。

 「よく壊れるんだって」

 確かにそう。壊れてしまうわけではないが、調子は確かに変になる。しかしあなたの恋人だって、死ぬまで健康でいるわけにはいかないはず。そんな相手とつきあうのも人生の……、いや、人間もマックも、健康であるにこしたことはないな、やはり。

 とにかく、新しいもの好きの人がいる反面、新しいものに警戒心を抱く人間がいる。年若い私がそうであるだけに、七一歳になってマックを使い始めたブコウスキーは尊敬に値する。

 「書くというのはわたしが飛ぶ時。書くというのは情熱を燃やす時」

 ブコウスキーはいっている。してみれば、マックとはブコウスキーを飛ばし、情熱を燃やすための道具であったということになる。

 「わたしは恐らくこの二年間で、これまでの人生のどの時期よりも、より多く、よりいいものを書いている。五十年以上も書き続けて。ようやく真に書いているという状態まであと一歩というところに辿り着けたかのようだ。それにもかかわらず、この二か月というもの、わたしは疲れを感じ始めている。この疲れはだいたいが肉体的なものだが、精神的な疲れというものも少しはある。あとは衰退していくばかりということに違いない。考えるだけでぞっとしてしまうことは言うまでもない。理想を言えば、徐々に衰えているのではなく、死ぬ瞬間まで書き続けたい」(九二・六・二三)

 ブコウスキーは、九一年九月二五日の日記に、さりげなく書いている。

 「今、わたしはこの二階のこの部屋にいて、マッキントッシュsiと向かい合っている」

 よし、siを手に入れよう。ブコウスキーが使っていたのはsiだったのか。なるほど。あれか。

 siといえば、価格を抑えるためだろう、高速処理を可能にするための拡張性が犠牲にされたことが、マックに関するガイドブックには必ず書かれている。購入時は遅い処理状態でも、後から、基盤上に拡張カードを挿すことで、使用者が使い勝手のいいようにできる。しかしsiは、それができないか、できても手間をかけなければならないマシンだった。そのため広く長い支持を得られなかった。現在の使用環境では必須と思われるCD?ROMドライブを内蔵しない。多ければ多いほどよいメモリも少ない。

 機種によっては、デザインの美しさや改造の容易さなどから、アップル・コンピュータによる販売が終了しても、熱烈な支持を受けるものがある。

 マッキントッシュの場合、初期のマシンは、ドイツのデザイン会社、フロッグ・デザインによって手がけられていた。そこから生まれたマシン、SE/30やciなどは、大げさでなく、持って、使うことが、今でも垂涎の的のマシンなのである。自慢げにいわせてもらえば、私もそれぞれ一台ずつを所有している。

 しかし、ブコウスキーの買ったsiは、そうではない。これはフロッグ・デザインが手がけたものではない。フロッグ・デザインのすばらしさは、直感的にいわせてもらえば、直線の組み合わせによって生じる美しさを、威圧感なく、ひとつの像としてまとめあげたこと。しかしsiの外観は、どうにもとりとめがない。使用者と相対する側、人間の顔に相当する部分の曲面があいまいだ。威圧感はないが、威厳もなく、親しみもなく、優しさもない、ないないづくしによる威圧感のなさなのだ。

 ずいぶんなことをいっているようだが、デザインは大事ではないだろうか? 使い勝手は二の次でも、デザインだけで買ってみたいと思わせるものが、世の中にはあるのである。もちろん使い勝手とデザインが、よりよく融合できればそれにこしたことはない。フロッグ・デザインによるマックは、そのようなものだった。だからこそ、熱烈な支持を受けるのである。

 だが、私はsiでもいい。ブコウスキーが使ったマックだから、私はsiを使いたいと思う。

 私は知り合いの店に足を運び、siの中古品が出たら教えてほしいと頼んだ。

 しかし、私が見つけ出す方が早かった。蒲田と金町の中古パソコン店で、立て続けに二台購入した。

 ある時期、金に困って、二台とも他のマック同様売ったのだが、今や再び買い戻している。つい先日も、秋葉原で二千円台の後半で売っていたのを見つけ、あやうく手を出しそうになったが、三台はいらないだろうと言い聞かせてがまんしたほど。

 買ってすぐ、私は蓋を開けて分解し、電気関係以外の部品は洗濯機に入れて洗った。細かいほこりはこうしないと洗い落とせない。そして、磨きに磨いた。初めは白かったはずのマックが、どうしてこんなに黄色くなってしまうのか。日焼か? いや、煙草のやにだ。ブコウスキーは煙草のみである。彼の死後、siはどうなったろう。誰かに引きとられていったのか。私のような買い手がいて、分解したとしたら、全身がやにだらけになって黄色く変色したsiを見つけたに違いない……。

 また、こんなことも考えていた。

 『死をポケットに入れて』の挿絵を描いたのは、ロバート・クラムだった。ブコウスキーがたった一人、セーターを着込んでパソコンの画面に向かっている姿が、本の表紙カバーになっている。クラムの絵は、インターネットでも見ることができる。しかし、そこにあるパソコンは。

 ブコウスキーは、はっきりsiと記している。しかし、クラム描くパソコンは、siどころか、マッキントッシュですらない。マックに興味のない人は、そんなことどうでもいい、パソコンらしきものが描かれていれば、形なんてどうでもいいじゃないかと思うかもしれない。クラム自身がそうだったのだろう。本質は、ブコウスキーがパソコンに向かって原稿を書いていたということだ。マニアめ、マックだろうがコックだろうが、何だってかまうもんか。

 マック愛好家は、新興宗教の信徒に似ているといわれる。何だっていいものに、どうしてあそこまで熱中するのか。宗教の熱狂は、引いてみれば、まったくばかげたこと、労力の無駄としか映らない。それと同じことがマックにもいえるのだろうか。反論してもいい。しかし反論は、議論が成り立つ場所でこそ意味がある。初めからマックに意義を見出していなければ、反論も何もないであろう。

 ただ、クラムにはこういおう。ブコウスキーが使っていたマシンを、正確に描いてほしかった。それだけなんだよ、いいたいことは、と。

 ……さて、一時間後、まったく元通りではないが、家に来た直後よりは、よほど白くなってsiが、目の前にあった。ハードディスクは初期化して、新たにシステムをインストールした。フロッピーディスクドライブと基盤は、めん棒にアルコールをしみこませて掃除した。四つあるゴム足の一個が取れていたので、とりあえず消しゴムと両面テープを使って自作した。見た目はほぼ新品のsiが現れた。

 これでブコウスキーと同じになれる----。まさか、そんなことを思うはずがない。ブコウスキーはブコウスキー。私は私だ。マックが私を酔いどれ詩人にしてくれるわけではない。

 しかし、書くべき原稿にはずみをつけたい。そのために、何かをしたいということは誰にもあるはず。私はsiを、そのはずみにしたかった。ブコウスキーと同じマシンを使うことで、私は何を書くべきなのか、みつけたかった。

 ……「そのキーを叩け!」、この原稿は、おそらくそのようにして発見したものである。当座はわからなかった。まさか、「そのキーを叩け!」など、書くことになろうとは思わなかった。しかし、私は今、これを書いている。

 これが何になるか、どうなるかはわからない。しかし大事なのは、たった今、書いているということではないのか? キーを叩き続けているということではないのか?

 私はsiの電源を入れた。ポーンという音がして、Welcome to Macintoshという起動画面が現れる。ブコウスキーもこれを見ていたのか、一人きりになってマックに向かい、ようこそマックの世界へ、そう語りかけられて、文章を書きだそうとしたのだ。

 ブコウスキーのsiに、飼っている猫が小便をしたというくだりは、空しさとほほえましさ、あわれさと滑稽さをもよおさせる。それは九一年十一月二十二日のこと。

 ブコウスキーは始める。「わたしがコンピューターの前に座ったところ」、と。

 「わたしがコンピューターの前に座ったところ、コンピューターがすっかりおかしくなってしまい、爆弾マークが出たかと思うと、とんでもなく大きくて奇妙な音を出し、何度か画面が暗くなった後、完全に何も浮かび上がらなくなってしまった。あれやこれやとわたしは必死にやってみたものの、まったくどうすることもできなかった。そのうちわたしは何か液体のようなものが固まって、画面やコンピューターの『脳味噌』部分の近くにあるスロット、要するにふだんディスクを出し入れするスロットのあたりにこびりついていることに気づいた。わたしの飼い猫の一匹がコンピューターに小便をひっかけたのだ。わたしはマシーンをコンピューター・ショップに持っていかなければならなかった」

 昨夜、私と同居している砂ねずみが、私が家でメイン・マシンにしているマック、パワーブック3400cに、文字を打ちこんだ。

 彼女----、砂ねずみの名前は、もも、という。

 座布団に腰を下ろし、脚の上にパワーブックを乗せて、この原稿を書いていた。夜の数時間、ももはねぐらから解放され、六畳間で縦横無尽に遊ぶ。ひととおり室内の点検がすむと、ももは私にまとわりつく。

 さて、次は何を書こうかと思案していた時。黒い影がさっと画面の前を横切った。ももである。ねずみは別名を家鹿(かろく)という。時に、名前の通りのすばやさ、優雅さを見せてくれる。画面を見ると、私が打った覚えのない言葉があった。

 「っじぇ」

 もものしわざである。どういう意味か。傍らには、してやったりという顔のももが、立ち上がって、私を見ている。

 「っじぇ」。ももの心境だろうか。ももがたった今、考えていることだろうか。それとも私に言いたいことだろうか。

 一年前、家に来たばかりのころは、パワーブックなど見向きもしなかった。それが少しずつ興味を示し出した。キーボードに駆け上がり、反対側に飛び降りようとしたとたん、キーに爪をはさんでぶらさがったこともある。目をぎゅっと閉じ、助けて! 助けて! とあわてふためている。私もあわてたが、爪がひっかかっているキーを押すと、何があったのかという顔で向うにいってしまった。その時に押したのは、エスケープキーであった。

 「……みんなにわかってもらわなくちゃならないのは、競馬場から帰ってきて、フリーウェイを下り、このコンピューターの前にたどり着くと、どうしてこいつがこんなにも素的に思えてしまうのかということだ。これから言葉を打ち込んでいくまっさらのスクリーン。そしてわたしの妻と九匹の猫たちはこの世の天才たちのように思える。実際そうなのだ」(九二・一・十八)

 私にとって、マックはなくてならないものだ。それがないと力が発揮されないし、生きている甲斐もない。ももも、いなくてはならないものだ。ももはキーボードの上に立ち上がり、画面の上をひらひらと飛ぶポインタを追いかける。幸い、マックに向かって小便をしたことはない。ブコウスキーにとって、猫は生きていく上で必要なパートナーだった。私にとっても、マック、ももは、生きるために欠かせない存在だ。

 「わたしは二階に上がって、コンピューターの前に座った。わたしの新しい慰め相手だ。コンピューターを手に入れてからというもの、わたしの書くものはパワーも分量も倍増した。魔法の代物だ。ほとんどの人がテレビの前に座り込むように、わたしはコンピューターの前に座り込む」(九一・二・十一)

 ブコウスキーの文章を読んでいると、他の誰が書いた文章に増して、大きく強い啓示を受ける。ここに一人、原稿を書こうとして悪戦苦闘する人間がいる。マックで原稿を書こうとして、これ以上ない楽しみにひたっている人間がいる。私も書かなければ。そう、思うのだ。

 「タイプライターで書くのは、泥の中を歩いているようなものだ。コンピューターは、アイス・スケートだ。猛烈な突風だ」(九一・二・十一)

 ブコウスキーは、処理が遅いとされるsiですら、滑るように、追い風に吹かれるように書くことができると実感した。泥の中を歩むように、よどんだ空気の中を歩むように書きたいと願う人もいるだろう。しかし、ブコウスキーはマックの速度を愛でた。二年間で、マックを使ってブコウスキーが著した作品は、この日記『死をポケットに入れて』と、小説『パルプ』だった。七十三歳であの世に旅立たなければ、ブコウスキーはまだ書いていただろう。その機種は、最新鋭機のG4マシンになっていたかもしれない。

 「……わたしの七十一年目の年は実に多産な年となっている。恐らくわたしは今年一年で、これまで生きてきたどの一年よりも多くの言葉を書いているはずだ。作家は自らの作品の最もあてにならない審査員だということがあるとしても、わたしの書くものはこれまでと変わることなくよくできているというか、ピークの時期に書いていたものと同じくらいよくできていると思う気持ちをどうしても否定することができない。一月十八日から使い始めたこのコンピューターがこのことに大いに寄与している」(九一・十一・二二)

 変化するばかりがいいのではない。タイプライターをマックに変える、日本人ならペンと原稿用紙をマックに変える。そのようにすることだけが、尊敬に値することだとは思わない。問題は中味である。道具ではない。しかしブコウスキーは、少なくとも、マックを使うことで充足感を得た。原稿のできがどうなのか、それはともかく、置くのだ。まず作家本人が満足できなくてどうする。マックを使って満足できるのなら、それにこしたことはないではないか。

 書け! 書け! ブコウスキー!

 砂ねずみだってマックで言葉を記した。J、J、Eとローマ字入力し、「っじぇ」と書いた。

 私も書く。書かずにいるものか。キーを叩かずにいるものか!

■3

「そのキーを叩け!」

 書くことに対して関心のある人間がパソコンに向かう時、その興味は、キーボードに向ってゆく。

 当然であろう。パソコンで書くとは、すなわち、キーボードのキーを叩くことに他ならないから。

 万年筆や鉛筆という書く道具にこだわって、原稿用紙に向かった人たちがいた。多くは、作家と呼ばれる人々である。

 それも当然だ。日夜、彼らは書き続けている。問題は書く内容だ。何で書くかは第一の問題にならない。何で書いているかを忘れさせてくれるほど心地よい道具を手に入れたくなる。何で書いているかが気になっているうちは、書く内容に集中できない。

 小学生の時、授業中に担任の教師から、作家の松本清張に関する話を聞かされた。

 松本清張は、ある日、愛用していた万年筆をなくしてしまった。道に落としたらしい。気づいた時は夜である。しかし清張は深夜の路上を徘徊して、懸命に探した。しかしみつからない。探す松本清張。清張にみつけてもらえることを期待して、冷たい道でじっとしている万年筆。疲れた身体を励まし、路上の万年筆を、清張はなおも探す。しかし、みつからない……。

 その話を聞かされてしばらく、私は松本清張と万年筆の幻影にとりつかれて仕方がなかった。

 清張がどのような状況下で万年筆を落としたのかはわからない。教師はそこまで説明しなかったからだ。

 私は、小学生のころに住んでいた町を、その舞台に見立てた。町の中心部には、川が流れている。もともとは荷物の運搬にも使われていたらしい、港につながり、石積みで両岸を固められた川。学校の行き帰り、休みの日など、その川沿いの道をゆくたびに、落とした万年筆を探して身をかがめ、地面をはうようにしている松本清張の姿を思った。かわいそうに。結局、見つからないのに。いつまで探すんだろう。教えてあげようか、見つからないんだからやめてください、と。しかし、私はそれをいえなかった。もともと松本清張など、私の町とは無縁の人物なのだから。

 後年、教師の話は間違いであったことを知った。もとになった話は、松本清張が『半生の記』(新潮文庫)の「あとがき」に記したものである。そこには確かに松本清張が筆記具を落として、探し回ったあげく、みつけられなかったという話が書かれていたが、教師のいうとおりではなかった。一部を引用してみよう。

 「そのころ、私は万年筆を持っていなかったから、ペンシルと、紙の悪い手帖(てちょう)とを買い、家や、社で暇々に草稿を書きはじめた。そのため、私は手帖とペンシルを洋服のポケットにいつも入れて通勤していた。社では原稿用紙一、二枚がやっとで、五、六行くらいしか書けないときもあった。(中略)ある日、社から帰るとき、私は大切なペンシルを途中でポケットから落した。そのころも、兵隊靴をはいて、近道である線路の上を往復していたのだが、気がついて引返して探したがどうしても分らなかった。線路は石ころが詰っているので、軸の細い、小さなペンシルは、それにまぎれて、容易に眼に入らなかった。私は、一時間くらい、通過の列車を警戒しながら、腰をかがめ、近視眼を石ころの上に匍(は)いまわらせた。そのうち、日が暮れたので諦(あきら)めた。翌朝、早く起きて再び探しに行ったが、やはり見当らなかった。ペンシルは二度と買えなかった」

 結局、その後の松本清張は、当時勤めていた新聞社の3B鉛筆を使って書くことにするが、軟らかすぎて手帖には書きにくかったという。さらにすぐちびてしまうので、常にナイフを携帯しなければならないのもやっかいだった。苦心の結果、完成したのが、清張が世に出るきっかけとなった、『西郷札』である。

 このペンシルとは、シャープペンシルのことであろう(註・要確認)。私たちに話を聞かせた教師は、子供にペンシル、あるいはシャープペンシルといってもわからないから、万年筆に変えて話をしたのか。それとも教師自身が、ペンシルを万年筆と勘違いして覚えこんだのか。

 松本清張は、忙しい勤務の合間を縫って文章を書く必要があった。単に机の上の原稿用紙に向かって書くだけなら、ペンにインキをつけながらの執筆でいいのである。清張にとって原稿の執筆は、他人の目からは余暇と見なされるものだから、本来の仕事に支障があってはならない。そのために、外で書かなければならなかった。だから携帯に便利なシャープペンシルを選んだ。教師の説明は間違っていたが、これは書くということを私の脳裏に刻みつけた、最初のできごととなった。

 夏目漱石や芥川龍之介といった作家より先に、私は松本清張という名前で、作家というものの存在を意識したと思う。作家とは、使っている筆記用具を、それが万年筆であれシャープペンシルであれ、落してなくしてしまったら、真夜中まで探し回る、そんな人たちなのかと印象に残ったのである。もちろん、小学生の私に、それがどういうことなのかは実感できない。頭では、筆記具になど縛られたくないという気持ちがある。書くための道具より、私は書く内容を優先させたい。

 もちろん、松本清張には、シャープペンシルを探し回る必然性があった。その点が、小学校教師の話のニュアンスと、微妙にずれるところだ。おそらくは、教師にも、シャープペンシルで書くということがどういうことなのか、じゅうぶんにわかっていなかったと思う。だから意図的に万年筆と翻訳して、自分で納得できるようにしてしまったのかもしれない。あるいは、持ち物は大切にして使わなければならないという教訓を示すために、シャープペンシルを万年筆に変えたのか。シャーペンでは、確かに大切に使わなければならないものとしての存在感に欠けるから。

 現在の私にとって、書く道具とは、すなわち、キーボードである。これをマック本体に接続し、キーボードにはマウスを接続して、キーを叩きながら原稿を書く。松本清張のように、キーボードをなくしたらどうなるか。あるいは壊したら、どうなるか。そのような不安を招かないために、複数のキーボードを所有してはいるのだが。

 おそらく好きな人は私などの比ではないだろうが、それでも数えてみたら、二○○○年五月十一日現在、十四のキーボードを持っていた。同じ型のものもあるが、とにかく十四。パワーブックにはキーボードがついているから、基本的に、十四のキーボードはデスクトップ・マシンのためのものということになる。私が所有するデスクトップ機は、ちょうど十四台。マシン一台にキーボードひとつの割合ということになる……。

 キーボードを磨くのは楽しい。キーボードを叩くのはもちろんだが、磨くのも楽しいのである。キーボードを磨く? 何のために?

 秋葉原へ行くたび、中古品あるいはジャンク品のキーボードが入った棚や箱を確認している。それらはすでに使われたことのあるものだから、ほとんどがむき出しのまま、箱につっこまれてあったり、棚に並べられている。キーボードと本体をつなぐケーブルと一緒にして、ガムテープでぐるぐる巻きにされていることもある。

 値段は、アップル社の純正品で二千円から四千円。アップル社以外の製品で、その半額程度。

 扱いは無造作であり、無造作に扱われても仕方のない状態でもある。指の脂や煙草のやにでよごれているのなら、ああ、手入れもされずに扱われてきたのだな、乱暴に使われてきたのだな、煙草とコンピュータは相性が悪いのにかわいそう、こうしたことを思うだけだ。

 しかし中には、そうした仕事以外の汚れ、お払い箱になって、例えば倉庫の中で放っておかれていた時に付着したらしい汚れや、運搬中の汚れなどで、無惨な様を呈している場合がある。

 あきらかに、泥水をかぶったとしか思われないような、あちこちに飛沫の刻印をとどめたキーボードさえある。

 押したら元に戻るキーの性質が大切なのはわかりきったことなのに、キーボードの上にキーボードを乗せ、キーが押されっぱなしの状態にされて売られているものもある。

 購入後、家に持ち帰って分解すると、キーとキーの隙間から、どうしてこんなものがと思われるようなものが出てくる。埃の塊はもちろん、人の髪の毛、ホッチキスの針、ゼムクリップ、画鋲の針、鉛筆の芯、紙の切れ端。ある雑誌で、女性のヘアピンが入っていたというのを読んだことがあり、その時はまさかと思ったが、これまでの体験から推して、ヘアピンくらい入っていて当然と思うようになった。それらが埃とからみあっているのだから、キーボードの調子がおかしくならない方が不思議だ。

 そうしたキーボードを持ち帰って、磨いてきれいにする時くらい楽しさを感じることはない。

 その時の私が何を考えているかというと、ほとんど何も考えていないことを白状しなければならない。無心である。ひたすら、目の前の汚れを落とすことに集中している。

 OA機器を磨くための不織布に、これまたOA機器の汚れを落とすための洗剤をつけて磨く。綿棒や歯ブラシなどを使って、キーの側面や狭いい溝にこびりついた汚れをこすり落としてゆく。キーとキーの間の埃は、掃除機で吸い取ったり、逆に圧搾空気で吹き飛ばす。しつこい埃がある場合は、キーを取り外してしまって汚れを吹き飛ばすか、ひたすら磨き続ける。

 このようにしていけば、家に来た時とは見違えるほどきれいなキーボードになる。

 もちろん、中古品やジャンク品として売られているキーボードだ。きれいにしても実際の使用に耐えるとは限らない。

 押したキーに何の反応もなかったり、押してもいないキーが押しっぱなしで同じ文字を打ち続ける状態になったり、ケーブルをさしたりぬいたりしていたせいか、コネクタの接点が無反応になっていたりする。

 見た目はそれほどでなくても、使いだすとおかしいというキーボードに何度か出会った。一週間の保証がついていたので交換してもらったら、それもまたおかしく。交通費と時間が惜しくて、結局は三度目の交換をあきらめ、たあげく、全部ばらして部品の交換用に当てたものもある。

 その代わり、泥水をかぶったようなキーボードでも、磨いて使い始めると、新品と変わらず快調そのものという場合が多いのである。

 キーボードの命は、やはり、キータッチだろうか。

 長くキーを打ち続ける人にとって、タッチのよさは大いに気になるところだ。

 例えばパワーブック150のキーボードは、キーが硬いという悪評がある。たった今、私はこの原稿のこの部分を、その150の、硬いキーを打ちながら書いている。150は、それを愛する同好の人たちによって、ホームページが運営されているほどだから、人気のマシンだ。しかし、キーが硬い。おまけに他のパワーブックと異なり、150には、キーボードを外付けにするためのコネクタがついていない。つまり、150にあらかじめ取りつけられているキーを使うしかない。それは玉に傷だというので、パワーブックの100シリーズで、キーボードの互換性のあるマシンから、キーボードだけを取り外して150と交換してしまう場合がある。

 わざわざ他のマシンを犠牲にしなくても、キーだけを別に購入すればいいのだが、古い100シリーズの部品供給はすでにストップしてしまっている。ジャンクの100シリーズを安く買ってきて、そのキーボードを取り外して取りつけるのが、最も安上がりということになる。

 確かに、150を使う上で、タッチが軽くて柔らかいものに換えてしまうのは、正しい選択だ。所有するマシンが150しかなく、150で仕事をするしかないというのなら、それもよい。しかし、これは私の話だが、私の仕事場には150の他に多くのマシンがある。キーボードもさまざまある。となれば、150の硬いキーボードを、ひとつの個性として認めようという気持ちもおこってくる。

 仕事をしていてその硬さに疲れたら、別のマシンに変えればいいし、別のキーボードを使えばいい。これは半分冗談だが、硬いキーボードというのは、もしかすると指を鍛える運動になるかもしれぬ。硬いことは事実だが、それに慣れてしまえば、硬さもまた、心地好く感じられるのではないか。私は二○○○年五月十一日現在、五台のパワーブック150を所有しているが、すべて150オリジナルのキーボードである。中古で買った時は交換されているものもあったが、150ならではのキーボードに改めて交換した……。

 アップル社が製造、販売している、いわゆる純正品のキーボードには、一九七四年以来の歴史と、いくつかの種類がある。

 マック登場以前の、Apple][、Applecなどは、キーボードと本体が一体になっていた。

 Lisa(リサ)や、マッキントッシュの128K、512K、Plus(プラス)、AppleGSなどには、外付けの専用キーボードがあった。

 私はそうした歴史的なキーボードをすべて使ったわけではなく、把握してもいない。

 しかし、私が最も使い勝手のいいものと認めているのが、一九八七年、マッキントッシュSEの発売と同時に売り出されたアップル標準キーボードであり、アップル拡張キーボードである。私が認める、などと書いたが、この二つのキーボードのよさは、マック好きの人なら誰でも同意するであろう。

 キーを叩いた瞬間の指の吸いこまれ具合といい、軽快なはねかえり具合といい、いつまで叩いていても疲れないどころか、逆に調子に乗せてくれる。極端なことをいえば、あれ? こんなにすいすい書けていいのだろうかと、不安になってしまうほど。

 おそらく、専門にキーボードの使い方を習った人には、私のタイピングなど、無駄そのもの、愚の骨頂と映るのではないか? 力が入り過ぎなのである。せっかく軽快なアップル標準キーボードを使っているのに、調子が出てくると、キーボードが親の敵ではないかと思われるほど、指をキーに叩きつけている。

 それくらいだから、手の先がキーボードの上で跳びはねている。これも無駄であろう。手の先はできるだけ動かさず、指先だけを踊らせる方が無駄にならずにすむ。疲労感も少ないはずだ。

 しかし、私はあいかわらず指をキーボードに叩きつけている。

 それでも、キーボードは壊れない。よほどの耐久性を備えているのだろう。

 実をいえば、、私は原稿用紙に字を書いていた時から、筆圧の強さを指摘されていた。だから強く叩くということは、強く書くことの、形を買えた動作であろう。強くしなければ、何かをしているという気にならないのであろう。

 初代のアップルキーボードと、その後に作られた二代目、すなわちアップルキーボードの違い。それはキーボードを分解してみればわかる。初代の方は、キーの下がプラスチック部品を組み合わせたメカニックな仕掛けである。しかし二代目の方には、ラバーが敷かれている。叩いた力を妙な具合で吸い取られてしまう感覚は、やはり、ゴムに触れた時と似ている。

 手が疲れてもいいから、私はひたすら叩きまくり、打ちまくりたい。

 ただ、手が疲れてもいいなどというのは、力みすぎかつ、思いこみすぎである。作る側は使う側のために、さまざまなことを考えてくれている。

 例えば、キーボードがほぼ中央から左右に分離して、手が向かう角度を自在に変えられる、アップル・アジャスタブル・キーボード。調節可能のキーボードという意味だ。人間工学の粋を集めたとされるもので、手の腱に負担がかからないように考えられている。その存在は知っているし、見たことはあるものの、使ったことはない。

 一般的なキーボードの、長方形の外観が好きなのである。無意識のうちに、馴れたものを捨てたくないという気持ちが働いてしまっているのかもしれない。せっかく考えられたアジャスタブル・キーボードなのに、私はそれに向かおうという積極性を持てない。

 この特殊なキーボードは、中古品で二万円ほどもする。おいそれと手が出ない。流通している数も少ない。出回っていないということは、故障した時に部品取りをする余分のキーボードを買えないということで、そういうマイナスの気持ちがつい先に立ってしまうのである。

 キーの配列にもこだわっている人も少なくない。

 一般的なキーの文字配列は、QWERTY(クワティ)配列と呼ばれるものだ。

 これはタイプライターが作られた時、高速のタイピングによって活字バーがからむのを避けるため、わざわざ速く打てないような文字配列を検討してできあがった。アルファベットの第一行目、左から順にQ、W、E、R、T、Yと並んでいるので、この呼び名がある。この、わざわざ打ちづらくした文字配列が、活字バーのないパソコンのキーボードにも受け継がれているのだから、非効率的なことはなはだしい。

 そこで、QWERTY配列に代わるものと期待されているのが、ドボラック配列である。

 オーガスト・ドボラック博士によって、すでに一九三○年代に考えられていたもので、効率的に打てる文字配列に加えて、左右の手を交互に使ったリズミカルなタイピングを可能にするとされた。

 しかし、そんな理想的なドボラック配列があるのに、なかなか世界的なものとならず、依然として目の前のキーボードは、QWERTY配列である。皮肉にいえば、いくら素早く打てたとしても、内容のない文章ではどうしようもない。むしろすらすら打っていると、パソコンの出現によって冗漫になったとされる日本語が、さらに軽薄になってしまうのではないか?

 ただ、何事も試してみなければなるまい。私もフリーウェアのドボラック入力支援ソフトをインターネット上からダウンロードして入手した。そしてキーを配列替えに必要なだけ取り外し、並べ替えた。なるほど、一見すると見慣れたキーボードに過ぎないが、さて、これで入力しようとすると、できない----。文字の配列がまったく違うのだから、できるはずがないのである。しかし、時間が解決してくれるのではないか? 初めてワープロに向かい、これで文字を入力しようとした時と同じである。簡単ではなかったが、七転八倒したわけではない。時間が解決してくれたのである。

 さて、ドボラック配列がどこまでキーボードによる原稿書きに役立つか。私にとって、必ずしも高速タイピングは必要ない。しかし、文字の配列がどれほど使う側に影響を与えているのかだけは、知っておきたい。

 ----もしかすると、キーボードにたいして関心を持たない人には、私がここで語っていることなど、どうでもいい話かもしれない。

 標準キーボードと拡張キーボードの違いなどどうでもいいことだし、アップル社が作るのだからその名がアップル・キーボードなのは当たり前のことだし、実物を前にすれば、アップル社の林檎マークがキーボードの上の方についていようが下の方についていようが、色がベージュがかっていようが白かろうが、まったく意味がないはずだ。

 キーボードは使えればいい。その通りである。ただでさえパソコン本体で場所をとられている机の上。それをさらに狭くするような拡張キーボードなど、ほとんどの人には迷惑以外、何物でもあるまい。

 QWERTY配列でじゅうぶんに仕事ができるなら、わざわざ頭の中をまっさらにして、ドボラック配列を覚える必要もないだろう。

 キーボードは、故障なく、快適に使えればいい。耐久性は大事だが、それは外見に関係あるまい。とにかく、疑問を持たずに使えれば、それが最高であって、それ以外の条件は必要ない。

 私もそう思うし、細かな差異など、絶対の価値になりえないことを知っている。キーボードに詳しい人は、アップル社純正のキーボードよりもっといいものがあるというだろう。アップル社の側に立てば、いや、より性能と使い勝手のいいキーボードを開発しているところだと反論するかもしれない。

 私にはそれらの声をすべて検証するだけの資力もないし、また、興味もない。ただ、私にできる範囲でいくつか試してみたけれども、アップル・キーボードおよびアップル・拡張キーボードが、タッチもデザインもいいなと思うのみである。心地好く使えるキーボードはこれだと納得できているのだから、それ以上何かしようとは思っていない。ただ、わかる範囲のものには執着したいと思っている。

 理由はたったひとつ。私はこれで生きているから。生きる糧を得ていて、これから先も、キーを叩くことによって生きていくつもりだから。何について書くかということより、まず書くという行為を優先して行いたいから。

 考えてみよう。

 ローマ字入力で「A」を押して変換すれば、「あ」という日本語になる。「KOTOBA」と押して変換すれば、「言葉」という日本語になる。それは誰がしても同じである。幼稚園の子供でも、キャリア何十年のベテラン作家でも、何ら変わるものではない。しかし、私が、というか文章を書いて生きていこうとする人間は、その先にあるものをめざしている。誰が叩いても同じになる日本語のためにキーボードに向き合っているわけではないのだ。キーボードを叩くことで、自分だけの文章を創り出そうとしている。勢いこんでいうのではなく、自分に忠実になってキーボードを叩いていれば、自然に、他人とは違う内容の文章が生まれてくるのである。

 それが楽しい。その楽しさのために、私はキーボードに向かっている。そして時には、キーボードを磨くのだ。

追記 ドボラック配列を試そうとプログラミングを試みたところ、システムが変調をきたしてしまい、キー操作の具合を語る前に、試み自体が頓挫してしまっている。これは五月十一日現在の話。いずれ再挑戦してみるつもりだ。

■4

「そのキーを叩け!」

 ついにG3マシンを購入した。ニ○○○年五月十四日のことである。ただし、デスクトップのG3ではない。パワーブックG3である。さらにいえば、二○○○年五月現在での最新鋭機ではなく、一九九九年五月に発売された、九九年型モデルのひとつ、PowerBookG3/333といわれるものである。つまり旧型。デスクトップの分野では、より高速の処理速度を持つG4マシンまで発売されている。一年前のパワーブックG3など、世間はすでに旧型とみなすだろう。しかし、発売されて一年だから、通常の感覚では古いといわれるものではない。少なくとも私はそう思う。技術革新が日々新たに行われているコンピュータ・テクノロジー界では、昨日作ったものは昨日の価値しかないかもしれないが、私にとってはそうではない。過去一年以内に出たものが古いはずはない。負け惜しみに聞こえるだろうか?

 誰でもそうだと思うが、安くない買い物をする時は、非常な緊張を強いられるものである。私はこのパワーブックを、秋葉原にある、マッキントッシュ専門の中古店で買った。当然、発売当初よりも安くなっている。値札の金額は約九万円下がっていた。それにしても、私はまとめて料金を払ったのではない。二年の月賦にしてもらった。これまでオールドマック関係に費やしていた金額を回せば何とかなると思ったのだ。しかし、購入を申し出た時は、本当に買えるのかどうか、不安だった。店員が、クレジット会社に審査を依頼する。細かいことはわからないが、買い主に支払い能力があるかどうか調べるのだろう。それが済むまでの私といったら、まるで最後の審判を受ける囚人の気持ちだった。

 G3を購入した理由。最も大きいのは、仕事を高速化しようと思ったこと。個人的にはオールドマックに強い思い入れがあって、その思いには正当性があると思っているのだが、やはり速さの誘惑には勝てなかった。

 速いということと快調であるということには、共通する要素がある。文字の変換速度が遅いマシンを使っていると、文章を書いていても、しばしばリズムが狂う。入力した文字や文章がスムーズに変換されず、焦ってしまうのだ。しかしG3だと瞬時に変換を終えるため、その心配はない。リズムが狂うと、文章にも影響が出る。つっかえつっかえして書くようになってしまうからだ。インターネットでの通信速度も、これまでとは比較にならない。こちらは速度が遅いと、電話料金もかさんでいくばかりなのでありがたい。

 そうした理由のほかにも、G3を買った原因はある。この原稿、「そのキーを叩け!」を書きすすめているうちに、古いマックにだけ固執していても、より多くの読者に訴える内容にならないのではないかと思い始めたのだ。

 単に、大勢に読んでもらいたいからということではなく、コンピュータを使って原稿を書く、そのこと自体への姿勢を深めていくためには、少しでも新しい機種に触れることが必要ではないかと思った。つまり、旧型のマシンで、果たそうとして果たせなかったことが、新型マシンではどこまで実現できているかということの確認。

 先に書いたように、旧型でも二年月賦で買うような私だ。最新鋭機を買うというのは、資力の限界があって無理である。最先端の情報は、専門の雑誌にまかせればいい。私がするべきなのは、できるだけ新しいマシンに触れつつ、そこに、年経ても古びない、普遍的な要素を探り出していくことだ。

 古いマックについて考えることは楽しい。アップル社とマックの歴史を、具体的にたどっていくことは楽しい。デザインのよさはいつの時代になっても変わらないし、古びたマシンを買ってきて使えるように整備していくことも楽しい。第一、私が持つパソコンのほとんどがオールドマックだから、それらを使い、それらについて考えなければ、宝の持ち腐れということになってしまう。しかし、オールドマックにばかり触れているうち、処理速度の遅さを実感し始めたのも確かだ。そんなこと、とっくの昔にわかっていたはずなのに。そう、指摘する人も少なくないだろう。これについては、私の作業環境を語らなければわかってもらえない。

 早稲田にある私の仕事場は、長い間、まともな使われ方をしてこなかった。病気のためである。二年半程前に喘息を患い、それ以来、仕事場で過ごす時間を少なくし、自宅で仕事をするようにしてきた。仕事場は昔ながらの学生下宿を思わせる、木造のアパートだ。寒中、こたつに入って仕事をしていたら、吐く息が白く見えたことがあった。それくらい風通しがいいのである。だから夏は快適だが、それにしても、梅雨時などは寒気を覚えてしまう。真夏だったが、仕事場を借りてすぐの時、涼しくて快適だろうというので床に何も敷かずに寝ていたら、風邪を引いてしまった。地面から立ち上る冷気にやられたのである。自覚はしなくても、そのような場所を長いこと使っていたら、体にもたらされた悪影響が蓄積していくだろうと思う。

 仕事場だけが喘息の原因ではないが、体に負担をかけないために、私は夜の外出を控え、夜の入浴を控えた。夜中になって咳がひどくなり、呼吸困難で病院にかけこんだこともあったほど。息をつまらせて死ぬ人が少なくないと知れば、仕事場に通わなくなったのもやむをえないことだった。初めの約一年というもの、ほとんど家賃を払いに通っていたようなものである。ひと月の間に、月末の一日しか行かなかった時もあったはずだ。しかし、仕事場は何の文句もいわなかった。

 特に、マッキントッシュのデスクトップマシン、Performa(パフォーマ)630は、一年に一度か二度しか起動させてもらえないという状態に耐えていた。机の上に放置されたままで、私がいなくなったら出没するねずみに周囲を徘徊されたり、よじのぼられたりしたと思う。人間なら叫び声のひとつもあげてしまうところだろう。しかし、630は何もいわない。時折、起動用のパワーキーを押すと、何でもないことというように動き出すのだ。健気である。しかし、私は一行の文章も一字の文字も書かないまま、システムを終了させてしまう。部屋にも630にも悪いと思いつつ、ここにいたら体が悪くなるという恐怖にかられて、家賃だけ払ったら、すぐに出てきてしまうようなこともあった。

 しかし、一九九九年以降は、比較的、体調がいい。そこで、仕事場の環境を整備し、長い時間でも仕事ができるようにしたのである。倉庫と化した仕事場を片づけ、掃除をし、作業スペースを作った。630は、あいかわらず使える。ハードディスクの容量が限界に達していたので、ハードディスクを大容量のものにとりかえた。さらに、630と同型で、より能力の高いパフォーマ6210を安く買、基盤を取り替えた。外見は630だが、中身は6210。速度は遅いが、とにもかくにも、パワーマックが誕生した。仕事場のメインマシンは、今後はこれになるだろうと思った。他にある二十数台のマック、SE/30やfxやci、LCシリーズなどは、メインとはいえない。仕事に役立てるのは、あくまでこの、〃パワーマック630〃である。四谷の自宅には、パワーブック3400がある。この二台が、私の日常を保ってくれる……。

 ところが、いざ本格的な仕事をしようとした時、私のリズムが、仕事場のマシンに合わないことに気づいた。家にあるパワーブック3400に慣れてしまっており、630改め6210では、それこそリズムが狂ってしまうようになったのだ。

 文章を書くのには、高機能で多くのメモリを必要とするワープロソフトと、機能は低いが少ないメモリで動かせるエディタがある。メモや下書き程度なら、エディタでじゅうぶんだ。これならオールドマックでも快適に使える。しかし、指示されたレイアウトに従って完成させる必要のある提出用の原稿は、エディタでは作れない。ワープロソフトのお世話にならなければならないのだが、オールドマックにはいささか荷が重いのである。

 さらに、原稿をインターネットで送ろうにも、送信がスムーズにいかない。3400の速さが基準になっているために、それを大幅に下回る6210の送信速度、受信速度に、いらだつようになったのである。体の調子がいいのだから仕事場を生かしたい。しかしそうしようとすればするほど、仕事場にあるマックの、性能の低さが際立ってきた。少なくとも3400と同等のマシン、できれば、熟知している3400以上のマシン、私にとっては未知のマシン、パワーブックG3を望む声が起こってきたのである。この数か月間、さらにいえば数週間、問題は、いつ買うかだけになっていた……。

 パーソナル・コンピュータの概念形成を推し進めた人物に、アラン・ケイがいる。主要論文を集めて日本で刊行されたのが、彼自身の名前を題名にした『アラン・ケイ』(鶴岡雄二/アスキー出版局)だ。

 ここに収録された講演「教育技術における学習と教育の対立」で、ケイはこんなことをいっている。

 「わたしが〃メディア〃という場合、とくにコンピュータのことを指しています。コンピュータは道具ではありません。道具というのは、コンピュータの性格づけとしてはあまりにも不充分です。コンピュータの場合、道具というのは、それをさまざまなレバーや梃子(てこ)に変換するプログラムのことなのです。コンピュータそのものは、紙のようなメディア----とてつもなく自由自在で、コンピュータの発明者が理解することもできなければ、そうする必要もないほどさまざまなかたちで利用され、人々の世界観を根本的に買えるものなのです」

 ケイはいっている。コンピュータは、道具ではない。メディアだと。使う人それぞれによって自由に形を変えるものなのだと。私はパソコンマニアでもなければ、コンピュータマニアでもなければメカマニアでもない。それでもなお、コンピュータを扱うということ自体に、心の隅で、満足感を覚えてはいなかったか。コンピュータという道具を使いこなすことが、とりあえずの終着点、目標と考えていなかったか。例えばオールドマックを磨いたり、整備したりすること自体に、楽しみを覚えていなかったか。それはアラン・ケイにいわせると、閉じた楽しみ、行き止まりの楽しみ、コンピュータの先にあるかもしれないものを、想像しようともしない人間の態度ではなかったか?

 パーソナル・コンピュータの開発に携わった人物すなわちアラン・ケイ。しかし彼は、コンピュータを終着点としてとらえない。コンピュータなど、目的に向かう過程で作られるものでしかない。ケイにとってはさらにその先にあるダイナブック、メタメディアと呼ばれるものこそが、創造に値するものだった。この『アラン・ケイ』が刊行されるにあたって、彼自身が寄せたメッセージ、「あのころはどんな時代だったのだろうか?」を見よう。

 「……一九六八年に三つの驚くべきことを知り、そのために、わたしのコンピュータに対する見方は根底から変わってしまうことになる。最初のものは、ドットを映し出す一平方インチの小さなガラス板----最初の平面ディスプレイである。将来、シリコンがとてつもない割合で縮んでいくのはわかっていたが、コンピュータの他の部分も、同じようになっていく可能性のあることが、これでわかった。わたしの計算では、一九八○年ごろには、あるいはもっと早い時点で、FLEXマシンのシリコンを、そうした小型ディスプレイの裏側に収められるようになるだろうと思われた」

 FLEXマシンとはコンピュータ以外の分野の専門家をユーザーとして想定した、デスクトップ・パーソナル・コンピュータと説明されている。ケイはコンピュータを、専門家の玩具にしようとはしなかった。非専門家、例えば私のような人間が、生活するのに必要な、日用品にしようとしたのだ。

 私はこれまでマックを道具と考えてきたのだが、それも通過点の認識でしかなかったのかもしれない。わざわざ手にとるものではなく、初めからそこにあるもの、考えなくても手に取れるもの、あえていうなら、生きるため、自然に手に取るもの、それが本来のパソコンではないのか?

 「第二のものは、子どもたちを対象にした、シーモア・パパートのLOGOの研究だった。もはや、コンピュータが専門家の独占物である時代は終わったのだった。設計さえ適切なら、コンピュータはだれにでも使えるものになるはずだ! そして、最初のすぐれた手書き文字認識システム、GRAILに出会い、すべての要素がそろった。コンピュータの利用は、鉛筆や紙や本を使うのと、同じようにならなければならない。コンピュータは、電話やネットワークとむすびついて、消費者向け製品のかたちになり、あらゆる人々が手に入れられるようにならなければならない----ダイナブックだ!」

 しばしば、情けなさをともなっていわれることだが、ダイナブックという呼称は、日本の電気メーカーのT社が、商標登録をしてしまっている。ケイは何かの商品を開発しようとして、ダイナブックという言葉を考え出したのではなかった。ダイナブックとは、考え方、理念であった。T社の人間も、そのことを知っていただろう。しかし知っていたら、これを自分の社の製品名にすべきではなかった。どれほどすぐれた製品であろうと、それを商標として登録すべきではなかった。理念とは人類の共有財産なのだから。

 「わたしは、ボール紙でダイナブックの外観を示す模型をつくり、どのような機能をもたせるべきかを検討しはじめた。このときにわたしが思いついた比喩のひとつは、一五世紀の中葉以降に発展していった、印刷物の読み書きの能力(リタラシー)の歴史と、コンピュータの類似(アナロジー)だった。一九六八年に、同時に三つの画期的な技術に出会ったせいで、わたしは、ヴェニスの印刷業者、アルダス・マヌティウスのことを思い浮かべずにはいられなかった。はじめて書物を現在と同じサイズに定めたのは、このマヌティウスだった。このサイズなら、一五世紀末のヴェニスの鞍袋にぴったり収まるから!」

 実にスリルにみちたエピソードだ。

 アラン・ケイは、コンピュータに鉛筆や紙や本と同じ役割を持たせようとし、その大きさと形を、書物に似せようとした。それでこそ、ダイナブックという名前の由来も理解できる。

 人は、何でもできるコンピュータなど、望むべきではないのかもしれない。しかし、コンピュータ自体は何でもできる可能性を持っている。人はその、箱でも何でもいいが、そこに自分のしたい方向性、形を与えていけばいい。音楽に興味のない人間が、コンピュータに音楽の役割を求める必要はない。絵を描く必要のない人が、高額のペイントソフトを買う必要はない。原稿を書くことを仕事としない人は、高機能のワープロソフトでなく、フリーウェアのエディタでじゅうぶんだ。

 何でもできる、あるいはコンピュータに何でもしてもらえる、コンピュータさせあれば立派な創作活動が可能というのは、まったくの幻想である。あれは世界的な現象だったのか、ウィンドウズ95が発売された時、まさに猫も杓子もこぞってウィンドウズを買い求めた。しかし、使い切れずに、多くの人は挫折したはずだ。会社では使っていただろうが、家庭で役立つものにはなりえなかったのである。

 アラン・ケイの理想が実現されているなら、コンピュータは家庭で役に立っているはずだ。ややこしい解説書や技術書を読まなくても、子供ですら簡単に使えるはずだ。子供は子供なりの使い方をすればいいし、大人は大人なりの使い方をすればいい。しかし、いまだに少なからぬ数の人が、コンピュータの前で手をこまねいている。コンピュータで書く文章と、ペンや筆で書く文章と、どこがどう違うのかという議論もなされている。極端な意見には、パソコンおよびワープロで書く文章が、日本語を駄目にするというような内容のものもある。

 つまりそのような意見が出るということは、人がまだ、ダイナブックの理想を手に入れていないからである。身構えなければ使えないようなパソコンだから、機械対肉体というような図式の議論が、まがりなりにも成立する。そんな対立、本来はあってはならないのである。何も考えず、本能的なレベルで、人はパソコンを使いこなせなければならないのである。何が使いこなすのか。もちろん、人間の肉体が使いこなすのだ。

 私についていおう。私が何をしたくてマックを手に取るのか。

 私はマックを使って原稿を書く。だから、マックはノートであってほしい。ノート以外の何物でもなくてもかまわないから、使い勝手のいい、最高のノートであってほしい。いや、最高ということすら実感しなくてかまわない。自然に使えるノートであればそれでいい。

 マックはさまざまなことができる。音楽面や視覚面における、他のコンピュータに比べたマックの優位性は、ずっと以前からいわれてきたことだ。しかし、私は主に、マックをワープロとして使う。通信機器として使い、インターネットを行う。さらに記録のための、覚え書きの用に役立てている。しかし、このくらいのこと、今日のワープロなら、簡単にしてのけるだろう。ワープロでじゅうぶんではないか。わざわざ高価なマックを買わずとも、十万円もせずに高性能のワープロが買えるのだから、それでいいではないか。

 私の反論はこうだ。私は理想に金を払い、時間を使っている。具体的にいうなら、例えばアラン・ケイが抱いた理想に共感するがゆえに、マックに投資している。

 こうしたことを意識的にせよ無意識的にせよ考えているから、私はつい、アップル社が生み出すマッキントッシュ、とりわけパワーブックに目がゆく。安い中古マシンやジャンクのマシンが売りに出されているのをみると、つい手にとって買い続けた。その流れが、旧型にせよ高性能の、パワーブックG3に到達した。

 パワーブックを手にするたび、アラン・ケイの思いを、私なりに解釈しようと努める。もちろん、デスクトップマシンにだって、ダイナブックの理想は流れているはずだ。アラン・ケイが暫定版のダイナブックとして、ゼロックス社パロ・アルト研究所で一九七三年に作り上げたAlto(アルト)は、今日の目で見れば、完全なデスクトップ・コンピュータだ。おそらくはデスクトップという表現も間違っているだろう。机に乗せるのではなく、机そのもの、作業台といった方が正しいかもしれない。とにかく、人は椅子に座り、目の前のモニターを見ながら、手元のキーボードとマウスで、コンピュータを制御するのである。そう、この時すでに、マウスは登場していた。

 しかし、Altoはあまりに大きすぎて、紙と鉛筆と本と同じ役目のダイナブックというにはどうもためらいがある。

 アップル社の会長だったスティーブ・ジョブズは、一九七八年、パロ・アルト研究所でこのAltoを見た後にアップル社に戻るや、新たなアップル社製コンピュータの開発に乗り出す。そうして、一九八三年にできあがったのが、マッキントッシュに先立つLisa(リサ)。その性能は誰もが認めるところであったが、残念ながら売れるには至らず、ジョブズを始めとするアップル社の面々は、新たなパソコンの開発に向かわなければならなくなった。マッキントッシュが発表されるのは、一九八四年である。

 しばしば日本人は小さなものが好きだといわれる。だから、例えばパワーブック2400という、パワーブックの歴史で最小最軽量のマシンに人気が集まったのだと。2400は世界のどこでより、日本で人気があった。正確な販売台数は知らないが、アメリカではほとんど実績をあげられなかった。逆に日本では、2400をいかに使いこなすかといった特集が多くの雑誌で組まれ、2400についてだけの単行本まで作られたほど。私はそれを横目で見ながら、ただただ羨ましがっていた。

 なぜ、2400はそこまで人気があったのか? 先にあげた、日本人は小さいものが好きという理由に加えて、多くの日本人が、アラン・ケイの理想を2400に見ていたと思うのだ。アラン・ケイのことにまで思いが至らなかったとしても、未来のコンピュータはこのようになるはずだという直感を、2400に感じたはず。だからこそ、同じ時期に、ウィンドウズ搭載マシンでは、2400より軽量のものがあったにもかかわらず、マックを愛する人々はそちらに走らなかったのに違いない。

 鞄の中に2400を詰めこんで、足元も軽やかに出かける姿。

 喫茶店のテーブルで2400を取り出し、おもむろに起動させて原稿を書き始める姿。

 旅に向う列車で、膝の上の2400に向いつつ、ときおり車窓の風景を眺める姿。

 何もない机を前に、ふと思いついて、2400を取り出そうと本箱に手をのばす姿。

 そうした幻想に、幾度、とらわれたろう。正直にいえば、パワーブックG3を手に入れた今も、2400への憧れは捨てられない。正確にいえば、2400のようなマシン、ということだろうか。かつてのパワーブックにはDuo(デュオ)シリーズという、拡張性を最小限に切り詰めたマシンがあった。フロッピーディスクドライブは外付けとする。外部のハードディスクをはじめ、プリンタやモデムやキーボードといった、周辺機器と接続するためのポートも、なくしてしまうか、数を減らす。その代わり、DuoDock(デュオドック)と呼ばれる拡張機器に、本体を丸ごと組み合わせて、デスクトップマシンとしての機能を発揮させる。だから持ち運んで使うときは、必要最小限の大きさと重さですむというわけだ。しかし、このDuoシリーズは開発されなくなって久しい。

 アラン・ケイは、「パーソナル・ダイナミック・メディア」という論文で、こんなことをいっている。

 「形も大きさもノートと同じポータブルな入れ物に収まる、独立式の情報操作機械があるとしよう。この機械は人間の視覚、聴覚にまさる機能をもち、何千ページもの参考資料、詩、手紙、レシピ、記録、絵、アニメーション、楽譜、音の波形、動的なシミュレーションなどをはじめ、記憶させ、変更したいものすべてを収め、あとでとり出せる能力があるものと仮定する。/われわれは、可能なかぎり小さく、もち運び可能で、人間の感覚機能に迫る量の情報を出し入れできる装置を考えている」

 ダイナブック----。少しずつではあるが、ケイの理想に人々は向かい、すでにその一部は手に入れている。私にとっても、パワーブックG3は現在形のダイナブック、まだまだ未来があるという意味で、あえて現在形と呼ぶが、この時点で手に入れられる理想の鉛筆であり、紙であり、本なのである。最新鋭のパワーブックは、映像さえも取りこんで加工できる機能を、あらかじめ備えている。デスクトップ機とも肩を並べられるだけの性能を持ちながら、なお持ち運べるということ。ケイがいうように、中世の人々が鞍袋に収まるとして考案した書物、それと等しいサイズのコンピュータであることに、人々は理想の方向を向けている。

 G3を得たことで、私がどう変わるのか。力を得るのか。それはまだ未知数だ。しかし、この原稿を書き続ける意欲には、加速度がついた。このこと自体すでに、変化が生じた証ではないだろうか。

■5

「そのキーを叩け!」

 今回は、こんな書き手がいるということを、紹介したい。

 「ラブホテルにパソコンが置かれているという。事情を知らない人には、奇妙に聞こえることだろう。いかがわしい目的で使われるのに違いないと、あらぬ憶測をめぐらす人がいるかもしれない。そうではない。いかがわしい目的もあるかもしれないが、ラブホテルの一室に置かれたパソコンは、恋人たちがインターネットを楽しむために置かれている。それでいかがわしいサイトにアクセスするに決まっている……。いや、考え出したらきりがない。とにかく今回は、インターネットが楽しみ放題というラブホテルを紹介しよう。一人で行くのも寂しいので、編集部のYさんに頼みこみ、同行してもらうことにした。私の心に期待がなかったといえば、かえってYさんには失礼にあたるだろうか。さりげなく、しかし取材然とした態度は避けて、私とYさんは、関内駅の改札口で待ち合わせた。折から、横浜スタジアムの横浜・阪神戦を観ようという人で、駅の周辺はごったがえしている……」

 何気なくめくった週刊誌のページに、こんな記事をみつけた。署名がある。「六色林檎」。ペンネームだ。かつて使われていた、アップル社のマークにちなんだものである。「六色林檎」が、原稿を書くのにマックを使っていることは明らかだった。さらに明らかなのは、このライターが、大学時代の、私の友人であるということ。なぜわかる? それは記事の中ほどに、こんな文章を見つけたからだ。

 「……そう。何もない方がおかしかったのである。私とYさんは、ラブホテルの一夜を心ゆくまで堪能した。Yさんもまた、期待していたのに違いない。ことが終わった後、私はぐっすり眠った。そして夢うつつに、カチャカチャという音を聞いていた。誰だ、いま時分、パソコンに向っているのは。夜中に仕事なんてしなくてもいいじゃないか----。文句のひとつもいってやろうと、薄目を開けて上体を起こしかけた時、私の目に映ったのはYさんだった。Yさんはパソコンに向かって、キーボードを叩き続けていた。そうだ、忘れていた。私たちはパソコンのあるラブホテル、それもインターネットし放題のラブホテルを取材しにやってきたのだった。寝ぼけまなこで眺めたYさんの横顔は、モニタの光に照らし出されて美しかった。Yさんの指の動きはなおも続いている。ホームページを見るだけなら、あれほどキーを叩く必要はない。メールを書いているのだろうか? いつか、似たような経験をしたのを思い出した。あれは私が大学生だったころ。初めて夜をともにした恋人が、朝早くから隣の部屋で、キーボードを叩いていたのだ。私がまだ、ふとんの中で眠い目をこすっているというのに。しかし、その時の恋人の横顔は、Yさんと同じように美しかった。キーボードを叩く女性は美しい。これは、今も昔も変わらない真実だ……」

 友人の体験そのままだった。脚色はあるにせよ、ここには、私が友人からじかに聞かされた、ありのままの光景が書かれていた。

 友人、その名を仮にTとしておこう。今では音信が絶えて久しくなってしまったが、大学生時代のすべての時期にわたり、私たちは始終行き来していた。Tは、ガリ版刷りのミニコミを一緒に作っていた仲間の一人だ。しかし、今ではTがどのような私生活を送っているのか、私は知らない。Tもまた、私の私生活を知らないだろう。ただし、出版物を通して、Tの名を見る。今日のTは、キーを叩いておのれを表現する人間になっている。

 Tと言葉を交すようになったのは、ふとしたきっかけからだ。私たちが通った大学は、都心の、お堀に面した地域にあった。今日では、在京の、他の多くの大学と同様、多摩地区にその大部分を移転させている。しかし当時はまだ、一年生から四年生、大学院生まで、すべての学生が、お堀端の校舎に通っていた。最寄りの駅から大学まで、ほとんどの学生が、土手の道を歩くことになる。春になれば桜が咲き誇り、夏になれば青葉がまぶしく、秋になれば枯れ葉が地面に舞い散り、冬になって雪が降れば、真っ白に雪化粧した土手を眺めることになる。

 入学したばかりで、知った顔もない。春の雨が降るある朝、傘をさして一人で土手を歩く私に、黒い影が近寄ってきた。

 「……おはよう」

 傘を傾けて見上げると、覚えのある顔が間近にあった。確か、年度初めのオリエンテーリングが行われた教室で見たのである。私より頭一つ分、背が高かった。しかし、圧迫感はない。細い体はどこか弱々しげな印象を同居させていた。

 私とTは、初めから話があった。映画やテレビを話題にして、いつまででも話をすることができた。特に、お互いが少年時代に観ていた、SF映画やSFテレビドラマについての話が主だった。女性がらみの話は……、あまりテーマにならなかった。私たちは、いまだ男の子の世界に生きていたのか。

 二十数年前のTは、京王線沿線の幡ヶ谷に住んでいた。今は地面の下に駅がある幡ヶ谷だが、当時はまだ、電車は地上を走っていた。Tのアパートは、駅から程遠からぬ場所にあった。コの字型をした、タイル張りの二階建てアパートだった。中庭には洗濯場があったと思う。

 ある日、私はTに誘われ、そのアパートに行った。徹夜で話をした。話題はやはり、SF的世界を描く映像作品だった。文学についての話も出たと思う。他人を話題にするだけでなく、自分たちも何かを創りたい、書いてみたいというような話が、このころから出始めていた。もちろん、それをパソコンでしようなどという展開にはならない。コンピュータは知っていたが、それはまだ、子供時代の漫画で言葉を聞いた、電子頭脳、電子計算機の類いと変わらなかった。

 そのTが、数か月後、大学の助教授、この女性の名前を仮にSとしておくが、その女性と肉体関係を持つことになる。確かに驚きはしたが、大学生ともなれば、そのようなこともあるのだろうと、自分で自分を納得させた。とにかく、高校という閉ざされた世界から、別の次元に身を置いたという思いを日々、味わっていたのである。何が起きても不思議ではない。何も起きない方が不思議だと思っていた。戦争が起こっても不思議に思わなかったかもしれない。

 そしてTにとって、Sと出会ったことが、彼の、キーを打つ生き方に、じかにかかわっている。

 これから書くのは、Tに聞いた話そのままである。今日のTにとって、これが今でもよい記憶としてとどめられていることを願っている。

 助教授Sは、文学部で、ジャーナリズム論を教えていた。一、二年生はいまだ教養課程を学ぶ身の上だが、いくつかの単位に限り、三、四年生にまじって学部の講義を履修できたのだ。Tはジャーナリズム論を選択したが、私はそうではなくTとSがどのようにして出会ったのか知らない。Tは話そうとしなかったし、私も聞こうとしなかった。Tにしてみれば、Sをかばうという気持ちがあったのかもしれず、興味本位で受け取られるのを警戒したのかもしれない。私はといえば、やっかみがあったのだろう、教えてほしいと申し出なかった。しかし、想像はできる。Tは少年時代から、ジャーナリスト志望であった。中学校で、将来の希望を書かされた時、Tはルポライターと記したというのだ。もっとも、そのころのTにとって、ルポライターなるものの具体的な形があったわけではあるまい。新聞記者よりも自由に行動でき、出版社の人間よりも作家に近い、自分の名前で記事を発表できる人間。中学生の思い描くルポライター像とは、よくてもこんなところだろう。

 「SF映画にはルポライターが主人公になるものが多かった。その影響なんだ」

 T自身は、そういって笑っていた。確かに、あのスーパーマンも、普段は新聞記者である。事件の発生をいちはやくつかみ、事件の現場にいちはやく向かい、事件の推移を誰よりもまぢかで見守り、解決に尽力する。そのような役割、新聞記者なら似つかわしいし、フリーライターであってもおかしくない。Tが憧れたのも無理はない。

 TとSは、大学を離れた場所で、しばしば食事をし、時間があれば喫茶店や酒場に出入りし、休日をともに過ごすようになり、いずれは自分たちが、男と女として互いを必要とする関係に陥る予感を抱き始めた。その過程で、TとSは、書くこと、今のTにとってはキーを叩くという行為について、語り合う機会を持ったのだと思う。

 いま思い出したが、Sはある雑誌に連載を持っていた。一回分が原稿用紙四、五枚ほどの長さだったろう。ジャーナリズムの研究家であるSが、東京で生き、時には国の内外を旅するうちに、見たり、聞いたり、実際に体験し、さらには考えをめぐらせるなどしたことを、時事報告の形で展開していくものであった。連載はおよそ、二年ほども続いたろうか。私はTから、Sさんはこんな原稿を書いている人だと、記事の切り抜きを見せてもらったことがある。その時にはTとSはまだ深い関係になってなかったはずだが、Tは尋常でない関心と気持ちを、Sに寄せていた。

 Sと初めて夜を過ごすことになった時、Tはなぜか、身体が震えてとまらなかったという。未知の期待に対する緊張感だったのか。そう決めてSの家に向かうことになったのか、家に行ってからそういうことになったのか。この違いは重要なことに思われるが、ここでは詮索しないことにする。

 教師と教え子という関係が、一変して、男女の間柄となる。TとSは、もちろん年齢が離れている。Tは十九歳だった。あの時のSは……三四歳。考えてみれば、今の私より、ずいぶんと若かった。

 初夜の様子がどのようなものであったか、私は知らない。特に興味はないのである。男女のすることといえば、だいたい、私にも想像できる。

 夜が明けた。Tはおそらく、一夜をかけた二人の行為に疲れ、心地よく眠っていたはずだ。ふと、Tは物音を聞いて目を覚ます。それは機械的で、一定のリズムを持った、繰り返しの音だった。寝室とは扉一枚を隔てた、Sの書斎から聞こえてくる。

 カチャカチャ、カチカチ、ジー、パチパチ、カシャカシャ、ジー……。

 止むことのない音、それまで聞いたことのない音を不思議に思い、Tは布団を出て、そっと隣の部屋をのぞいた。Sが机に向かっていた。タイプライターのキーを叩いている。Sは、Tに気づかないまま、ひたすら、目の前の行為に集中していた。

 パチパチ、ガシャガシャ、ジー、カチャカチャ、ジー、ガチャガチャ……。

 Tは、おのれを恥じたという。恥の概念が体の中に広がっていったという。

 要するに、おれはいったい、何をしているんだということ。

 あそこでSは、ひたすら自分を表すための文章を書いているのに、自分は身に何もまとわない素裸で、Sの姿をのぞいている。

 Tはいった。おれは生まれて初めて、タイプライターで仕事をする人を見たんだよ、と。本当はタイプライター自体を見たのが初めてだったのだろう。

 その時にSが書いていたのは、おそらく、手紙か、何かのレポートだったに違いない。タイプライターで書いているのだから、日本語ではない。ワープロもパソコンも、まだ世間に出回っていない時期である。キーで文章を書くといえば、巨大な和文タイプライターの他は、英文のタイプライターしかありえない。国外の友人か、しかるべき機関に、何かを送ろうとしていたのか。いや、Sのことだから、自身の論文を外国で発表するための原稿執筆だったかもしれない。

 Tは自分を蔑むと同時に、Sをまぶしく思った。自分など並ぶこともできない、まぶしい存在がすぐそこにあることを感じた。

 Tは大学に入ったばかりの、何もしていない、これからするつもりだがそれも実を結ぶかどうかわからない、一介の学生だ。片やSは、ジャーナリズムの研究家として活躍し、将来の期待を担う少壮の学者である。社会的な立場には雲泥の開きがある。だから恥と思うこともないのだが、さっきまでは男と女として、並んで夜を過ごしていたのに、目をさましたら実際には並んでいなかったという現実がTを襲った。

 それにしても、その時、Tの見たSが、タイプライターのキーを叩いているのではなく、原稿用紙にペンを走らせていたら、Tの衝撃、あるいは感じたまぶしさは、同様の強さを伴うものだっただろうか。

 Tの精神に決定的な打撃を与えたのは、文章を書いているという行為ではなく、キーの機械音、打撃音ではなかっただろうか。

 タイプライターは、十九世紀後半、拳銃の製造元として名高い、アメリカのレミントン社が開発したのである。タイプライターには、人を殺すための強さと、正確さ、さらに撃つ人の命は守らなければならないという命題をクリアするためのノウハウが、たっぷり生かされている。そうした機能が、必然として、拳銃の形に結びついているのだろう。独特の打撃音も、その過程で生み出されたのに違いない。

 自分の肉体に消しがたい刻印をした女によってもたらされた、Tの記憶。そこに、キーの打撃音がかかわっているということ。そしてその打撃音が、後のTに、書くこと、キーを叩くことによって生きる人生を歩ませたということ。TにはTの人生があり、私には私の人生がある。だから羨ましいとも何とも思わないが、その背景に男女の関わりがあるだけに、生々しく、肉体的な想像をかきたてられる。

 その後、数年を経て、TとSは別離に至る。これまた、私は二人の別れの原因がどこにあるのか、はっきりとしたことを知らない。ただ間違いないのは、出会いの時期、TはSのような存在を欲し、Sもまた、Tのような存在を欲していたのだということ。Tにとっては、その後の人生の方向性を示すという意味で、Sが必要だったのだろう。男女に限らず、同年代の学生仲間に、Tの、書くことへの欲求、具体的に原稿を書いていくという行為への興味を満たす者など、一人もいなかったに違いない。それは容易に理解できる。では、Sにとっては? すでに社会的な地位を得ていたSが、どうしてTのような、十九歳の若者を必要としたのか?

 身勝手な推測をさせてもらえば、おそらく、その時期のSには、Tの無垢な情熱が必要だった。S自身が、もう一段おのれをステップアップさせるための情熱。論文を発表し、評論集を著わし、マスコミに登場して発言する。そのような仕方で、一段一段、高みに昇っていくことはできるだろう。

 しかしSが望んだのは、そのような、企業内の昇進にも似た地位の上昇ではなく、情熱というものによって支えられた、おのれ自身の、内面の向上だったのではないか? 大人社会で似た者同士が行う、時には助け合いもあるが時には足の引っ張りあいもあるというような、駆け引きを伴った、いわゆる出世ではない。SはTと出会うことで、彼女自身を鍛え、大きくしたかった。そのために、これから世の中を相手にしていこうと牙を研ぐ、若者の情熱に感化されたかった。----違うだろうか?

 二人の別れには、残酷だが、お互いがお互いの目的を果たしたという事実があろう。それは相手を利用したという意味ではない。ある時期に鍛え合ったのなら、なれ合いによっていつまでも関係し続けるのではなく、潔く別れ、別々のところと機会で、互いをさらに鍛えていけばいい。大切なことは、その後も二人が、書くことをやめなかった事実。それがあれば、じゅうぶんではないのか?

 私もまた、原稿を書き続けることで、おのれを生かしている。そこには、かつては原稿用紙が、そして今はマッキントッシュ、パワーブックG3の力が大きく働いている。

 良きにつけ悪しきにつけ、デスクトップマシンは、書き手を書斎に縛りつける。縛りつけること自体はいい。縛られなければ仕事ができない人もいるだろう。膨大な資料に囲まれた書斎でこそ、思う通りの原稿が書けるという人がいるはずだ。しかしできることなら、縛りつけられたくないというのが、私の本音である。場所からも、資料からも、自分の日常からも自由になりたい。心と体を自由にしなければ、創作などできないではないか。それはもう、締め切りも間近くて、何が何でも書かなければならないというのなら、書斎だろうが印刷所だろうがカンヅメにされる旅館だろうが、この身を押しこめて、書く。仕上げの段階になれば、無理に縛りつけなければ集中できない場合がある。しかし、原稿を創り上げていこうとする過程では、自分を野放しにさせたい。どこにでも行ける。どこに行ってもいい。そのような境遇に、自分の身を置いてやりたい。そこから何が生まれてくるかをみつめたい。

 私の友人Tを、彼が学生であるにもかかわらず、愛したS。Sはおそらく、自由になりたかった。そのために若者のTを愛した。こういうと、利用したみたいで誤解を招くかもしれない。Tに助けてもらいたかったといった方がいいかもしれない。そのように、Tに頼んだわけではあるまいし、S自身も思っていたわけではないかもしれない。おそらく無意識に、Tのような存在を求めていた。彼女自身が自由になって、書くため。何かを創り出すため。

 例えば、かねてよりルポライター志望であるTが、こんなものを書きたいという。具体的でなくても、何かを書いてみたいという。当然、Sは書くことを勧めるだろう。Tもまた、書こうとする。できた原稿をSに読んでもらい、批判をあおぐ。Sは何かいう。そこでTが傷つくか頭にくるか喜ぶか、それは知らない。それもまた、男と女の関係上でなされることだ。恋人であることを忘れて教え教えられる、そんなきれいごとを私は信じない。SがTにとって第三者でない以上、その意見に私情がまじるのは避けられない。一介の学生の書いたものなど、世の編集者が読むはずはない。それをSという、原稿執筆の経験も知識もある人間に読んでもらえること自体、男女の関係が前提になっているからではないのか。

 いずれにせよ私が問題にしたいのは、Tに書けという時、Sはどこにいるのかということ。彼女が本当の書き手であるなら、Tに放つ言葉は自分自身に向かう言葉、自分自身につきつける言葉として自覚するはずだ。他人にだけ書けといって、自分は書かない。他人がさらしもの覚悟で何かをしようとする時、自分だけ安全な場所でながめているなどというのは、あまりにも調子がよすぎる。自分もまた、さらし者になるべきなのだ。Sの場合、それはTに対してではなく、社会に対して。すでに原稿を書いて発表する身なのだから、私はここにいますが、あなた方に向かってこの身をさらします、これが私のすべてです、さあ、どうにでもしてくださいという、意思表示。

 Sなら、そうしただろうと思う。Tと出会うことで自由になり、世間に対して自由に、しかし斬られることを覚悟して、振る舞おうとしたのだと思う。それこそが、創造者の態度であろう。

 事実、Tと出会って以降のSは、活躍の場を広げていった。単なるジャーナリズム論の学者から、ジャーナリズムというものを通して世の中の有り様を探り、考え、提示する、発信者になっていった。書店に行っても、一般書の棚に、Sの書いた本が目につくようになっていったのである。もはやSは、大学を超えた存在、世の中の人々が共通に認識する存在となった。Tとの出会いが関係していることは間違いない。多かれ少なかれ? いや、私は大いにと思いたい。

 そしてTは----。十数歳という年齢の違いは大きい。いや、年齢の違いだけに原因を求めるのは筋違いだろう。Tの本意でもあるまい。

 今日のTはいわゆる、フリーライターである。一昔前なら、嘲りをもって、雑文書き、売文業者などと呼ばれた職業だろうか。それが今や、フリーライター。しかし、中身は同じである。何でもしなければならない。発注者のいうがままに、何でも書かなければならないのである。T自身の名前で原稿を発表することもある。しかし、ほとんどの原稿は、例えば冒頭に紹介した、「六色林檎」などという、その場限りの架空の名前で書かれるもの。Tは、それで満足しているのか。おそらく、そうではないだろうと思う。かつてSが欲したような自由、Tの場合なら、書き手としての自由、創造者が持つ自由を、彼もまた欲しているはずだ。なぜ、私はそう思うのか? フリーライターなら、それでもうじゅうぶんに自由な立場ではないか。どこにも属さず、いろいろな場所や人に取材でき、いろいろなテーマに挑めるフリーライターは、自由な人間ではないのか? いや、それは私が知っている。フリーライターは惨めである。かのバブル期、余った金の使い所に困ったのか、出版になど縁もゆかりもない企業が、雑誌を発行することを思いついた。しかし、ノウハウも人脈も、いや最も大事な理念がないから、たちまちに頓挫。それが本業ならどんなに惨めになっても続けていくだろうが、本業は別にあるのだから、出版などからはたちまち手を引く。残ったのは残骸だけ。しわ寄せは、前線に立って取材し、原稿を書いていたフリーライターに来た。さらにフリーライターは、人脈だけが頼りである。フリーで原稿を書きたいなどという人間、世の中には掃いて捨てるほどいるし、編集部も一通りのことしか望んでいないのだから、絶対に誰かでなければならないということはほとんどない。従って、担当の編集者が移動したり退職したりすれば、たちまち用済みの身となる。本当に大切なライターなら編集者から編集者へと引き継がれるだろうが、そのような人間は、どれほどいるだろう。

 こんなことを書いていればきりがない。またフリーライターだけが惨めなのではなく、バブル期には多くの人が哀れな身となり、冷や飯を食うことになり、中には命を落とした人もいる。編集部の変化が身に及ぶのはライターだけでなく、編集プロダクションやデザイン事務所やカメラマンなど、あなたまかせの立場で仕事をしている人すべてがそうである。

 頼むからTには、T自身の名で、すべての原稿を発表できるようになってほしい。一冊でもいいから、Tの名で著作をものにしてほしい。世の中の浮き沈みや他人の気紛れに一喜一憂しなですむ書き手になってほしい。こんなもの、マックを使って書くこととは何の関係もない話と、人は思うだろう。単なるフリーライター残酷物語にすぎないではないか、と。いや、そうではない。マックを使って書くこと、キーを叩き続けること、オールドマックに惚れ、新機種の登場に気持ちをひかれること。そうしたことの背景すべてに、人間というものの存在が、まるごと被いかぶさっている。そのことを忘れて、処理速度の速さや、搭載された機能の多彩さに心を奪われたくないのである。マックの前に座っているのは人間だ。キーを叩きながら生きるTの姿を通して、私はそのことを確認しておきたかった。

 

■6

「そのキーを叩け!」

 実はこの原稿、一度書き上がっていたにもかかわらず消してしまい、二度目に書いたものである。

 ファイル名をきちんとしておかなかったために、清書直前の原稿をメモと勘違いし、消去してしまった。自動保存したものから何から、このへんで整理していかなければごちゃごちゃになると、疲れて朦朧とした頭で思ったのが運の尽きだ。

 消してから時間が経っていなければ、ノートン・ディスクドクターというソフトを使って復活できる。ところが、私の持っているノートンは4・0というバージョンであって、これは、パワーブック3400とG3に入れてあるOSの9・0・4には対応していなかった。それがわかったのは、原稿を消去した後。ノートンを起動させたところ、このマシンのOSには対応していないというメッセージが出て、すっかり慌ててしまった。原稿を書き直さなければならないではないか。メモの断片があったので、それをつなぎ合わせ、記憶をたどりつつ作業を進めるしかない。いっそ、一から書き直した方が早いような気もするのだが、書きたかったことを記しておかなければ後悔する。一度書いたものは、要するに書きたかったことなのだから、表現に違いはあれ、本質はよみがえらせなければならないのである。

 ワープロが普及し始めた当初、原稿が消えてしまったという話はよく耳にした。作家の失敗談が新聞種になったほどだ。幸いなことに、ワープロを使い始め、それをパソコンに移行させてから十八年ほどになるが、私はほとんど原稿を消してしまったことがない。もちろん二、三度はあるが、致命的なものではなかった。今回も、かろうじてメモが残っていたのだから致命的とはいえないかもしれない。しかし、だいたい書けたと安心していた原稿二十枚を、もう一度書かなければならないというのは苦痛だ。さらに、ノートンが通じなかったということに、別のショックを受けたのである。OSをもとに戻すか。新しいノートンを買うか。これから先、OSの進化に合わせていくというならノートンの購入が正解だが、G3の月賦支払いがあるので、出費は押さえたい。どうせお金を払うなら、私の場合は最新のワープロソフトと日本語入力システムを選んだ方がいいのではないか? しかし、それも出費には違いない……悩みはつきないのである。

 チャールズ・ブコウスキーもやはり、原稿が消えてしまったということを、『死をポケットに入れて』(中川五郎訳・河出書房新社刊)に書いていた。

 「とんでもない場面にも何度か遭遇した。ある夜のことを思い出す。四時間かそれぐらい続けてたっぷりと文章を書いた後、素晴らしいつきに恵まれたような気分に浸り、その瞬間わたしは何かに触れたのだと思う、突然青い光が閃き、それまで書いていた何ページもの文章が一瞬にして消え去ってしまった。何とか甦らせることはできないものかと、わたしはありとあらゆることを試してみた。まったくもって影もかたちもなくなってしまっていた。もちろんわたしは『すべてを保存』の状態にしていたが、そんなことは何の関係もなかった。同じことが別の時にも起こったが、その時はそれほどページ数が多くはなかった……」

 ブコウスキーは、何人もの人に相談したらしいが、ついに文章を復活させられなかった。青い光が何なのかということも、ついにわからず仕舞いだった。ということは、いつまた青い光が閃くかわからないということである。いったい何に触れれば青い光が閃くのか。私にはわからない。マックに、そんな物騒なキーやボタンがあっただろうか?

 前に触れたことだが、チャールズ・ブコウスキーが使っていたマシンは、マッキントッシュsiである。私はブコウスキーにならってsiを、それも二台購入したが、この機械を前にしてブコウスキーが四苦八苦したかと思うと、彼に対する親近感も増す。少しでもブコウスキーのことを知りたいと思ったわけだが、この青い光だけは御免である。幸い私は青い光に遭遇したことがない。

 ブコウスキーは続けて、この時の気持ちを記している。

 「言っておくが、何ページもの文章が一瞬にして消えてしまう時の気分の悪さときたら、思わずぞっとさせられるいやな気分の中でも最たるものだ。今考えてみると、また別の時に、長編小説の原稿が、三ページか四ページ消えてしまったことがあった。一章全部だ。その時わたしがしたことはといえば、とにかくすべてをもう一度最初から書くということだった。書き直す時は、ちょっとしたやま場は再び訪れてはくれず、何かが失われてしまう。しかし逆に新たに得られるものもある。というのも書き直す場合、自分がそれほど満足していなかった箇所を省いてしまったり、前回よりもましな箇所をつけ加えたりするのがふつうだからだ……」

 資料によれば、ブコウスキーがsiを使って書き上げたのは、この『死をポケットに入れて』と、小説『パルプ』であるという。三、四ページ分消えてしまったのは、『パルプ』の原稿であろう。

 まめにバックアップを取っておけということはよくいわれる。しかし、それにも限界がある。バックアップ・ファイルが消失してしまったり、壊れてしまったらどうするのか? もちろん、オリジナルとコピーの両方が壊れるなど、めったにあるものではない。それでも、可能性は否定できないのである。地震や火事が起きて、すべてが雲散霧消してしまうことだってあるかもしれない。今では、ネット上に自分のフォルダを作っておいて、そこに書類を保存しておくこともできる。データを手許に置いて持ち回っているより安全かもしれない。それでも、インターネットに接続するための、プロバイダの回線がダウンしてしまったら、どうしようもない。

 私が長年契約しているのはB社だが、ここが最近、しばしば接続不調に陥る。接続できない、接続してもメールの送受信ができないなどの症状が発生する。電話をかけて質問しても、原因が不明でとか、復旧につとめていますなどというばかりで、まったくらちがあかない。書き上がったばかりの原稿を仕事先に送りたい時など、困ってしまう。名刺に印刷して、仕事先に配っているのは、B社のアドレスなのだ。仕方なく、予備のために、もうひとつ別のプロバイダ、N社と契約した。パソコン通信の時代からN社とは契約していたので、インターネットにも対応できるよう、契約内容を変えたのである。今やパソコン通信は、新聞社のデータベースを調べる時くらいしか使っていなかった。これで新たな使い道ができたわけだが、先のB社の問題が解決したわけではない。

 それにしても、原稿をいかにして失くさないようにするかというのは、永遠に解決されることのない課題だ。電気的なミスだけでなく、単純な人為的ミスで、人は原稿を失くしてしまう。かつて原稿用紙の時代、いや、今でも原稿用紙を使っている作家は少なくないが、大切な原稿を預かった編集者が、帰路に酔っぱらい、電車やタクシーに置き忘れてしまったということが少なからずあった。わざと失くすのではなく、気をよそに取られていたのである。玉稿などと呼ばれることがあるものに気を入れていなかったというのは、まったく許されることではないが、人がすることである以上、不測の自体は起こりうるのである。そうした場合、編集者の落ちこみようはたいへんなものだ。考えれば考えるほど、たいへんなことをしでかしたという思いが強まってくる。作家は、この世に唯一無二のものを創りあげようとしいる。印刷される前は、生原稿こそそれに当たるのだから、原稿の紛失は犯罪に近いわけである。医療ミスが犯罪になるのなら、編集者の原稿紛失も犯罪といっていえなくはない。そのような人為的ミスを解消するために、機械に頼ろうとするのは、ひとつの選択肢だ。

 ファックスで原稿を送ってもらえば、原稿は作家の手許に残るから、少なくとも生原稿の紛失は避けられる。ワープロで書いた原稿をフロッピーに複製して送ってもらえば、オリジナルは作家のもとに残る。さらにインターネットで原稿を送ってもらえれば、オリジナルが作家のもとに残る。あるいは、保存はネット上に作ったフォルダで行うことにして、編集者は好きな時にそれを引き出すようにする。このようにしていけば、原稿紛失を防ぐ、第二第三第四の手を打っておける。

 情報を一箇所にとどめないことで、敵国に攻撃されて国家機能が麻痺するのを防ぐ。インターネットはそのような発想から生まれたという。原稿紛失を防ぐ手だても、これと似ている。何やら大げさな話だが、インターネットの特徴に頼ろうとしたら、国家の発想も個人の発想も同じようなところに落ち着くのだろう。国の原稿がなくなったら困る、インターネット誕生の背景が、そこにあったのだから。しかし、コンピュータだから絶対に安心ということはない。むしろ、コンピュータだから、絶対ではない。それは肝に命じておかなければならない。大量のデータをコンピュータに預けておくなんて、何と恐いことか。中身が機密文書であろうと個人的なメモであろうと同じである。

 それにしても、私の原稿、二十枚……。

 「そのキーを叩け!」を書き続けることは、なかなかたいへんだ。楽に書けるとは思っていなかったが、たいへんさの理由のひとつは、制約にそって書いているからである。

 私は基本的に、わかる人にしかわからない原稿は書きたくない。例えば、ウィンドウズ・マシンを使っていて、マックには触れたことがないという人にも読んでもらえる原稿にしたいと思っている。そんなことは理想論かもしれない。マッキントッシュ、マックという言葉が頻出すれば、ウィンドウズ・ファンの人は生理的な嫌悪感を抱いて当然かもしれない。しかし、マックを使っている人にしかわからない用語は避けたい。使わざるをえない場合でも、文章の前後を吟味してもらえればわかるものにしたいのである。

 何でもそうだろう。小説など、読者には未知の物語が展開されるのに、全体を読めば分かるようにできている。「そのキーを叩け!」は小説ではないが、全体を読んでもらえれば、マックを使ったことのない人にも、パソコンに興味のない人にも理解できるはずだ。理想かもしれないが、志はそこにある。私が書きたいのは、つまるところ、マック論にとどまらないからだ。

 パワーブックG3を購入して以来、マッキントッシュに向かう姿勢に変化が現れている。それは他人から見ての変化ではない。私が自分自身に感じる変化だ。

 いわゆるオールドマックに対し、以前ほど熱心に向きあえなくなった。以前ほどといっても、G3購入前だから、たかだか二、三週間前にくらべてということ。

 朝起きると必ずインターネットのフリーマーケットにアクセスして、中古マック情報を確認していた。

 風呂に入ったりトイレに入る時は、何種類も持っている雑誌のオールドマック特集を手にしていた。

 ほとんど毎日といっていいくらい、秋葉原に通って中古のマック屋をのぞき、何かを買っていた。

 ところが、そうした日課が崩れてしまっている。フリーマーケットにアクセスしても、珍しいものがあったら逃さないぞという熱意はない。オールドマック特集号も時折手にするだけ。秋葉原へ行かなくても、気持ちの乾きは感じない。

 先に書いてしまうと、この気持ちはいずれまた、変わるだろうと思う。

 いずれ遠くない時期、オールドマックに対し、G3購入前と同じか、それ以上の熱心さで向かう日が再び来るに違いない。来ないかもしれないが、可能性はある。

 マックに関してだけではなく、何ものに向かう場合も同じである。波があるし、浮き沈みがある。ついたり離れたり。熱くなったり冷めたり。盛り上がったり落ちこんだり。

 だから客観的に、今はこういう状態なんだと見つめればいい。しかし、それにしても、目の前の変化には違いない。

 約十か月前、所有していた二十数台のマックのほとんどを売った。手元に残ったのは、五台。売却の理由は、金銭的なものである。家賃の支払いが滞りそうになったら、自分の財産を売るしかあるまい。その時は、これで当分、オールドマックというだけでなく、マックそのものを買い足すことはあるまいと思っていた。ところが、それから十か月が経ってみると、私はパワーブックG3に至る二十数台のマックを買い、計三十二台のマックを持っている。つまり、ここ十か月の間、私の前に約五十台のマックが現われたということ。この数字には、われながら呆れざるを得ない。十台になった、二十台になったと、途中までは他人に伝えることが楽しかったが、さすがに今は、所有台数を口にする気になれない。恥ずかしくもあり、ばかばかしくもある。

 オールドマックに対し、一日のうち、一度も手を伸ばさない日がある。かつては、マックを分解したり組み立てたり開けたり、システムを入れたり入れ直したりしていたというのに。

 パワーブックの100シリーズや、fx、Quadra700などの名前を聞くと胸をときめかせたものだが、その重要さをわかっていながら、それらを見つめる目は、今や冷静である。

 かつては、すべてのオールドマックを机の上に並べて、スイッチやキーを押せば、いつでも起動できるようにしてあったのに。

 気分屋なのかもしれない。自分に正直に生きているつもりだが、ここに書いたようなことを他人が判断すれば、気分屋ということになろう。しかし、三十二台のマックを所有していく過程で、私はこの原稿、「そのキーを叩け!」を書き始めた。無駄ではなかったと思っている。

 何といっても、今の私はG3を使わなければならない。G3は仕事場に置いてある。自宅でメインマシンにしているのは、パワーブック3400c。2台の環境を、ほぼ同じに整えなければならない。これは簡単なようで、なかなかやっかいだ。複数のマックを持っている人にはわかってもらえるだろう。一定の時間以上、一定の密度以上の作業をしなければ、複数のマックの環境を、同じレベルに持っていけない。辞書に登録してある単語、電子メールを送る相手のアドレス、作業用のアプリケーションや追加した機能など、大小の違いがさまざまある。

 仕事場に行くたびに3400を携帯し、G3との間の違いをなくすように努めている。3400で使えても、G3では使えないアプリケーションがある。その逆もしかり。それが、こと原稿書きに関するものだと、軽視できない。最新のメインマシンに合わせて、愛用してきた道具を捨てることになる。無念だが、どうしようもない。

 プログラムだけでなく、本体に接続する周辺機器でも、このような問題は起こっている。どんなに便利な機器でも、マックにつなげられなければ宝の持ち腐れとなる。使い慣れたものに固執する限りは、最新マシンを使えないということになる。最新マシンを使いたければ、新しい機器を買わなければならなくなる。その結果、また出費が増える。道具が進歩するにつれ、どこにでも起きる問題といえばいえようが……。

 このように、G3を使い始めて直面した問題は多いが、それと並行して3400を持ち歩く機会が増えたことは、私にとって、収穫といえるかもしれない。

 3400といえば、これまでに発売されたパワーブックの中で、最も重い部類に属するマシンだ。途中で電池切れになるのを恐れ、予備のバッテリーを携帯するから、鞄の中はなお重くなる。腕に来て、腰に来て、最後は頭に来る。それでも、G3を生かさなければという思いが、私をして3400を持ち運ばせる。その結果、3400は家でも仕事場でも使われるということになる。

 一九九七年に発売された3400は、自宅のメインマシンだった、パワーブック190csの後を継ぐものとして購入したのである。そのころの190は、何の故障もなく働いてくれていた。一九九五年の購入以来、ほとんどトラブルを経験していない。にもかかわらず、どうして3400を買ったのか。おそらくは、先日、G3を買ったことに似た衝動が、私を後押ししたのである。3400は、私が初めて買う、パワーマックといわれる高速処理マシンであり、フロッピードライブもCD?ROMドライブも内蔵でき、映像処理でも音声処理でも、ひととおりの拡張機能を備えている。その上で、持ち運びができるということ。その点が魅力だった。

 しかし、だからこそ、私は3400を、初めのころは、なかなか持ち運べなかった。高価なマシンだけに、壊すのが恐ろしい。いずれ書かなければならないと思っているが、私は過去に二度、パワーブックを地面に落下させて壊している。具体的にいえば、それはパワーブック150であり、さほど高価なマシンではなかったが、値段の高い低いにかかわらず、愛用するマシンが壊れるのは辛い。3400は自宅から決して表に持ち出さず、ノート型ではあるものの、デスクトップマシンにしてしまおうと思った。三キロ台の半ばに達する重量も、気軽に携帯させなかった理由である。

 その3400を、私は平気で持ち運べるようになった。一九九九年、190が完全に駄目になる。喫茶店などで長時間の仕事をしようと思えば、3400を使うしかなくなっていた。そこに、今回のG3購入である。これから使いこまなければならないマシンは、私にとってG3だ。それにくらべれば、購入した金額分はじゅうぶん使ったといえる3400は、若干、気楽なマシンである。確かに、重いことは重い。しかし、それを我慢して使うということは、3400に対する、具体的な愛情表現になろう。片方に、まったく使われない多くのオールドマックがあることを思えば、それまでデスクトップマシンと位置づけられていた3400を外に運び出し、仕事場と自宅を往復させ、喫茶店でもファストフードショップでも使うようになったことには、正直いって嬉しい。

 しかし……。これはあくまでもG3と3400に関する話。これらはまだ、オールドマックと呼べるものではない。私が所有する、掛け値なしのオールドマックたち二十数台は、仕事部屋の本箱につっこまれたり、積み上げられたりして、眠っている。

 もったいない? 確かにもったいない。フル活動させるための準備は、私なりに整えてあるのに。

 時間さえあれば、一九八八年当時に発表された、システムの漢字Talk2・0であろうと、アプリケーションのHyperCard(ハイパーカード)1・0であろうと使ってみせる。

 秋葉原へ行ってビデオカードさえ入手すれば、三台目のfxを、すぐさま所有マシンと認定できるよう、整備するだろう。

 書きかけのままQuadra700の中で眠っている小説を、縦型モノクロ表示のディスプレイ、ポートレイトを使って完成させてもいい。

 さらに、パワーブック100シリーズの部品が段ボール箱からあふれそうになっているが、足りない部品を補いつつ組み立てていけば、あと二?三台は数を増やすことができるだろうと思う。

 多くのことが、ストップしたままになっている。しかし、ストップしても私は生きている。ということは、すなわちオールドマックに関わることが、余暇で行われていたということの証拠になるだろうか。余暇とはいわずとも、切羽詰まったものではなかったということ。

 この事実は情けない。将来、何かの変化があるとしても、マックに関する部分で余暇と認めざるをえない点があるということは、非常に辛い。

 本来、余暇は嫌いである。例えば、履歴書にある趣味の欄などは、空白にしてしまいたいのである。

 私は毎日を着物で過ごしているが、どうして着物を着ているのですか? 趣味ですか? などと問われると、虫酸が走る。趣味で着るほどの余裕はない。私は着物を着ると決めて、洋服の類はすべて処分した。余った力で着物を着たくないからだ。着物が着られないとなると、私は裸で人前に出るしかない。それしかないというところで着物を着たい。着物に限らず何ごとも為していきたい。だからマックも……。

 いや、マックというだけではなく、マックで文章を書くということを、私は余裕などないところで行いたいと思っている。そのために買い集めた三十二台のマッキントッシュなのである。そのほとんどが動いていないという事実は、切羽詰まって原稿に向かっていない証拠だ。

 アップル社製のコンピュータ、一九八四年以降ならマッキントッシュが日本に輸入されはじめたころ。生活費を削ってまで、高価なマシンを購入した人々がいた。手狭なアパートなのに、コンピュータだけは高級スポーツ車並みのマシンを持っている人々がいた。彼らは、生きることと、コンピュータを使うことを合致させた。余裕のないところでコンピュータを使おうとした。

 彼らがいなくても、パソコンは日本で普及しただろう。iMacやiBookが登場して、パソコンは大衆的な広がりを見せただろう。しかし、パソコン、とりわけマックの普及には、そのように他を削るだけ削ってマックに打ちこんだ人がいたからだと思いたい。

 当時のコンピュータは、それが彼らの生活を経済的に潤すとか、目の前の仕事につながるとか、インターネット時代にやがては対応するとか、そのような目算をもたらしてくれるものではなかったはず。パンと水で胃袋をごまかしながら、コンピュータを使う。まさに、物好きの道楽としか映らなかった。しかし、そのような人々がいたからこそ、マッキントッシュが日本でこれほど支持されるようになった、その下地を作ったのは彼らなのだと思われてならない。

 矛盾した言い方かもしれないが、仕事に結びつかなくても、マックには生きることに結びつくと、人をして思わせる要素がある。機能一辺倒に走らない、デザインのすばらしさがある。今ではOSと呼ばれる、使う人に優しいシステムの魅力がある。あるいは前に書いた、アラン・ケイいうところの理想のコンピュータ、ダイナブックに近づこうとする、信条がある。私はアメリカ嫌いだし、コンピュータ・マニアではないし、新製品を次々に買うほどのお金はない。それでも、マックは好きだといってはばからない。マックを使うことが生きることにつながるということに、何の疑問も持っていない。他のパソコンでは原稿を書きたくないのだ。申し訳ないが。

 マックの場合、優れている点が魅力なのはもちろんだが、実は欠点さえも魅力なのである。言い方を変えれば、欠点があるからといって、見放そうと思わないのである。欠点など誰にでもある。他人のあら探しをする、自分自身こそ欠点だらけだ。それでもつきあえる人こそが、本当の友人であり、恋人なのではないのか? 自分の欠点が目につくからといって安易に自殺してしまわないのが人間ではないのか?

 この原稿を清書している前日、六月九日、パワーブックG3のシステムがおかしくなり、ハードディスクを初期化した。機能の相性が悪いらしい。まったく、手間がかかる。仕事が手につかなくて心身が麻痺した。しかしこんなこと、誰にでもある話だ。経験値が増えたと思えばどうということはないのである。

■7

「そのキーを叩け!」

 三度目の書き直しを求められ、やっと完成させて原稿をメールで送った時、時計の針は午前二時半を回っていた。その原稿が編集者の眼鏡にかなったかどうかの返事は、ちょうど十二時間経った今、まだない。ということは、もう一度、書き直してほしいといわれる可能性があるということ。落ち着かないまま、「そのキーを叩け!」に向かっている。

 数年前から、ある雑誌で本紹介記事を担当している。書評ではない。紹介である。書き手が責任をもって、自分の名前で原稿を書く。そんな署名記事としての書評欄は、雑誌一ページの上半分を占める、目立つもの。一人の書き手が一冊の本を取り上げるのである。しかし、私が書く紹介記事は、ページの下半分に位置して、四冊をまとめて取り上げるというものだ。一冊に費やせる分量は三百字程度でしかない。私の名前は記されているが、ほんの片隅に、欧文で小さく読めるだけ。担当編集者は、これまで七、八人も変わっただろうか。しかしその間、書き手である私は変わっていない。

 書き直しを求められたのは、四冊のうち、二冊についての原稿である。二冊分の原稿が、どうしても編集者の気に入らない。いつもなら、三度も書き直しを求められることなどないのである。一、二度というのはあるが、三度はない。三百字程度の原稿、私も早く手放してしまいたいし、それは編集者も同じだろう。原稿の長短に差別があるわけではない。短くても原稿の価値に変わりはない。しかし、短いものから片づけていこうと思うのは、人間の心理として当然だ。それなのに、書き始めてから十二時間のうちに、三度も原稿を書かねばならなかった。そして、最後の原稿でいいかどうかの返事が、その後十二時間を経過してももたらされていないということ。計六百字の原稿に二十四時間かけて完了させられないとはどうしたことか。

 正直にいおう。書き直しを求められた原稿の本二冊について、私は共感を持てなかった。おもしろくなかったし、自分にとって、しっくり来る性質の本ではなかった。その気持ちが原稿にも出たのか。間違いのないように書いたつもりだが、間違いがないだけではいけない。一歩踏みこんで、原稿としてのおもしろさがなくてはならない。その点は心がけた。しかし編集者にとって、おもしろさは、なかったのである。

 再度、三度、検討をしなければならなかった二冊のうちの一冊は、著名出版社が運営する、名高い作家の名を冠せられた文学賞を受けたばかりのものである。作家は三十八歳。当然、これから先、現代日本文学を背負って立つ存在となるだろうし、それを期待されての受賞なのである。書き直しを求める編集者のメールには、その本が自分にとっていかにおもしろかったか、私見が添えられていた。私はその意見に、同意することができなかった。文体が私にとって、すんなり入りこめるたぐいのものではなかったのである。私はまず、文章はわかりやすいものでなければならないと考える。もちろん、書き手の個性ということはあるが、一文の中にこめられた装飾性が、私の感覚では過剰なのだった。しかし、作者にとって、それは必要な、文章の形なのである。彼は、自分の文章はこうでなければならないと、確信をもって書いた。だが、私にはそれが、必要なものと思われなかったということ。え? こういう文章のものでも、文学賞を受けられるのかという驚きすら感じた。

 二十数年前、新時代の担い手とされた作家が賞を受けた時、そのような作品が評価されるなら、もはや私の出る幕はないといって、審査員を辞退した作家がいた。それほど強いものではないが、私もこの本について、似た気持ちを抱いたことは確かだ。私が小説を書くとしても、こんなものはとても書かないだろうと思った。しかし、このような作品でないと、賞は取れないのかとも思った。そしてその本を、編集者のようにおもしろいと思う人がいる。これが新しいのだとしたら、私の書こうとするものなど、古くてお話にならないのではないか? 〃そのキーを叩け!〃などといっているが、キーを叩いて生まれるものは、人々が読むに足るものとなっていないのではないか。

 どうにかこうにか書いた三度目の原稿を、果たして編集者は気に入ってくれているのだろうか。署名による書評なら、書き手の責任において何を書いてもいいが、紹介記事の場合、それは雑誌の意見とみなされるだろうから、編集者の希望する方向で書かなければ……、そうとも限らないかもしれないが、私はそう思っている。だからこそ、とりあえずは自分の意見を書くが、書き直しを求められたら、編集者の希望を尊重する。そう思うからこそ、自分の好みに合わない作品について原稿を書かなければならない時は辛いのだ。どうして他人の本について苦労しなければならないのか。他人の本について書く時間があるのなら、自分の原稿を書かなければならないのではないか。雑誌のスポークスマンとしての苦労など、できるなら願い下げにしたい……このような態度もまた、いけないのだろう。

 私の中には、次のような恐怖が消えてなくならない。書き直しを求められているうち、私には力が足りないと判断されて、本紹介記事の担当を降ろされるのではないかということ。ただでさえ仕事が少ない、ということは収入も少ないのに、これ以上仕事を減らされたらどうなるのか。他人には何の関係もない話だが、仕事が減るのは怖い。結局、他人から与えられる仕事に頼っているからいけない。自分から仕事を作り出して、それを相手が買いに来るようにならなければ、腰を据えた作品作りなどできるわけがない。いつまでも、他人の顔色をうかがいながらする仕事しかできない。どうせ苦労するのなら、おのれはどのような作品を創るべきかという方向で苦労しなければなるまい。

 このようなことを、私のマック、それも現在のメインマシンであるパワーブックG3は、すべて知っている。G3だけではない。私がキーを叩いて原稿を書くのに使ってきたマシンたちは、皆、私の思いをまともに受け止めている。少ないながら、二冊の本が、キーを叩くことで書き上げられた。それを思えば、マシンの存在は軽くない。さらに、本の紹介記事であれ何であれ、それを書くことで私は二十年近くの生を維持してきたのだから、それらのマシンには、一人の人間を生かすだけの力があったということにもなる。

 ……やはり、四度目の書き直しがあった。深夜にメールを確認したら、もう一度直して欲しいという要望が届いていた。恐ろしいことである。しかも、接続不調をしばしば起こすプロバイダ、B社の回線が、またもやおかしくなっているではないか。仕方なく、予備に契約したN社の回線を使わざるをえない。原稿書きに集中したい時に、インターネット接続にも神経を使わなければならないとは。悪い時には悪いことが重なるものである。

 マックを使うようになる前。私は喫茶店で、原稿用紙に向かって原稿を書くのが好きだった。

 ノートに向い、原稿用紙に向かい、何もない時は文庫本の余白や、紙ナプキンに細かな文字を書きこんでいく。事情を知らない人は、喫茶店などうるさくて仕事にならないでしょうという。逆なのだ。人がおおぜいいればいるほど原稿ははかどる。書くことさえ決まっていれば、バスの中も書斎になる。かえって集中力が高まるのだろうか。そのかわり、書くことがなければどんな静かな環境でも書けない。他に誰もいない仕事部屋で机に向かっていても、そこは昼寝の場所となる。

 新宿のミニシアター。そこは芝居も行えば映画の上映会も行う、多くの若者を引きつけた場所だった。下宿が近所だったせいで、私もまた、しばしば通った。興味のある映画監督の特集上映会が行われようものなら、毎日でも行く。そして映画が終った後は、決まって近くの喫茶店に入り、その日の感想をノートに書きつけた。学生の身分である。書いたものをどこかの雑誌に発表しようという気持ちなどない。いや、今にして思えば、投稿するという手はあった。映画欄の常連投稿者という若者がいるではないか。そのようにして批評家や評論家になった人が少なからずいることだろう。しかし私にそんな発想はなく、ただひたすら、自分のために、ノートしていったのだ。

 大学の一年生だったころ。私は池袋のデパートで、書籍売り場に設けられたガラス張りの喫茶店で原稿用紙に向っていた。外からは丸見えである。ひたすら原稿用紙に文字を書きつける私。そこに通りかかった、小学校高学年くらいの男の子が、何やら冷やかしの視線で、にやにや笑いながら私を見つめていた。何を気取っているんだ、あるいは、何カッコつけてやがる、そんな気持ちだったろうか。

 実際には、そのころの私に、どうしても書かなければならない、せっぱ詰まった内容など、なかったと思う。男の子にばかにされても仕方なかったわけだ。私も何となくばつの悪い思いをした。それでも----、私は書かなければならなかった。内容ではない。行為を、続けなければならなかった。ばかにされてもいいから、書き続けなければならなかった。その時はそんなこと、思っていなかった。私にせっぱつまったものがあったとしたら、それは原稿の中身ではなく、何かを書くという行為、それだけだ。そのようにして、くだらないことでもいいから続けいく。そうするうちに初めて、中身が生まれる。

 自分にも何か書けるのではないかといって、いきなり原稿用紙やパソコンに向っても、それは無理であろうと思う。もちろん、書ける人もいるだろう。止むに止まれぬ気持ちで書いて、賞を取るほどの評価を受ける人もあるだろう。しかし、私にそれはできない。とにかく書き続けているしかない。くだらないと他人の目に映るようなことでも書き続ける。もし賞を受けるということがあるのなら、その行為の延長線上にしかないと思う。そのために、私には、どこにいても書くことに向わせてくれる道具が必要だった。

 私は書き続けた。原稿用紙に向って。

 ミニコミを作るようになってからは、そのための原稿を。芝居をするようになってからは、そのための台本を。ライター仕事を始めたころはまだ原稿用紙が主だったから、テープ起こしや、座談会のまとめや、取材メモの整理など、あらゆることを喫茶店で、一杯か二杯のコーヒーで、延々と続けたのである。

 その途上で----。

 新宿の紀伊國屋書店にあった喫茶店で、寺山修司が原稿を書いているのを見た。

 劇作家の別役実が喫茶店で原稿を書くのが好きだと新聞に書いているのを読んで、私と同じだと、身の程知らずにも思った。

 あるホテルの喫茶室で、ゲラの束に赤鉛筆で校正の筆を入れているファンタジー小説の書き手を見た。

 雑誌やテレビで顔を見かける女性ジャーナリストが、日比谷にあるビルのティーラウンジで、とりつかれたようにペンを走らせている姿を見た。

 あるいは新宿の駅ビル最上階にある喫茶店で、できあがったばかりなのか、原稿用紙の束を、編集者と思しき男性に手渡している、老いた書き手を見た。

 老舗出版社に近い喫茶店で、原稿用紙の束をはさんで、何やら静かに話をしている二人の女性を見た。作家と、編集者だったのか。

 ある映画の中で、赤茶けた陽光が差しこむ異国のレストランに坐った女性作家が、分厚いノートに、紫煙をくゆらせつつ、ペンを走らせているのを見た。

 私はそれら先行する書き手たちを、自分と同じ次元でとらえ、時には私も書いていると思い、時には私も書かなければと思い、時にはうらやましいと嫉妬し、時にはこれから先、原稿を書いて生きていけるのだろうかと不安にかられた。この、最後の不安。これは冒頭に記した、本紹介記事の担当を降ろされるのではという恐怖のように、解消されないまま継続している。二十年来、少しも途切れることがない。おそらく死ぬまで、不安は続くだろう。何かが劇的に変わるなど、とても信じられない。そのように続く精神状態の中で、私はパワーブックに出会う。

 すでに記したように、私は長らくワープロを使っていたため、マックとの出会いは遅い。仕事先で、見よう見まねに使わせてもらい、衆人監視の中で恥をかいたことはあった。その私が初めて自分のマックを買ったのは一九九四年である。それがパワーブック150。買ったのは取材先の京都であった。

 断っておくが、私は150のことを、思い出のようにして語るつもりはまったくない。確かに、G3の登場で本箱にさしこまれたままになっている150ではある。しかし、私は四台の150を所有する。われながら、四台も? と呆れざるを得ないが、その数に、150は現役で使うものという思い入れをこめている。つまり一台が壊れても、私にはまだ三台あると思えるということ。とはいえ、G3ばかり使っていては、150は壊れることすらないという矛盾が生じているのだが……。とにかく、150は私にとって、現役のマシンだ。

 さて、京都に行った時の話である。

 そのころの私は、初めての著作となるはずの原稿に取り組んでいた。後に、『横尾忠則365日の伝説』と名付けられ、新潮社から刊行されることになる。その原稿を書いていた。一九九四年から九五年にかけ、画家・横尾忠則の一年間の行動を追う。創作や想像をまじえず、事実をもとにして原稿を書く、いわゆるドキュメントである。私は横尾忠則の跡を追って、東京都内はもちろん、福岡、松山、新潟、軽井沢、神戸、それにニューオーリンズなどに足を伸ばした。ある雑誌に、私は横尾忠則の本について書いた。書き手がはっきり自分の名前で書く、まぎれもない書評である。たった今、私を苦しめている、紹介文の類ではない。その書評記事が、画家・横尾忠則本人の目に留まり、私は彼と知りあうことができた。そのつきあいの中から、私が書きたいと言い出した、自主的な企画、ドキュメント作りなのである。

 人にはそれぞれ原稿の書き方、作品の作り方があると思う。一人の人間の中にも、書く内容、対象によって、さまざまな執筆の態度があるはずだ。

 私の場合、原稿はとにかく、継続させることで書く。一日数枚ずつ、書いていく。原稿用紙に書くのではない、マックに向かってキーを叩くのだから数枚ずつという言い方はおかしいのだが、つまり四百字でも八百字でも、千字でも二千字でも、とにかく書けるだけの分量を、少しずつ仕上げていく。その結果が、例えば『横尾忠則365日の伝説』なら、五百数十枚の原稿として実を結ぶ。

 画家・横尾忠則の軌跡を追いながら書き続けるという行為は、私にふさわしいものだった。ことが起こっても起こらなくても、毎日毎日、少しずつ筆を進めなければならないのだから。いや、いかなければならないというより、進めていきさえすれば、最後は本一冊分の原稿が仕上がるという期待がある。

 しかしこのような姿勢は、私に限らず、原稿を書こうとする人なら、誰でも同じかもしれない。何もないところから、数日間に五百枚など、書けるはずがない。とにかく毎日毎日書かなければ、原稿そのものが完成しないのだ。

 ある映画俳優のゴーストライターとして、二週間に約三百枚の原稿を書いたことがある。一日に約二十枚ほどの原稿を書く。いうのは簡単だが、それを実際に行うのはたいへんだ。ほとんど椅子から立つということができない。書き終えて数日、私は身をかがめることができなかった。机の下に落ちたものを拾えないのだ。しかし、とにもかくにも、無事に原稿は書き上がり、本は完成した。しかし、そのようなことが短時日で可能だったのは、よく知った分野の映画に関する原稿だったからだ。子供のころから、素人なりに、映画を観て、考えて、書いてきた。資料もそれなりに集めてきたのである。ゴーストライティングをしていた二週間は、とにかく、私の中に蓄積させてきた思い、体験と知識を、すべて注ぎこんだ。おかげで、私の心はからっぽになってしまった。死ぬまでもう二度と、その映画の世界について、書くことはないだろうと思う。ここに書きとめておけば、そのゴーストライティングは、パワーブック3400に先立つメインマシン、190で行ったのである。190が逝ったのは、本が店頭に並んで、しばらく経ってからだった。

 一九九四年、私は『横尾忠則365日の伝説』を書き続けるために、強烈にマックを欲した。デスクトップのワープロは持っていた。プリンタ機能を外付けとし、文書作成だけに用いる携帯用のワープロも持っていた。それらを使って原稿を書いていくことは不可能ではなかった。実際に、私は編集者として、百人一首の解説、鎌倉史跡巡りのガイドブックなどの原稿を、その二種類のワープロを使って書いた。情報誌のための芸能人インタビュー記事、企業の広報誌のための商品記事、タウン誌のための街の案内記事、PR誌のための対談原稿、求人誌のための企業案内、サブカルチャー誌のための映画紹介、美術誌のための展覧会記事など、ありとあらゆる原稿を、私はすでにワープロを使って書いていた。量だけはこなしている。用いる道具も、不慣れなものより、手慣れたものの方が使いよいに決まっている。だから、横尾忠則の本も、そのワープロで書けばいい……。

 いや、一人の人間について書くということは、それほど簡単ではない。

 戦後の日本文化において最も強い存在感を放つ一人、横尾忠則について書くのである。並み大抵の気持ちでは相手に向かっていけない。おまけにその原稿は、私にとって初めての著作となるべきものだ。これまでの延長のような気持では書きたくなかった。どうしても、私自身の内部を変える必要があった。私自身を一段も二段も飛躍させなければ、いや、飛躍というのが大袈裟なら、変身させてしまわなければ、原稿を書き進められなかった。新しい環境に自分自身を置く必要があった。たった今、向き合っているG3だって、私は自分を変えたいと思って買った。人は自分を変えたいと思った時、他人には不必要としか思われないことでもしてしまう。その行為自体が、一種の冒険といえるようなことを。

 横尾忠則の作品が収められている、京都の美術館を訪れた時であった。もう、マックを買うしかない。そんな気持ちが高まっていた。やはり、旅に出ている、自分は日常の空間にいないのだという、たかぶりがあったのだろう。四条河原町を徘徊していた私は、まず電話ボックスに飛びこみ、職業別の電話帳を開いて、例えば東京なら秋葉原にあるような、京都のパソコンショップとはどこなのか探した。寺町通綾小路下ルにある、O店が近いと判明する。さらに本屋に入り、マック関係の雑誌をめくって、私にも買えるマックは何なのかを調べた。そこで候補にあがったのが、パワーブック150であった。

 四階調のグレースケール表示とある。原稿書きにカラーは必要ない。モノクロだから目に優しい、とまあ、これはやせ我慢めいているが、強いカラー表示より目を痛めないことは確かである。ワープロソフトとしてクラリスワークスが付属しているのはありがたい。製品版を購入すれば二?三万円はするはずだ。重量は、約二・五キロ。当時、パワーブックとしてラインナップされていたのは、ブラック・バードというコード・ネームで開発され、デザインの秀逸さで人気の500シリーズ。そして、フロッピードライブなどの拡張部分を本体から分離して軽量化を果たしたDuo(デュオ)シリーズ。そして、150以外はすべて販売が終了していた100シリーズ。この三つであった。重量からいうと、150は、500シリーズとDuoシリーズの、ほぼ中間に位置する。軽いに越したことはないが、他人とデータをやりとりするのに、本体内蔵のフロッピードライブがある方が、何かと便利であろう。

 このような判断に加えて決定的だったのは、150が他のシリーズに比較して、安かったこと。

 この時の記憶は長いこと薄れていたが、ある年の暮れ、大掃除をしていたら、150を買った時の領収書が、封筒に入ったまま出てきた。見ると、私はおよそ十五万円を支払っている。150が発売されて約半年が経過していた時期だ。発売当初は約二十六万円であったというから、すでに十万円ほど値下がりしていたことになる。しかしそれにしても、十五万円……。旅の空で使う金額として、十五万円は安くない。

 得々としていた、のだろうと思う。何しろ初めてマックが自分のものになったのだ。私は150の箱を抱えて寺町を歩き、バスに乗って京都駅に向かった。例えば秋葉原などで、買ったばかりの箱に入ったパソコンを抱えて歩いている人を見ると、いわくいいがたい気分になるものだ。何を買ったか検分してやれという気持ちに続いて、それが自分の持っているマシンより高性能のものなら、若干の嫉妬に見舞われる。自分のマシンより劣るものなら、若干の優越感に見舞われる。こういっては悪いが、それがマックではなくウィンドウズ・マシンなら、そんなものを買ってどうするという気持ちになる。申し訳ないと思う。

 新幹線に乗った私は、さっそく梱包を解き、起動スイッチを入れてシステムのインストールを始めた。え? 新幹線の中でさっそく? 電池は充電ずみだったらしい。それにしても、早まった話である。しかし、私は東京までの二時間が待てなかった。解説書や緩衝材などを床に置いたり膝の上に乗せたり、大わらわになって150とのつきあいを始めた。

 周囲の人は何と思ったか?

 立場が逆だったらすぐにわかること。何をややこしいことしているんだ? 帰ってからにしろ。マックに詳しい人ならこういう具合か。150? そんなもののどこがいいんだ? ビギナーよ、うれしがるのは今のうちだ。親切な人は忠告してくれるだろう。おやめなさい。何が起こるかわかりません。床に落としたらどうするんです。網棚から何かが降ってきて、液晶画面を直撃したら使い物にならなくなりますよ、と。

 しかし、周囲の視線は気にならなかった。とにかく、生まれて初めて手に入れたマックなのである。したいことがあったら、その場ですぐにするがいい。これが私の方針だ。

 今日、iMacあるいはiBookなるものが、かわいいとされている。一時は経営が悪化して、身売り説まで飛び交っていたアップル社が、iMac、iBookの登場以降、完全に持ち直した。それを真似したマシンが発売され、半透明性をいかしたトランスルーセントと呼ばれる仕様は、ウィンドウズ・マシンにも影響を与えた。パーソナル・コンピュータの普及に、iの字がついたマッキントッシュは大きな力を発揮した。しかし、あの時の私にとって、パワーブック150ほどかわいいマシンはなかった。直線を生かした、灰色の武骨な姿。すべり止めとして筐体表面に、スピーカーの窓として画面の真下に、輝度および明度の調整つまみに、それぞれ浮き彫りにされたり刻まれたりした長短の線。何やらエロティシズムに似た快感を刺激する、指先で転がす直径三十ミリのトラックボール。そして持ち上げたときの、ずっしりとした手ごたえ。これらのことをかわいいと、通常は表現しないであろう。しかし、自分にとって愛しいものなら、それがスマートであれ武骨であれ、かわいいいといってさしつかえはないはず。念のため、『広辞苑』第4版をひいてみた。かわいいの第一義として、いたわしい、不憫だ、かわいそうだ、とある。第二義が、深い愛情を感じる、など。第三義が、小さくて美しい。初めて手に入れたマッキントッシュ、パワーブック150。かわいいという言葉が持つ、すべての意味に当てはまったマシンだ。

■8

「そのキーを叩け!」

 人はおそらく、死ぬまでの旅をしているのだろう。東西南北、ありとあらゆる場所へ移動するのが旅である。距離の長短、環境の大きな差異。そのようなものを求めて移動することも旅である。その過程で、死ぬほどの目にあうこともある。しばしば、旅先で難事に巻きこまれて死んでしまう人がある。酷な言い方だが、それは旅の大前提なのだ。たった今、暮らしている環境だって、絶対に安全とはいえない。いつ何時、強盗が押しかけてくるかもしれないし、大地震が起きるかもしれない。それが、文化も歴史も、政治や経済の状況もまったく違うところに行こうとするのだ。安全なはずがないのである。死んでも仕方ないとはいわないが、死ぬこともあるという前提で、旅には出かけなければならない。旅行業者も、死ぬことがありますという前提で、人を集めなければならない。事故が起きてから、その国の治安の悪さのせいにしたり、自分たちには情報がなかったというのはおかしい。例えば東京から日光に行くツァーを組む。その程度の旅だって危ないのである。電車が脱線しないといいきれるか、バスが追突されないといいきれるか、自然状況の激変によって山中に閉じこめられないと誰がいいきれるか。死と隣り合わせの移動。それがすべての旅だ。

 しかし、具体的にどこかへ行くのだけが旅ではなく、居場所を定めてほとんど動かず、人生を過ごしたとしても、それは旅である。生まれた時が旅の始まり。死ぬ時が旅の終わり。人生論に似たくさみがあるが、正直に、そう思っている。ロード・ムービーと呼ばれる映画、蔵原惟繕監督の『憎いあンちくしょう』(62)、デニス・ホッパー監督の『イージー・ライダー』(69)、ジョン・シュレジンジャー監督の『真夜中のカーボーイ』(69)などで、旅する人の姿を見た私たちは、そこに、登場人物はもちろん、観客である私たち自身の人生を重ね合わせるはずだ。

 旅の過程で何をするか。それが、問われる。もちろん、何もしなくていい。地位を築こうとか財産を蓄えようとか、そんなものはごめんである。何もしていないとか何もできないなどという言い方があるが、人は何かしているから生きていられる。息も吸わず、食事も摂らずに生きている人がいるだろうか? どのように息をするか、どのように食事を摂るか。これだけでも人としての、立派な行為だ。

 それを前提として考えた時、たった今、私の目の前にいない、パワーブックの運命を考えると、胸が痛む。この原稿の、この部分を、私は四谷にある行きつけの喫茶店で、パワーブック3400cを使って書いている。それはまことに充実した時間である。しかし、まったく同じ場所で、パワーブック190CSを使って原稿を書いていた時があったのだ。いや、時があったなどというどころではない。すでに書いたとおり、パワーブック150を使って、私は初めての著作となる、『横尾忠則365日の伝説』を書いた。そして二冊目となる、『伊福部昭・音楽家の誕生』を、190を使って書いたのだ。三冊目が出ていないということは、現在のメインマシン、3400は、まだ本を生んでいないということ。一冊分の原稿は書いてあるが、本にならないと話にならない。その意味で、3400にいい仕事をさせてあげたいと思っている。しかし今の私の力不足で、マシンの働きに報いることができないでいる。G3には? 待ってほしい。

 とにかく、190は私を生かしてくれた。原稿を書き、旅の友となってくれていた。その190は今、どこでどうしているのか? それほど重要な190を、私という人間の馬鹿めは、売り払ってしまった。

 愚かである。たった一度、動かなくなったばかりに。基盤、ロジックボードが駄目になってしまったばかりに。いったん失ったものを取り返すのは至難。また買えばいいと思っていても、果たして今の私にそれが最優先で必要かどうかを考え出すと、いつまで経っても手に入れられない。当然だろう。3400に加えてG3まであって、その二年月賦がまだ当分残っているというのに、どうして190が必要なのか。未練である。未練に金はかけられぬ。しかし、売らなければ、こんな思いもしなくてすんだ。寝たきり同然、ミイラ同然の状態になっても、手元に置いておけば、復活の機会だってうかがえたかもしれないではないか。

 人でも獣でも、死んだらもう、何の感じもなくなってしまう。それどころか、こちらの生気を吸い取って、死の世界に引きずりこんでしまいそうな気さえする。パワーブック190も同じであった。ハードディスクが2度ほど駄目になったことがあるが、その時には、死に近い感じはしなかった。けがをしたとか、気を失ったとか、その程度である。メモリを入れ替えたり、キーボードを交換したり、赤外線で通信するためのパーツを組みこんだり、クリックボタンなど痛んだパーツを交換したり、そのたびに分解し、バラバラにしたものだが、人間でいうと手術にあたるそのような時も、190は麻酔を打たれて意識がないというくらいの感じだった。決して死んだとは思われなかった。

 思い起こせば、マシンを分解しながら自分の思いをこめていくという体験は、190を手に入れて以降である。それまでは、パソコンに限らず、機械の中身に手をつけるとうことを、不純とすら感じていた。つまり、そのマシンは、そのような姿で人の前に現れているのだから、素のままの魅力を味わうべき、という思いこみ。

 化粧は嫌いである。なぜ髪を染めなければならないかもわからない。白髪を染めるならまだしも、茶髪、その他には、どうも納得が行かない。やむをえない場合があることは知っているが、整形手術ということも、基本的には嫌いである。ボディビルも嫌いかもしれない。痩せていても太っていても、そのままで過ごしたい。無論、何かをした結果として、身体が変化していくのはいい。先日、父の長兄が亡くなった。農家の長であった。この人の手が、大きくて分厚いものだった。私は子供の時、その人の手を見て、自分の手のか細さを恥じた。大きく分厚い手をうらやましいと思った。小学生ごときが大人の手を見て自分と比べること自体おかしいし、無用なのだが、とにかく私もそのような手になりたいと思い、指の関節をぼきぼきと鳴らし始めた。そうすると、関節が太くなるときかされていたからだ。その結果、関節は太くなったが、手の厚さは、たいしたことがないままである。いや、関節が太くなったのだって、ぼきぼき鳴らした結果かどうかはわからない。私の遺伝子に、そうなる情報が入っていただけかもしれない。

 とにかく、私は何かをした結果として、変わるのはいいが、わざわざ手をつけてまで変えるのはよくないことと思っていた。私が指が太くなることを願い、関節を鳴らしたのと同様の、コンプレックスの現れと感じるのである。

 しかし、私は190を分解してみることで、何かに手をつけるということのおもしろさを知った。壊れたら分解して治すより仕方ない。長く使い続けるために、その物を生かし続けるために。その過程で、物に対する愛情が生まれてくるし、知識も生まれてくる。医者なる職業の人々が、患者の身体を診ることで、人間というもの全般に愛情を抱いているかどうか、私は知らない。どうも、そうとは思われない医者が多いのだが、一般的にいって、対象に向かう愛情は、対象を知ることで、増すであろう。私は190の中身を隅々まで知ることによって、190を愛していった。

 ところがある日突然、190の手ごたえがなくなった。何もしていないのに、冷たくなってしまった。人でいうなら、叩いてもつねっても駄目。どうにも手の施しようが無くなったという感じがはっきりとした。ただの物、ただの箱、ただの、何か。あ、これは死んだなという直感を抱かざるをえなかった。

 私は190を生かし続けるために、あらゆる部分の交換用パーツや、持ち運びのためのバッテリーを数個、それに接続したり組みこんだりして使う周辺機器をそろえていた。もちろん、その時点の手持ちパーツでは、190はよみがえらない。それははっきりしている。しかし、そのようにさまざまなものをそろえる努力をしていたのに、どうしてもう一歩ねばって、再生の努力を払おうとせず、十把一からげのようにして売ってしまったのだろう。一時的に金に困っているというだけの理由で、手放すもののリストに加えたのか。他人の交わりではない。身内である。実に、誠というもののない仕打ちといわざるをえない。むごい。190が、一度でも私を裏切ったことがあったか? 大きめの紙袋いっぱいに入った、190本体とパーツの数々。それを買い手は、まとめて一万円で買った。彼には何の責任もない。責められるべきは私である。

 190が発売されたのは、一九九五(平成)年の十一月。私は年が明けてしばらくしてから買ったはずだ。秋葉原のT店で、払った金額は約十八万円。一回では払えないから二回の分割払いにした。……こう書きながら、ある、心の痛みが沸き起こってくる。

 190は、百番代の数字がつけられたマシンだが、私が思い入れを持つ、パワーブック100、140、170の発表に始まり、150に至った、十ほどの種類がある100シリーズとは一線を画す。190は、その数か月前に発売された、高速の処理能力を持つパワーブック、5300の廉価版である。しかし、その後、私は5300を使ってみたことがあるが、190に比べて、とりたててすばらしいとは思わなかった。5300にはモノクロを含め、表示能力によって四種類のタイプがある。あざやかさにおいて190に勝るマシンはある。しかし、原稿書きにおいては、私は190でじゅうぶんだった。……だんだんと、心の痛みは大きくなってくる。強く、重い痛みが、私を圧迫する。

 190の、黒く、渋く光る筐体。トラックボールは、前の500シリーズ以降、トラックパッドに取って代わられている。インターネット通信などの機能は、PCカードを挿入すれば拡張できる。フロッピードライブを取り外し、より大きな容量の記憶装置であるMOドライブを装着することも可能だった。……苦しい。いったいどうして私は、190を買ったのであったか。150が使えなくなったから、なのでは……?

 当時、私の机の上には、パフォーマ630が載っていた。処理速度は速くないものの、テキスト処理には何の不足もないマシンだ。それを一方に置いて、私は190を買おうとしたのである。持ち運ぶため。外出して原稿を書きたいがため。すなわち、旅の友としたいため。期待通り、190はそれから数年、外出先での原稿書きに力を発揮してくれた。『伊福部昭・音楽家の誕生』完成に、190が果たした力は大きかった。それはいい。そうなるのが当然なのだ。では私は、それまで外で原稿を書こうとする時、何を使っていたのか? どうしていたのか? 初めて買ったパワーブックだと、京都から東京へ向かう新幹線の車中で鼻高々だった150は、どうしたのか? なぜ先に、190の話を始めているのか?

 むごい男である、私という人間は。何の罪もない190を売ってしまうような男だ。動かなくなったといって売り払ってしまうことはない。ロジックボードが壊れてしまったのなら、それを買う努力をすればいいではないか。つい先日、二〇〇〇年のゴールデンウィーク中のことだが、秋葉原の中古ショップで、190のロジックボードを一九八〇円が、何枚も売られていた。それは安すぎる値段だが、機会さえうかがっていれば、ロジックボードなど、いつの日にか買えたのではないか。190を手元に置いておけば、再び前と変わらぬ調子で原稿を書けたであろうに。

 190はそれに先立つパワーブック、150に替わるものであった。150が使えるのに190を買ったのではなく、150が使えなくなったから、190を買った。ここでも私は150を見放している。

 冬の、凍てつく札幌。凍結した路面。滑る足下。落下する鞄。破損する液晶……。

 氷雨の煙る池袋。駅の公衆電話。肩にかけた鞄。はずれる紐。落下する鞄。破損する液晶……。

 何をしているのだ。二度? 本当に二度なのか? 今となっては愚かな男と、笑うしかなくなっている。そうしたあげくに190を買ったのだとしたら、190が壊れた時、まったく無反省に売り払ってしまうという行為も納得できるというもの。つまり、思い入れのありそうな顔をして、私はそのマシンを愛したのだなどと唱えながら、その実、思い入れも愛情もなく、壊れた、使えないとみなすや、さっさと売り払ってしまう。おまけに二度も、同じマシンを、同じような過ちから使い物にならなくしている。

 さあ、手っ取り早く懺悔してしまうがいい。一部始終を語ってしまうがいい。150と行を共にした、旅のすべてを。

 思い出す。150を買って、およそ一年が経ったころであったろうか。仕事場にしている早稲田の喫茶店で、窓辺の席にすわって仕事をしていた。そこでふと、思ってしまったのだ。そろそろ、買い替えてもいいな。もう、150はじゅうぶんに使った----。

 実際には、じゅうぶんどころではない。たった一年で何がわかろう。私は150を心の底から味わったわけではなかった。私はマッキントッシュの魅力を真に味わったわけではなかった。現に、買い替えてもいいなどと思っているではないか。本当の魅力を味わって、それがいいと思ったのなら、そのようなこと思うはずがない。浅はかな使い方しかしていないから手放していいと思うのだ。快調に使いながら、買い替えようと思う? なぜだ。調子がおかしくなったというのならわかるが、快調なマシンのキーを叩きながら、よくもそんなことを思えるもの。

 マッキントッシュの世界には、よくいわれる現象がある。新しいマシンに買い替えようと思った時、手元のマシンは嫉妬して壊れてしまう、と。まさかそんなことがと、誰しも思う。私だってそうだ。そのような言い伝えは承知していたが、そんなもの、科学的根拠のない、お遊びの伝説だと思っていた。私は150を平気で持ち歩いていた。新幹線に持ちこんで、膝の上ではなく、座席に取り付けられた折り畳み式の台に乗せ、キーを叩いていた。前の座席に座った人が、椅子を倒してくると、画面が圧迫される。それでも平気。前の席を睨みつけておしまい。トイレに立つ時はさすがに鞄にしまったが、私がバランスを崩したため、150が椅子の上に放り出されたことがある。それでも、平気だった。私の150はそんなにやわじゃないなどと、何の根拠もない、無知ゆえの強がりを心の中でほざいていた。マック関係の雑誌で、しばしば他人の失敗談を読む。公園でパワーブックを開いていた時、風が吹いて噴水の水を浴び、使い物にならなくなったとか。駅のホームで休んでいた時、パワーブックの入った鞄を手すりに乗せていたところ、手が滑って鞄を落下させてしまったとか。まさかそのようなことが、我が身に降りかかろうとは思っていなかった。

 どうしてあの時、150を買い替えてもいいと思ったのか。私にはわかっている。私が浅はかなビギナーだったからだ。想像力のない、初心者だったからだ。雑誌などがしきりに書く、新製品、新技術についての情報。それらに踊らされ、新しいものを自分も使ってみたい、使えるのではないかと思ってしまう。使えないもの、使わないものを手にしたって仕方あるまい。身の程を知り、自分には自分なりの使い方を、定めてしまえばいい。それを前提に、性能と使い道を上積みしたいと本当に思った時に、新しいマシンを買えばいいのである。もちろん、雑誌に責任はない。マックなりパソコンの世界なりが、どのように展開しているのか、その動向を伝えるのは彼らの使命だ。何も伝えなくなったら、彼らはするべきことを怠っている。オールドマックの情報など、載せても仕方あるまい。それは雑誌に教わらなくても、好きな人が自分で見つけてくる。情報は、マック関係に限らず、世の中にあふれかえっている。その何をすくいとってわが物とするか。それは、私たちの態度にかかっている。とにかく、私の150には、何の問題もなかった。今から思えば、まだまだこれからというところであったろう。

 ----一九九五年の冬、私は札幌へ取材に出かけた。『伊福部昭・音楽家の誕生』として進行中の原稿のためである。伊福部昭は北海道の出身だ。彼が戦前・戦中を過ごした北海道、とりわけ音楽というものにめざめた札幌を体験しないことには、原稿など書けるものではない。実感、それこそ、私が原稿を書く上で、最も重視するものだ。時代と風景は違っていても、札幌にはぜがひでも行かねばならなかった。取材しながら原稿を書く。そのために、私は150と旅に出た。

 それまでの私は、都内の移動には、150をむき出しにして持ち歩いていた。これは、一見すると危ういようだが、少なくとも大荷物を抱えていない状態では、見た目ほど危険ではない。自分の体でかばいながら、自分の手でしっかりつかんでいるのだから。車にはねられるとか、何かに足をとられて体ごと地面に投げ出されるとか、頭の上から工事用の資材が降ってくるとか、それほどのことが起きれば、緩衝材で厳重にカバーした鞄に入れていても、中のパソコンが受けるダメージは同じだろう。

 その冬、札幌は近年にない大雪であった。気温は低く、降り積もった雪の量も多かった。これはその年に限らないが、アスファルトの道路は、氷の被膜で覆われている。私は駅前のホテルに宿を定め、そこから毎日毎日、外出した。今にして思えば、外出先では原稿用紙に書く、パワーブックを使うのはホテルの中と、分けておけばよかった。事故というものは、ほんの少しのきっかけで起こるのである。悪魔は私を蹴り飛ばす必要もなければ、重量級のこぶしを繰り出す必要もない。小指の先で私の背中を押せばいい。つま先をそっと、私の歩みの先に差し出せばいい。まさにそのようにして、私は凍りついた路面で足をすべらせ、手に下げた鞄を地面に落とした。二車線しかない道幅の、横断歩道。北海道大学に近い、ありふれた交差点が、鬼門だった。高低差はほんのわずか、三十センチもあったかどうか。悪い予感がして、ホテルに戻るや150を起動させると、みごとに、画面の一部が表示不能に陥っていた。

 真っ青になるしかない。私は京都で150を求めた時のようにした。すなわち、電話帳で札幌市内のパソコンショップを探し、そこに足を運んで150を買おうというのだ。東京に帰ってから、より選択肢の多い秋葉原に出向くなどということは考えなかった。今、たった今この時、150が必要と思われたのだ。思い返してみれば焦っていたのだろうが、高ぶった気持ちはどうしようもない。

 中古パソコンを扱う店にも行ってみたが、結果は思わしくなかった。たった一台、中古の150がケースに入ってあったが、私はそれを、どういう理由で買わなかったのだろう。付属品に欠品があったのか。販売するための整備が、まだ終わってなかったのか。残念ながら覚えていない。その代わり、私は150を新品で購入することができた。取材を通じて知り合った古本屋の主人に事態を説明し、どこかで安く買うことはできないだろうかと相談した。その結果、北海道大学の生協で買うのはどうかという案が浮上したのである。主人は私にいう。まず、生協に電話をしてみましょう、と。さっそく電話をかけたところ、パワーブック150が、約八万円で売られていることをつきとめた。京都で支払った十五万円に比べれば、約半分の値段まで下がっているではないか。安くはないが、背に腹は代えられぬ。しかし問題があった。生協は学生のためにある。買い物をするには学生証が必要なのだ。ここでも主人は妙案を出した。店によく足を運ぶ学生に相談して、学生証を借りようというのだ。ただし、生協が開いているのは午後八時まで。その時、時計はすでに午後七時をとうに回っていたが、大丈夫、彼はすぐに来てくれますと、主人は請け合う。十数分後、学生証は無事に届けられた。当然、顔写真がついている。しかし、それが本人であるかどうか、目の前の人間と学生証を照合するようなことはしない。保証書を作る際に必要条項の記入が求められるが、それは学生証の通りを書き写せばいいということだった。

 生協までは古本屋の主人が先導してくれた。私とて道はわかっているが、何しろ、構内は雪に埋もれている。近道はあるが、道なき道をゆくようなもの。閉店の八時は迫っている。とにかく時間がないから、私が案内しようと、主人はわがことのようにいって店を飛び出したのである。仕方ない。主人の後を追うしかない。空気は冷たい。冷蔵庫に顔を突っこんで息をしているようなものである。しかし、着ているものの下は熱い。走り通しなのだ。雪に突っこんだ足を引っこ抜き引っこ抜き、飛び跳ねるようにして、二人の男が北大構内を駆けてゆく。そこはかつて、アイヌの集落があった場所だと聞いていた。水が湧き、木が繁り、おだやかな地形の、土地。日本人が北海道におしかけてアイヌを追い払い、いちばんいい場所を奪ったらしい。そのような無礼な歴史が刻まれた土地を、パワーブックを不正に購入しようとする私が、古本屋の主人に案内されて走ってゆく。考えてみれば、その時の私は、大学一年生の、倍ほどの年齢なのであった。私が手にした学生証は一年生のものではなかったが、何にせよそのような年齢の者が、学生証を使って生協で買い物をしようなど、まことに図々しい話である。

 生協に駆けこんだ時、時計はすでに、閉店十分前を切っていた。パソコンは最上階で売っている。一気に階段を駆け上がると、店員に対して150購入の意志を告げ、八万円なりを差し出して、無事、購入に成功した。おそらく、店員はわかっていただろう。目の前の男は、学生証の本人ではない、と。わからない方がおかしい。何やら口に出かかった言葉を飲みこみながら、私に対しているような風情だった。しかし、私はせっぱ詰まっている。強引に買う気でいる。その強引さが、態度に出ていただろう。ますますおかしいと思わせる材料になっていただろう。だが、ここでお互いが思っていることを口に出せば、話はとんでもない方に展開していく可能性がある。あなたは他人の学生証を、どのようにして手に入れたのですか? パワーブックを安く購入して、高く売りさばこうなどというつもりではないのですか? そういえば、さっきパワーブックの値段を尋ねる電話がかかっていたが、あなたの声は電話の人とは違いますね。さらに別人の学生証を持ってここにいる。集団で不正が行われているのではありませんか?……

 しかし、そのような問答はなく、私は無事、二台目のパワーブック150を買って、ホテルの一室に運びこんだのである。強引だ。まこと、強引である。新品の150にシステムをインストールし終えると、私は新旧二台の150を並べて、データを移し始めた。データ転送のためのケーブルがないから、フロッピーでひとつずつ、移していった。150を分解するためのドライバーがあれば、ハードディスクごと移植する手もあったが、いかんせん道具がない。薄暗い明かりの下、辛気臭い作業を終えた時、私には新たな原稿を書く力は残っていなかった。ただ、寝るしかなかった。一分一秒を争うようにして150を買い求める。新たな原稿を書く力は、まったく残っていない。そんなこと、始めからわかっていそうなもの。雪の北大構内を駆け回るほどの労力を使う必要はない。次の日でいいじゃないか。もっといえば、東京に帰ってからでいいじゃないか。いったい、何を焦っていたのか。

 それにしても……。もし運命ということをいうのであれば、札幌で手に入れた150の運命は、まこと哀れなものであった。私などに買われなければよかった。これからおよそひと月の後。取材帰りの池袋駅で電話をかけていた私は、再び地面に150を落下させて、同じように液晶画面を破損させてしまう。150は、肩にかけた鞄の中に入っていた。電話をしている最中、鞄の紐が何かの拍子にはずれて、まっすぐ地面に落ちたのだ。もう、疑う余地はない。駅を後にして、ゆっくりとした足取りで喫茶店に入った私は、150を鞄から取り出した。落ち着いて起動させると、やはり----、液晶は真っ黒になっていた。保証書に、私の名前は書かれていない。偽学生が不正な手段で手に入れた150。マシンの運命は、ここまでだった。

■9

「そのキーを叩け!」

 「ノートを買ったよ」

 「ほう、いいね。どこの製品?」

 「コクヨ」

 「え? コクヨもノートを出すようになったの」

 「ずっと前から出してるじゃない。老舗だよ」

 「そう。知らなかった」

 「本当に?」

 「文房具感覚だね」

 「だって文房具だ」

 「そうともいえる。でも、それくらい手軽になればいいな」

 「もう、重いのは嫌なんだ。このごろ、腰に来ちゃって」

 「いけないね。気をつけてよ。ぎっくり腰になったら仕事できないぜ」

 「あんまり厚くても持ちにくいからさ。なるべく薄いの」

 「おれも薄いの欲しいなあ。サイズは?」

 「B5だよ」

 「へえ。じゃあ、それなりに重いだろう」

 「いや。そうでもない」

 「でも、B5っていったら……」

 「そんな。B5のノートが重いわけないじゃないか」

 「コクヨもやるね。でも、高いんじゃないか?」

 「高いわけないだろ、安いよ」

 「いや。でも、おれには買えないな。中古?」

 「中古のノートなんて使えないって」

 「そりゃまあ、そうだけど。よくそんなお金あったよな」

 「今でもあるよ」

 「ええ……」

 「だってB5くらいのサイズはないと、まとまった原稿なんて書けないもの」

 「……あんまり小さいと見にくいしな」

 「そうなんだ。小さいとどこかに置き忘れそうでね」

 「おれのところに置き忘れてよ。使わせてもらうから」

 「ははは。考えとくよ」

 「でも、そんなの、どこに売ってたの?」

 「いや、どこにでも売ってる」

 「本当? 秋葉原とか、新宿とか」

 「いや、近所で買ったの」

 「四谷にそんなお店あったっけ?」

 「あるよ。ばかにしないでよ」

 「今度行こうかな。教えて。見るだけでも見たいから」

 「大げさだな」

 「いいだろ?」

 「ああ、わかった。お、時間だ。じゃあ、用事があるから」

 「頼むよ。教えてよ」

 「OK。でも、おまえがそんなにノートほしがってたなんて意外だったよ」

 「そう? やっぱり使ってみたいじゃない」

 「あんなに持ってるのに?」

 「いや、ひとつもないの」

 「隠すなよ。わかった。またな」

 「ありがとう」

 ----このような会話が、実際にあったそうである。

 二〇〇〇年六月下旬の今、実をいうと、パワーブック3400cを持ち歩くことが、いささか苦痛になってきている。精神的にではなく、肉体的にである。表面的な疲労ではない。肉体の奥深いところに、3400の三キロ以上という重みが、はっきりいえば悪影響を及ぼしていると実感する。腰骨が痛んでいる。脚の骨の付け根に、日々、負担がかかり続けている気がしてならない。激痛はないが、何かがゆがみ始めているという気がするのである。3400だけが悪いのではないのかもしれない。もともと私の身体がおかしいのかも。しかし、それも一因ではないかと思ったら、とりあえず3400を持ち運ぶのを止めてみることが必要だろう。実際、重いと思っているのだから。

 地球上に存在する者は、等しく重力の影響を受ける。私が二台のパワーブック150を地面に落下させて壊してしまったのは、間違いなく重力の影響を受けた結果である。3400を持ち運ぶことによって身体を痛めているらしいのも、重力の影響である。重力がなくなる宇宙空間でなら、パワーブックを落下させたり、パワーブックで腰に負担をかけたりすることもない。しかし重力があるからこそ、おそらくは私たちの身体も、現在の形状になっている。パワーブックとて、人間が使いやすいようにデザインされているのだから、重力の影響下にあるわけだ。それを思えば、重力から解き放たれて、人がパワーブックを用いるということ自体がありえない話になる。三キロだろうと二キロだろうと、その重みは、パワーブックであることの証だ。マイナスの証といってもいいかもしれないが……。

 私は喘息だ。二年前、師走に引いた風邪が治りきらず、町医者にかかっているうちに、どういうわけか悪化し、年が明けて喘息になった。その医者にかかっている間、暴食にも睡眠不足にも注意していた。にもかかわらず、喘息になった。薮医者だったのだろう。夜中に呼吸困難になり、自分でタクシーを拾って病院にかけこんだ。これは、大げさにいうと、一命をとりとめたに近い経験であった。後から知ったのだが、喘息で息ができなくなり、死んでしまう人が少なくないということだ。喘息の引き金になった風邪だが、これの原因は、私なりにわかっている。電車の中で、締め切りに間に合わせるための原稿を読んだり書いたりしていて、首の筋を違えてしまった。パワーブックを使っていたのではない。原稿用紙である。たかが紙を使って、原稿を読んだり書いたりしているだけで、首がやられてしまった。これで首全体が弱くなり、気管支を痛めて、風邪を誘発したのである。素人が適当な判断をするなと医者に怒られたことがあって、首の筋違いと風邪は関係ない、風邪と喘息は関係ないと、医者なる人々はいうかもしれない。しかし、すべては首に関わる病である。関係ないわけがない。自分の身体をいちばんよくわかっているのは患者本人だ。

 この、喘息の遠因になった、首の筋違い。これは要するに長時間、電車の中で、不自然な姿勢で重い頭を支えていたために起こったのである。頭というのは重い。普段は垂直に支えているからいいが、平行に頭を維持するなど無理な行いに決まっている。それを、東京と大船を往復する間、合計約一時間、ずっとしていたものだから、筋がおかしくなってしまった。この後、筋違いを治そうと、鍼灸医にかかった。風邪の予防になるというつぼにも、針を打ってもらっていた。しかし、それもきかなかった。そして風邪を引き、喘息になった。これらのことすべてが、重力にさからったことから起こったのだ。パワーブックの二キロ、三キロという重量が、身体の骨をゆがませてしまうのも、ありえない話ではない。

 およそ二か月の間に、二台のパワーブック150を壊してしまった。運が悪いも何も、すべて悪いのは私であると、素直に認めた。マックの世界にある、言い伝え、ジンクス。買い替えを検討した時、手元のマシンは嫉妬してトラブルに見舞われる、ということ。最初の一台を買い替えてもいいかなと思った時、私の心は、わずかでも、150を離れてしまったのだと思う。目の前の150から、というより、150というものから離れてしまった。これは壊してはいけない、これは大事なものなんだという思いと、それに関係した想像力があれば、路面が凍りついた札幌の街をふらふら歩くなどということはしないだろう。それなのに、気軽に持ち運んでしまったということ。気軽に何かできるような場所ではないのだ。旅の空では死ぬこともある。それを覚悟しなければ旅などできようはずがない。そのように書いた。まさにその通り、150は札幌の空の下で死んでしまった。旅に向かう覚悟ができていなかったのである。

 そして、たかだか浦和まで取材に行った帰りの池袋。いかにも旅慣れているという具合に、肩にかけた鞄に150を入れていた。今にして思い出す。その鞄の紐、鞄本体と紐をつないでいる、金属の、猿環と呼ばれる輪が、しばしばはずれていた。150を入れていなくても、紐は肩から外れていたのである。それを経験していながら、平気で150を鞄に入れ、なおかつ電話をかけていた。ここでも、私は150から関心をそらしていた。電気的に、ロジックボードをショートさせてしまったとか、150にも外付けキーボードを取りつけられるように改造しようとして失敗したとか、そういう類の理由で破損させたわけではない。原因は、不注意と、地球の重力。私らしい。何も目新しいものはない。物に関してしくじってきた、人間の歴史を、あいもかわらず継承している。

 その後、私は六台の150を買い求め、今、手元にあるのは四台。パワーブック100シリーズ全体でいうのなら、およそ二十五台のマシンを買い求め、今、手元にあるのは、十五台。この数は、空しく死なせてしまった二台の150に報いようとした、その表れである。さらに、短い時間に二台も壊してしまった、私自身の無念を晴らすためでもある。できればあと何台も、150を、100シリーズマシンを、手にしたい。買い続けて、重荷を増やすことだけことが、重力に対抗する手段だという気がしてならない。重力が攻めてくるのなら、それを全部引き受けてやるという思い。これも私らしい。実にばかな考えだ。数を増やしても使い切れないことはわかっているのに。まるで、水子地蔵ではないか。死んだ子の年は数えても仕方ない。しかし、つい数えてしまうのである。

 ----190csが発売されたころ。ある雑誌で、パワーブックの特集が行われた。そこに、アップル社のパワーブックは、携帯用のパソコンとしては失格だというようなことが書かれていた。

 バッテリーが二時間もつ三時間もつなどといっているが、そんなことは当たり前である。機能を限定した、某社のモバイル専用マシンは、どこにでも売っている単3電池でひと月持つ。それを読んだ私も勇んで秋葉原へ出かけたが、キーと画面があまりにも小さいことに不安を覚え、とりあえずは買わないことにした。しかし、電池が長持ちするのは魅力だし、それが二万円も三万円もする専用バッテリーではなく、市販のもので間に合うというのはありがたい。マック用のシステム、OSは搭載できないものの、私の使い道は原稿書きだけだから、データのやりとりはさして面倒ではないはず。

 さらに、しばしば問題になる、重量。三キロなどというのは論外と断定されていた。そうだろうと思う。パワーブック2400が二キロを切ったというので話題になったが、これもまだ重い。一キロを切るマシンが出れば、誰もがそれに飛びつくはずだ。世の中には、完璧なプレゼンテーションを行うため、ノート型マシンではなくデスクトップ型のマシンを持ち運ぶ人がいるという。それも無理はない。仕事先に足を運んでから、あれができない、これができないというのではお話にならない。しかし、そういう人たちも、軽ければそれに越したことはないはず。

 そして、マシンの種類。マックOSを使えるのは、アップル社のコンピュータのみ。アップル社以外のパソコンにもマックOSの使用を認めれば、もっともっと軽い、携帯に便利なノート型パソコンが開発されるだろう。マックは好きだが、その意見にはうなずかざるをえない。ウィンドウズ・マシンでマックを操作できるソフトもあるが、いまひとつ気が進まない。どうして余分なソフトを買わなければならないのか……。

 かつて、パワーブックに先駆けて発売されたマッキントッシュ・ポータブルは、七・五キロという重量が災いして、高い評価を得られなかった。それが発売されたころ、原稿を書くために携帯できるマシンを探していた私とて、検討の対象にはしてみたのである。しかし、その重さもさることながら、百万円という値段を聞いて、半分腰を抜かしてしまった。それでもポータブルを必要とする人はいて、ポータブルを持って飛行機に乗りこんできた外国人女性を見たという記事を読んだことがある。また、生産が終了してからも、中古で買ったり譲り受けたりと、一人で数台のポータブルを持っている人がいるという。

 そうした事実を受けて、いわれること。持ち運べるマシンを作るために、アップル社はそのすぐれた機能を犠牲にしなかった。多くの機能を備えてなお、持ち運べるマシンをアップルは作った。それがポータブルであり、パワーブック・シリーズになってからも、三キロを越えるマシンを出し続ける、アップル社の姿勢なのである。しかし、まさかそんなことが評価の対象になるのだろうか。どんなにすばらしいマシンが生まれても、私のように、それを持ち運ぶことで身体を痛めてしまっては、何にもならないではないか。そうすると、こんなふうにいう人がいる。アメリカ人の多くは車で移動する。だから、少々の重さは気にしない、と。冗談ではない。それならノート型のパーソナルコンピュータというもの自体、開発することがおかしい。アラン・ケイのダイナブック構想は、どこへいってしまったのか。車で持ち運ぶのなら、デスクトップ型のパワーマックG4だって何だって、さしつかえあるまい。

 あるいは、パワーブックとは別のシリーズとして開発されている、ノート型のiBook。あの重さは三キロなのだそうだ。iBookはその愛らしさを優先させた形状から、女性に人気が高いはずである。しかし、女性に三キロのマシンを運ばせて、アップル社は平気なのか。もちろん、タイプはノート型でも、外に持ち歩かず、家でしか使わない人が多いのだろう。家そのもの、あるいは机の上が広くないから、いつでも片づけられるパワーブック、あるいはiBookを買うのである。しかし、やはりノートといえば、持ち運びを前提にしてほしい。アラン・ケイの理想は、本のように、何の覚悟も持たずに持ち運べるパーソナルコンピュータであったはずだ。しかし、今の私は、3400を運ぶのに、身体の心配をしなければならなくなっている。身体を痛めてもいいという覚悟をしなければならなくなっている。

 ほんの少しの時間でも、原稿を書くことにあてたい。となれば、いつ、どこででも原稿を書けるように、3400を鞄に入れて携帯したいと思うのは、当然。しかし、さらにしかしなのだが、そのために体がゆがんでしまって、これから先の原稿書きにさしさわりが出るようなら、本末転倒である。生きるために仕事をしているのに、身体を痛めては何のための仕事かわからない。ちまたで評判のモバイル・コンピュータも、それが本当にすぐれたものであるなら、購入していい。しかし、一刻を争って、電車の中で原稿を書かなければならないなどという事態が、果たして訪れるのか。そのようにして書かれた原稿など、いいものになるはずがないではないか。そんな事態を招かないようにすることこそが、プロの姿勢であろう。原稿用紙を使っていても首の筋を違え、その結果、喘息になってしまった私である。原稿用紙よりもなお小さいモバイル・コンピュータを使ったら、いったいどうなることか。大切な原稿だ。私はやはり、家で書きたい。

 現代人は、携帯電話にしばられている。これは周知の事実だ。サラリーマンは悲惨だと思う。いつでもどこでも会社に監視されているのである。電車に乗っていても呼び出される。喫茶店で休んでいても呼び出される。人と打ち合わせをしていても呼び出される。あれでは、気が休まる時がない。山手線の車内では携帯電話の電源を切ってくださいと放送されるが、いちばんそうしてほしいのは、いまだに電源が切れず、周囲の目を気にしながら携帯電話を耳に当てている、サラリーマン本人ではないのか。

 まさに、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』そのままの現象が起きている。偉大な兄弟、すなわちビッグ・ブラザーが常にあなたを見守っているとされる、独裁国家。オーウェルが描いたのは、全体主義の思想に覆われた社会と、そこに暮らす人々の姿であった。マックが登場したのは、一九八四年である。リドリー・スコット監督による、マッキントッシュ誕生のコマーシャルには、このようなコピーが映し出された。マッキントッシュの登場によって、一九八四年は、『一九八四年』のようにならない……。

 ところが、時代は確実に、オーウェルが予言した状況になっている。偉大なる兄弟などどこにもいないが、偉大ではない兄弟が、私たちを見張っているという事実。あるいは、偉大ではない者同士が、互いに互いを見張らなければならないという、哀れな事実。サラリーマンが喫茶店でとぐろを巻く。何だか、そんな光景が無性に懐かしく、人間らしいことのように思い出されて仕方がない。

 恋人同士、友人同士が、携帯電話で監視しあう仲になったらおしまいだ。いくら好きだからといっても、のべつまくなしに連絡を取り合わなければならない関係になったら、遅かれ早かれ嫌気がさすに決まっている。どこに行ってたの? 何で電話に出ないんだよ? どうして電源切ってたの? いちいち電話してくるなよ……。携帯電話、本当に罪な道具だ。悪い面ばかり見ないでほしいといわれるだろうが、悪い面しか目につかない。携帯で話されていることは、時と場所をずらしても間に合うことがほとんど。つまり、街角の公衆電話か、卓上の電話で間に合うことばかりだ。それを今話さなければならないと思うから無理がくる。

 ウォークマンも似たようなものだ。確かに、歩きながら音楽が聴ければ楽しいだろう。私とて、インタビュー取材に使う小型のテープレコーダーに音楽テープを入れ、イヤホンを差して、携帯用の音楽再生装置として使っていた。ウォークマンが登場する以前のことである。ウォークマンが発売された時、あれ? 同じことをしているではないかと思い、まったく新味を感じなかった。ソニーが開発した画期的な製品といわれているが、どこが? 考えてみよう。どうして外で音楽を聴かなければならないのか。外に出た時は、外の音に触れた方がいいのではないか? 街の雑踏、人々の会話、都会の自然。聞くものはいっぱいある。まさか、山登や海に行くのにウォークマンを持って行く人はいないだろう。人間の目は、一度に同じものを見られない。つまり、一度に違うものを感じられない。聴覚も同じではないか? 同時に別々の音を聴くことなど、できようはずがない。ウォークマンでロックを聴きながら、いやモーツァルトでもいいが、他人と話などできないのである。自分以外の状況は関係ないという態度には腹が立つ。だいいち危険であろう。もう、すっかりウォークマンの類は世の中に定着してしまっていて、それについて語るのは気恥ずかしいくらいだが、やはり、思っていることは書かずにいられない。この発想の流れが、時代全体を覆っているからだ。

 モバイル・コンピュータの普及も、ウォークマン、携帯電話と似た発想に基づいている。いつでもどこでもコンピュータが使える、情報を処理できるといいながら、いつでもどこでも情報に縛られる環境を作っている。こんなことなら、他の何とも接続せず、通信しないで、ただ目の前にある一個のコンピュータしか扱えない時代の方がよかった。コンピュータが完全に閉じた箱に過ぎず、ゲーム・マシンにしか過ぎない状態。その方がましだ。----と思いながら電車の中の風景を思い返すと、子供たちが手のひらサイズのゲーム・マシンに熱中している光景が浮かんだ。そう。今ではゲーム・マシンも外に出ている。あれを何と呼ぶのか知らないが、ウォークマンや携帯電話やモバイル・コンピュータに重なって見えてくる。

 他人のことばかり批判しているようだが、私にもそのような傾向はある。いつ、どこででも原稿を書きたいなど、自分で自分を縛っている証だ。外に出た時くらい、原稿のことを離れて頭を自由にした方がいいのではないか? 外出した時に書くのはメモ程度にして、自宅なり仕事場なりで、それをもとに改めて原稿を書いた方が、考えが整理されるのではないか? それはわかっている。わかっていうのだが、やはり、生活している空間から自由にならなければ、原稿が書き辛い。その日に初めて書く原稿は、なるべく楽な気持ちで筆を起こしたい。いや、キーを叩き始めたい。寝て、起きて、食事して、風呂に入って……。そのような、かわりばえのしない日常空間では、気分が乗らない。本当は気分など、近所を散歩するなり何なりして変えればいい。空気の悪い喫茶店に、わざわざこもる必要はない。これもわかっているのだが。世の中は病んでいるし、私もまた、病んでいる。

 音楽、電話、コンピュータ、ゲーム……。こうまでさまざまなものが家を飛び出すようになるとはどうしたことか。これを病気と片づけるのはたやすいし、実際、その一面は持っているが、なぜ、人々は外に出たがるのか。実はこの考え、志向こそが、重力から自由であろうとする、人間本来の姿なのではないか。私がパワーブックを落下させて壊す。頭の重さに首が耐えられなくなって筋違いを起こし、ついには喘息にいたる。これらは重力に負けたのである。負けたくない。重力に勝ちたい。勝てないまでも、対抗したい。そのために、身の回りのものを、できるだけ軽くしたい。アラン・ケイのダイナブック構想も、もしかしたらそのような意識を背景にして、まとめられたものかもしれぬ。

 コンピュータから音楽からゲームから電話から、何でもかんでも家を離れて外に出るということ。これすなわち、重力のしがらみから自由になりたいとの意思表示ではないか? 人は空を飛べない。しかし、飛べたらいいと思う。その願いが飛行機を作った。まさに、重力から自由になろうとした結果である。走り高跳びなどという競技は、何の道具も使わずに、人の力だけで重力にさからい、自由になろうとする行いであろう。ステレオ装置の重さから自由になりたい。電話機の重さから自由になりたい。ゲーム機の重さから自由になりたい。そして、コンピュータの重さから自由になりたい。当然の願いだ。----結論は出ない。しかし、例えばモバイル・コンピューティングなる行いが、重力を相手にした、人間の永遠の戦いの過程にあるものだとしたら。人間の切ない願望に裏打ちされたものだとしたら。身体を痛めている私なりに、何となく理解できそうな気がするのである。

■10

「そのキーを叩け!」

 世間の進度からすると一年以上も遅いのだが、今の私は、ひたすら、パワーブックG3/333を充実させることにつとめている。あらかじめ取りつけられている六十四メガのメモリではあまりに少ないと思い始め、一気に三八四メガまで拡張した。始めに一二八メガメモリを買って取りつけた次の日、けちけちせずに一気に増やしてしまえと、次の日になって二五六メガのメモリを買い足した。これでこの機種としては、最大メモリとなった。2000年型のパワーブックは五一二メガまで増やせるから、それに比べれば相当に少ないのだが、原稿書きが主な仕事となれば、これでじゅうぶん。

 また、新品同然とはいえ、やはり中古で買ったのがいけなかったか、付属のバッテリーの持ちが悪いので、新品を二個、購入した。バッテリーをフル充電して二個装着すれば、七?八時間は使い続けられるはずである。まさか七?八時間も外で原稿を書くことなどないだろうから、これでひとまず、喫茶店でバッテリーの残量を気にせずにすむようにはなった。メモリにせよバッテリーにせよ、買った当初から気になっていたことである。気になることをひきずるのは精神によくない。さっさと片づけてしまうことだ。

 G3については、あまり持ち運ぶまいと思っていたのだが、とにかく使いこまないことには宝の持ち腐れ。これまでは仕事場に置きっぱなしにして、箱入り娘のように使っていたのだが、大事にしすぎて、3400との差が埋まらない。いつまで経ってもメインマシンにふさわしい内容にならない。今では自宅に持ちこんで、3400と併用しつつ、喫茶店でも原稿を書くのに使っている。すでに書いたが、3400は、持ち運ぶには辛い。G3は3400より軽いのだ。

 ワープロソフト・EGWORDの購入。OS9の購入。それに続いてメモリとバッテリーの購入。出費が続くが致し方ない。というよりも、仕事で使うべき金を渋っていてはいけない。仕事の環境を充実させるためには、必要な経費である。仕事場で書く、家で書く、喫茶店では本を読むのみ。そんな具合に、余裕のある態勢を維持できればいいのだが、そういうわけにはいかなくなっている。ノート、いわゆる帳面を使って仕事をしようというプランは最善のものだが、実はその時間すら惜しいのだ。今の私は、やはり、いきなりキーを叩き始めたい。精神面でも、実用の面でも。

 残念だが、こうした状況下、オールドマックとはほとんどつきあえなくなっている。「そのキーを叩け!」では、オールドマックの妙味についても筆を及ばせたいと願っていたのだが。それはお預けだ。

 本とコンピュータ。これは雑誌の名前や特集の見出しになるだけではない。なかなか大きなテーマである。

 本はもう、それで完成したもの。コンピュータは、これから何かを作り出すためのもの。本とコンピュータを並べた場合、まず、その違いがある。

 それが違わないとして、並列させるとしたら、本は人の思索や行為を引き出すためのもの。創造の引き金。コンピュータもまた、人を思索や行為に駆り立てるもの。そういう比較をする必要があるだろう。つまり、本は本のみでは完成していないという認識に立つということ。コンピュータまたしかり。

 それにしても、本とコンピュータ。いずれも、私を生かしてくれている。私はコンピュータで仕事をし、つまり原稿を書き、それで本を作ろうとしている、あるいは雑誌に求められて原稿を書く。そんな私にとって、本とコンピュータとは、避けて通れないテーマだ。しかしついこの間まで、本とコンピュータは比較の対象にならないと、かたくなに思っていた。

 コンピュータは本を作るための道具。原稿を書く私にとって、コンピュータは鉛筆や原稿用紙などと同じ道具。本は、それらの道具を使って作り出される、結果。さまざまなホームページに書かれた原稿があるが、それらを書くことで生活できる環境は整っていない。プロの原稿書きは、何といっても食べていかなければならない。私ごときが偉そうにいえる道理はないのでが、ボランティアの精神はけっこう、しかし、食いぶちはどうするのかという問題が解決されない。しょせん、ホームページはミニコミではないかという思いがある。かつて一生懸命にミニコミを作っていた私がいうのである。ミニコミは否定しない、それどころか肯定している。しかし、それでは食べていけないのだ。他の仕事が必要になる。自分を生かしてくれている仕事にのめりこまなければ----。それが私の信条だ。

 そして、さらにしかしなのだが、コミュニティに依拠し、書き手の個性に依拠し、メディアに依拠し、読み手の善意に依拠しながら成立する現在のミニコミ、それを取り巻く状況のもとでは、私は原稿を書きたくない。世の中の不特定多数の目の前にぽんと放り出されて、それでもなお生きていける、そんな原稿を書きたい。ホームページを作ることにも、ホームページに書くことに関心がないのも、こうしたことが原因である。どうしても、印刷媒体をめざすことになる。めざしながら、そんなもの、まだ二冊しかできていないじゃないかとの陰口を叩かれることになる。どうすればいいのか。他にしようはない。ただひたすら原稿を書くのみ。その過程に、マックを使って書く、この原稿も存在している。そうするうちに、本とコンピュータの距離が接近して見えてきた。本とコンピュータを近づけてみようという気持ちになってきた。コンピュータに生かされているということを、実感してきた証拠であろうか。

 だが、あいにくと、今の私は素人同然。いきなり奥の院には入れない。まずは表の門をくぐることにしよう。たのもう?。

 ………………

 考えていることをいっておきたい。本とコンピュータは、これから先、少なくとも私が死ぬまでは併存していくであろう。決して、本からコンピュータへ、メディアの移行は行われない。本は旧時代のメディアではないし、コンピュータもまた、新時代のメディアではない。現代に生まれたメディアかもしれないが、それを使って何かをするのが人間である以上、私には何か新しいことが生まれ出てこようとは思われないのだ。インターネットしかり、モバイル・コンピューティングしかり。原稿を書くこと、絵を描くこと、情報をやりとりすること、それらはすべて、これまでずっと人間がしてきたことだ。コンピュータが何でもかんでも肩代わりしてくれるわけではない。やはり、人間が手で操作する行いとして、それらはある。

 コンピュータではなく本にこだわるからといって、その人が時代遅れということはない。コンピュータを操れるからといって、その人が新しい時代を生きていることにもならない。本だ、コンピュータだという比較論、どちらかがどちらかに比べて優っているとか劣っているなどという優劣論は願い下げ。そこにあるのはただ、優れた本と劣ったコンピュータ、劣った本と優れたコンピュータ、ただそれだけである。劣った本とコンピュータが使い物にならないのはいうまでもない。

 コンピュータによって、できあがる原稿の内容や質が変わるわけではない。コンピュータが上手な原稿を書かせてくれるわけではない。それはマックでもウィンドウズでもリナックスでも同じこと。付け加えておくなら、文章を校正するための機能や、英文のスペルを確認してくれる機能があるらしいが、そのようなものに頼っていては駄目である。やはり、自分の目で原稿を直せなければ、書き手の力にはなりえない。こんなことも可能にしたいという技術開発の試みにはなるかもしれないが、私は使いたくもない。文章とは作家の個性である。従来の文章感覚からすれば、間違いすれすれの文章を、ある作家は自分の個性として差し出してくるかもしれない。それをコンピュータに直せるのか? いや、コンピュータだけではない、他の人間にだって直せるというのか?

 マックで原稿を書いて、それを画面上で直せるだけ直して、印刷したものに赤字を入れて直し、その赤字をマックに打ちこんで原稿を訂正し、さらにそれを印刷して直して。これを延々と繰り返し、もう直せるものがなくなったと思ったところで、もう一度最後の直しを行い、どういうわけか見えていなかった間違いを訂正し、不安を抱えたまま印刷されて本になる。そこでミスを発見して青くなる。これを繰り返すしかないのである。気が遠くなる話だ。しかし、原稿を書く世の中のほとんどの人は、この過程を省略しようなどとは思っていないだろう。原稿用紙に書いていた文字が、コンピュータで打ちこんでデータ化されたために、印刷に要する時間は短縮された。しかし、それは時間の話で、手順の話ではない。原稿を届けるのに、手渡しでは何時間もかかるところを、ファックスなら一分あればじゅうぶんという、それくらいの話だ。もちろん時間の短縮は喜ばしいことだが、そのために起こる弊害を、私たちは決して忘れてはならない。時間に余裕ができたのなら、原稿内容の吟味とか、デザイン上の吟味とか、そういったことに、精力を費やすべきである。あまった時間で旅行に行ったりゲームをしたりすべきではない。

 本。私は本が好きである。本を必要ともしている。そして、今はそれほど好きではなくなっている。

 いろいろな背景がある。子供のころから新刊書店はもちろん、古書店にも行くことが好きだった。東京に住むようになってからは、ほとんど毎日、早稲田か神田の古書店街に足を運んだ。これまで広い部屋に住んだことがないから、収められる本の量にも限界はあるが、とにかく、常に私の部屋は、本でいっぱいになっていた。読むことは好きだが、それ以上に、本を買うこと、本に囲まれること、ものとしての本を手に取ることが好きだった。ところが、今ではその傾向が、パソコンに、マックに取って代わられている。早稲田や神田に行く代わり、秋葉原に行く。まず、こういう前提がある。

 「人が触った本なんて触る気になりませんよ」

 「汚いでしょう、はっきりいって」

 「かびくさくて、ほこりくさくてね、不健康」

 「古本屋の親父が嫌だ。何いばってるのかと思う」

 「万引きするつもりなんかないのに、あそこのばあさん、ずっと後つけてくる」

 「古本マニアって、ちょっとおかしい人が多いよ」

 「マニアの旦那が死んで、せいせいしたっていう奥さん、多いみたい」

 「どうして男だけなんだ? 女のマニアっていないね」

 「あの人かわいそう。古本なんかにみいられちゃって。哀れだな」

 こういう声は、すべて当たっている。

 本に一生をかける人がいることを思えば、私の年齢でこんなことをいうのはおこがましい。本の魅力は尽きせぬものだ。しかし、今の私の考えとしては、人の本を読む時間があったら、自分の本を作らねばならない。いつかできあがる本のための原稿を書かなければならない。やはり本とは、原稿を書いた先にあるもの。他人の本を集めても、読み続けても、何にもならない。拙くてもいいから、いや、拙くていいわけはないのだが、とにかく形を持ったものを作らねばならない。本が公共のものであることを思えば、他人の、という考えはおかしいかもしれない。しかし、著作権という考えがある以上、金を払うだけでは、本は読み手のものにならない。あくまでも他人、作家のものだ。これは私の本だといえるものを、キーを叩くことで作っていかなければ、生きていけない。その意味で、本とコンピュータは、趣味の領域にはないのである。

 本を扱う書店街が、神田神保町にある。コンピュータを扱う電子街が、外神田の、秋葉原と呼ばれる地域にある。いずれも神田明神が治める地域だ。これはおもしろいことだと思う。神田川で隔てられ、中央線・総武線で隔てられて、途中に坂道や谷があるために実感しにくいのだが、神保町と秋葉原は、それほど隔たっていない。歩いても二十分たらずの距離である。秋葉原のパソコンショップ店も、秋葉原駅を下りて行くより、お茶の水駅から歩いた方が近い店もある。

 だから私の行動範囲は、ただ、神田明神のてのひらを、右往左往しているだけといえる。神保町から秋葉原へ移っただけ。同じ神田を行ったり来たりしているだけではないか。その意味で、本とコンピュータは、どちらも私になじみのもの、私に金を使わせるもの、私は神田にお金を落としている----とまあ、こういう冗談のねたになる。

 他にも多くの似たような人がいるだろうが、本とコンピュータは、この点で、私にとってはきわめて近いものだ。なぜ、本とコンピュータなのか? なぜ、本から映画へではなく、オーディオからコンピュータへではなく、本からコンピュータへ、だったのか?

 ひとつには、コンピュータが、文字を表示できる道具であったことが大きい。コンピュータが音楽や映像しか表現できないものであったら、私にとって、本からコンピュータへという移行、本とコンピュータの併存という事態は発生しなかったと思う。あるいは、数字しか表示できなくても駄目だ。英語しか表示できなくても意味はない。日本語を表せること。当たり前のことじゃないかといわれるかもしれないが、コンピュータが日本語を表示してくれるおかげで、私は本からコンピュータへ、関心を移すことができた。さらにいえば、自分で原稿を書こう、書かなければという気持ちを、かきたてられ続けているのかもしれない。

 チャールズ・ブコウスキーを思い出そう。彼もまた、マッキントッシュsiに出会うことで、原稿を書くという行為にはずみがついたのである。タイプライターでじゅうぶんであったはずなのに、マックを得たことで、より充実した気持ちで原稿を書けるようになった。その背景には、目新しいことをしているという喜びがあったかもしれない。単なる目先の変化だったのかもしれない。しかし、書き手というものは、何でもいいから原稿を書くための力にしたいのである。原稿を書かせてくれるなら、動物園にも行くだろうし、海水浴にだって行く、サラ金の門だってくぐるだろう。原稿を書く力になるのなら、だ。

 もともとは日本語を表示できなかったマックに、日本語を読み書きできる能力を与えた人々。私は彼らに感謝する。プログラミングということに何の知識もない私にとって、とにかくキーを打てば日本語が表示されるという事実は、奇跡に近い。どうしてローマ字キーの組み合わせが、ひらがなやかたかなや漢字になるのかと思う。どうしてこんなにたくさんの漢字を覚えていられるのかと思う。アルファベット二十六文字だけではない。日本語には出自の異なる文字がこれでもかこれでもかと混在する。ひらがなや漢字にアルファベットが混じってもおかしくないというのだから、無茶苦茶な話である。英語の本に漢字など混じらない。中国語の本にひらがななど混じらない。しかし日本語の本には何だって混じる。もちろん、人間が手で書けば何でもありだが、それをコンピュータがこなしてしまう。どうしてできるのかわけがわからない。そうしたことの経緯はさまざまな本に書かれ、記事にもなって残っているが、私の耳には念仏。ただ、驚異としかいえない。しかしそのおかげで、私は原稿が書ける。そうしたことの延長線上に、コンピュータで本を読もう、いや、読めるのかというテーマが発生する。

 パソコンの表記は横組みが基本。しかし、日本語の文章は縦組みが基本である。日本の文字自体、縦の運動線で書かれることを前提に形作られている。本屋に行っても横組みの印刷物は一部を除いてほとんどない。マック関係の雑誌はその一部に入っている。編集部には方針があるのだろう。マックに限らずパソコン雑誌には欧文や算用数字が頻出する。その表記をどうするか。例えばマッキントッシュという言葉を欧文で表すのは簡単、横組みで表すのも簡単だが、縦組みの文章に組みこむのは至難だ。首を傾けて読むか、直感で目にとどめるしかない。それならいっそ、雑誌の文字組自体を横にしてしまえばいい。----ということだろうか? 人間の目は横に並んでいる。横組みの文章を読む方がすばやいように思う。雑誌は重くならない方がいい、だから横組みに。----だろうか? しかし、マックの雑誌にも縦組みのものがある。さして違和感はないし、縦組みのパソコン雑誌を作ることも不可能ではないのだ。

 日本語の文章を、パソコンの画面で、縦組みに表示する。さらに、スクロールではなく、ページをめくるのに似た感覚の、見開き単位で表示していく。そのためのアプリケーションとして、T?Timeがある。かつて、電子出版を読むためのアプリケーションとしてエキスパンドブックがあった。現在のT?Timeは、そのエキスパンドブックを発展させ、より自由度を増したものだ。これを開発しているボイジャー・ジャパンのホームページから、最新のバージョンをダウンロードできる。さらにこのホームページには、日本語で書かれた詩や小説を、データにして納めた青空文庫がある。芥川龍之介、宮沢賢治、夢野久作、太宰治、エドガー・アラン・ポーなど、彼らの作品を好きな時にダウンロードして読むことができる。単行本でも文庫本でも絶版になっている作品の場合は重宝する。宮沢賢治の作品などは、常にどこかの出版社から出版されている。本を買ってくればいいのである。しかし、織田作之助や泉鏡花や三遊亭圓朝など、いつでも入手できるといえない作家の作品を読もうとする人には、青空文庫は便利だ。

 私はまず、大杉栄の『日本脱出記』をダウンロードした。大杉栄は、明治から大正にかけ、無政府主義者として国境を越えた活躍をした人物である。関東大震災のどさくさにまぎれ、伊藤野枝とともに、甘糟大尉に殺されてしまった。私は中学生の時、岩波文庫に入っている大杉の文章を読んで以来のファンである。

 「去年の十一月二十日だった。少し仕事に疲れたので、夕飯を食うとすぐ寝床にはいっていると、Mが下から手紙の束を持って来た。いつものように、地方の同志らしい未知の人からの、幾通かの手紙の中に、珍らしく横文字で書いた四角い封筒が一つまじっていた。見ると、かねてから新聞でその名や書いたものは知っている、フランスの同志コロメルからだ」

 こんな書き出しで始まる『日本脱出記』は、日本から上海、パリへと舞台を移しながら、彼の地の無政府主義者らと交流する大杉自身の姿を描いている。とても一九二三(大正十二)年に書かれたは思われない、スピーディな文章である。T?Timeの画面は、キーボードの矢印キーを押すことで、進むことも退くこともできる。本のページをめくるより、人間の動作としては簡単だ。大杉の文章にふさわしいようにも思われる。大杉がパソコンを持っていたら、それなりに重宝したのではないか?

 続いて、夢野久作の作品を読んでみることにした。久作はこれまでに、『ドグラ・マグラ』と『瓶詰めの恋』しか読んだことがない。まず、『少女地獄』。

 「小生は先般、丸の内倶楽部の庚戌会で、短時間拝眉の栄を得ましたもので、貴兄と御同様に九州帝国大学、耳鼻科出身の後輩であります。昨、昭和八年の六月初旬から、当横浜市の宮崎町に、臼杵耳鼻科のネオンサインを掲げておる者でありますが、突然にかような奇怪な手紙を差し上げる非礼をお許し下さい。/姫草ユリ子が自殺したのです」

 夢野久作という名前、『少女地獄』という題名、何やらあやしげな書き出し。すべての道具立てがそろって、私たちはおどろな世界へと引きずりこまれてゆく。考えるいとまもなく。たちまち読了。同じデータ・ファイルに『殺人リレー』『火星の女』という二編が納められていたので、あわせて読み終えた。さらに『あやかしの鼓』『怪夢』『押絵の奇蹟』『猟奇歌』『白髪小僧』と読み続け、今は久作が杉山萠圓名義で発表したルポルタージュ『東京人の堕落時代』に至っている。

 「東京人は今や甚だしい堕落時代を作っている。西洋風、支那風、日本風のあらゆる意味で堕落腐敗し糜爛して行きつつある。/その影響は日本全国に行き渡りつつある。仮令これを一時の事と見ても、その影響はかなり永く後を引く虞れがある。/現在の日本人は『東京』を無暗に崇拝している。何でも東京が本場でなければならぬ。すべてのものは東京が最新式の最上等と心得ている。この意味から見て東京人の堕落はやがて日本人の堕落である。三百里先の事と思うのは昔の頭である」

 なかなか刺激的な書き出しだ。現代の東京および日本文化にあてはまる。このような内容の文章が、インターネット上をぐるぐる回っているかと思うと、痛快な気分になる。

 さらに、与謝野晶子訳の『源氏物語』もダウンロードした。現状は、あいにく五十四帖すべてが青空文庫に納められているわけではない。しかし、この試みはおもしろい。原文ではないにせよ、インターネットで紫式部の著した物語が読めるとは。

 「紫のかゞやく花と日の光思ひあはざることわりもなし 晶子/どの天皇様の御代(みよ)であったか、女御(にょご)とか更衣(こうい)とかいわれる後宮(こうきゅう)がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深いご寵愛(ちょうあい)を得ている人があった。最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力にたのむところがあって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬(しっと)の炎を燃やさないわけもなかった」

 歌人・与謝野晶子ならでは。彼女の歌が、第一行目に置かれている。紫式部もまた、パソコンがあったら相当に使いこなしていただろうと思われる。宮廷生活者は外出もままならない。しかしその反動で知識欲は旺盛だった。紫式部と清少納言が互いを意識しあっていたというのは有名な話だが、世界にもまれな女性による文学は、平安時代の宮廷から生まれた。いながらにして世界中の情報を入手できるインターネットなど、彼女たちにとって、これほど便利な道具はなかったはずだ。もちろん、原稿の執筆は、マックで行う。

 ----青空文庫から多くの作品をダウンロードして、読む。もともと私は、マックの画面で小説を読むという行為に懐疑的だった。本は本として読めばいい。これは今でも状況が変わっていないが、文字を読むための道具として、本の方が、コンピュータよりも気楽である。本は寝転がって読めるし、風呂に入っても読めるし、それ自体を動かすためのもの、例えば電源などから自由になって読める。しかし、コンピュータは、そのいずれをすることも不可能。ある世界に入ってゆくためには、条件は極力少ない方がいい。ほとんど何も考えずにできた方がいい。寝ころんでの読書に考えることはほとんどない。私たちはそうしたいと思った時、瞬時にそれができる。そしてやすやすと、虚構の世界に入ってゆける。しかし、コンピュータにそれは無理。このような理由で、コンピュータに本の肩代わりをさせる必要などないと思っていた。

 ただ、大杉栄、夢野久作、与謝野晶子と紫式部、このように、T?Timeを使うことを前提にして作品をダウンロードし、読み始めてみると、さほど苦にならないことがわかった。矢印キーで画面を次に送れるので、速く読め過ぎるという懸念はあるが、これは意識して調整すればいいだけの話。寝ころべないことの不安も、要するに、寝ころばなければいいのである。コンピュータは本ではない。本もまた、コンピュータではない。互いは互いの代替物になど、ならないのである。

 簡単な結論に達してしまった。ここ一週間、いったい何を悩んでいたのか。

 大作『源氏物語』でも気軽に読めるのだ。新聞や雑誌の閲覧など、パソコンでじゅうぶん。かくいう私は、新聞をとらなくなって四?五年になる。情報はパソコンとテレビで得る。何の不便も感じていない。

■11

「そのキーを叩け!」

十一

 この夏の終わり、遅ればせながらウェブサイトを開設した。間もなく三つになる予定だが、現状は二つ。西新宿にあるインターネットカフェのサーバーを借りて開いたサイトもあって、それを入れれば現状三つなのだが、そちらは更新に人の手をわずらわさなければならず、いまひとつ自由ではない。とりあえずは契約中のプロバイダの数だけ開く予定で、それが今の段階で二、間もなく三つになるというわけである。それにしても、どうしてそんなに複数のサイトを……。いや、もっと多くの契約をしている人はいるだろうし、たいしたことではないが私にもそれなりの理由がある。サイトにまつわるさまざまなことは、三つ目を開いて以降に書くとしよう。

 私のサイトというのは----。

 学生時代に友人と始めたミニコミを復活したという形で、ミニコミと同じ名前の「IRREGULAR」。そして、もうひとつは社会人になってから始めた個人誌を、同様に復活させて同じ名前をつけた、「WOOD?MAN」。

 前者はガリ版印刷したものを頒布し、後者はコピー印刷したものを頒布していた。それが今度は、電子の海を通じて、他者の目に触れているわけだ。世の中にはさまざまな、いわゆるホームページ作成ソフトが出回っていて、それを使えば、ワープロ感覚で、簡単にサイトを作れる。私もひとつ買っておいたのだが、それに頼っていては、ブラウザソフトにレイアウトや文書の情報を伝えるためのHTMLを覚えられないと思い、ソフトはいっさい使ってない。いきおい、素朴なデザインである。しゃれたセンスの、クールなデザインのサイトがあちこちにある現在、私のサイトのようなものは、はやらないこと間違いなし。しかし、それはあえて認めて、今はこれだけしかできない、いや、これができるのだからと、無理はしない方針である。問題は中身だという思いもある。その中身について、ここで触れようとは思わない。「そのキーを叩け!」は、紙によって他人に提供することが、第一の目的。メディアが違う。

 ただ、IRREGULARの方は、私の現在形をお見せするサイト。マックについての原稿があれば、エッセイのごときものがある。雑誌に一度発表した原稿に手を入れて、刻々と充実させる趣向もある。

 これに対してWOOD?MANは、作品をお見せしようとするサイト。書いたものの本にできないでいる原稿を、全てではないが、このサイトで発表している。

 どちらも文章主体だが、このような色分けはしてある。興味をお持ちの方で、なおインターネットができるパソコンをお持ちの方は、次のURLにアクセスしてみてください。

 「IRREGULAR」 http://www.bekkoame.ne.jp/kibe

 「WOOD?MAN」 http://homepage2.nifty.com/~kib

 繰り返していう。まったく遅ればせながら、なのだが、サイトの運営には、これまでに感じられなかったおもしろさを覚えている。なぜ、これをもっと早くしなかったか、ということ。ホームページ作成ソフトに頼らず、マックを使っているからSimpleTextなどのエディタでHTMLを書く、それくらいならとっくの昔にできたはず。それをどうして、今になって? HTMLを書くこともまた、キーを叩くことである。それがいまの私を、サイトの運営に向わせている理由だ。サイトを開いたはいいが少しも更新しないでは、あまりに恥ずかしい。社会的に無責任すぎる。更新するためにはキーを叩かなければならない。自然とマックに向う時間が増える。そのせいで、サイトを運営するためだけでなく、何か原稿を書いてみようかという気になる。ホームページ作成ソフトを使っていたのなら、とても、キーを叩くという感じはせず、他の仕事をしてみようという気にもならなかったろう。そして、キーを叩くことで何かを表現する、創るという快感にもひたれなかったに違いないのだ。思わせぶりながら、そのへんのこともまた、いずれ書く。とにかく今は、初秋の風邪から脱出しなければという思いでいっぱい。十日ほども風邪につかまってしまっていて、理路整然とした思考ができない状態だ……。

 大阪に友人がいる。仮にT氏としておこう。T氏はDTPのプログラマーである。私と同様にマックが大好きで、デスクトップ型やノート型を複数台所有している。仕事でもマックを使っていて、息つく暇もないほどの忙しさだというから、職場でも家庭でも、朝から晩までマックにさわっていることになる。しかし、私は彼の顔を見たことがないし、彼の声も聞いたことがない。年齢は何歳で、どんな背格好をしているのかもわからない。東京と大阪に離れているから、いわゆるオフ会もしようと思わない。しかし、T氏は友人である。インターネット上で、フリーマーケットを通じて知りあった。メールの交換をするようになって、二〇〇〇年の秋で、約十か月になる。

 そもそものつきあいの始まりは、T氏がパワーブック100シリーズ用の、トラックボールを七?八個、フリーマーケットに売りに出したことだ。パワーブック100シリーズでは、100以外の機種で、トラックボールの互換が可能である。T氏の掲示を見た当時、私が何台の100シリーズマシンを所有していたか覚えていない。多くのマックを売りに出した直後だから少なかったと思うが、165、170、180と、二、三台あったはずだ。もう、あまり買うことはないだろうと思っていたが、これから先、何があってパーツを取り換えるはめになるかわからないので、私はT氏のトラックボールを買おうと思った。どこも何も故障していないわけだから、一種の強迫観念かもしれない。とにかく私は注文のメールを出し、T氏から受諾の返事をもらった。そして数日後、色も柄もさまざまなボールが届き、私はお金を払って、取り引きが無事に成立したのである。

 世間ではどうなのだろう。このようにして知り合った者同士の交際は、長く続くものであろうか。もちろんそれは人それぞれで、長く続く人もいるだろうし、短く終わる人もいるだろう。T氏と知りあう前、私も何度かフリーマーケットを利用し、互いにマックに関する考えなどをメールでやりとりしたことはあった。そうしたことは、フリーマーケットを利用する上で、誤解や事故を避けるために必要なのでる。

 しばしば聞こえてくる、フリーマーケットの詐欺事件。先にお金を振りこませておいて品物を送らない。おかしいなと思ってメールを送るがなしのつぶて。携帯電話の番号を教えてもらっていたから試しにかけてみると、それはもう使われていなかった……。こんなケースはまだまだあろう。もっと巧妙な手口もある。相手の顔も見えないし、どこに住んでいるかもわからないし。先に金を払うなんてばかじゃないかといわれるかもしれないが、では逆に、先に品物を送ってもらおうとした場合、物だけ受け取ってお金を払わないつもりでは? と、相手に疑われるのも嫌である。いちばんいいのは、お互いに時間と場所を決めて落ち合い、直接に受け渡しすること。これならば、お金をきちんと渡せるし受け取れるし、目の前で品物を確認できるから使い物にならないものを買わされる心配もない。フリーマーケットでも、直接の受け渡しを希望と、はっきり掲示する人がいる。東京都内在住者を希望します、神戸市内から車で一時間以内なら届けます、といった具合に。

 しかし、遠方の人とも距離感を気にしなくて出会えるのがインターネットのおもしろさだ。郵便や宅配便を利用すれば、わざわざ足を運ぶ手間もいらない。そこに落とし穴があって、詐欺事件も起こる。それを避けるために、郵便の場合に比べれば何倍にもなる数のメールをやりとりする。もちろん、そのような必要行為に加えて、マックがわかる相手と話をするおもしろさがある。メールのやりとりが増える最大の原因はそれだろう。そのようにして、私とT氏のつきあいは始まったのである。

 トラックボールを購入したくらいだから、私がパワーブックの100シリーズを好きだということは、T氏も了解済みである。100シリーズについての話になると、当然、お互いに熱を帯びてくる。私はパワーブック150についての話を始める。取材旅行に重宝していたのに、二度も落下させて壊してしまった因縁のマシン。T氏は、カラー表示が可能なマシン、180Cについて話し出す。T氏が初めて買ったマックが、180Cなのだ。しかし、T氏の180Cは、あまり長く使われることがないまま、別のパワーブック、Duo(デュオ)280Cにとってかわられた。外出時には必要な機能を削減した最軽量の状態で、家や仕事場ではドッキングステーションとの組み合わせでフル機能を使えるデュオは、今はその開発が打ち切られてしまったものの、アップル・コンピュータの先進性を示すものとして、パソコンの歴史にとどめられるノート型パソコンであった。

 180Cからデュオ280Cへ。T氏は、当然のことながら、パワーブックが好きである。しかし、私と知りあった時には、パワーブックは所持しておらず、デスクトップマシンだけを使っていた。それが、私がいうのもおこがましいことながら、私とパワーブックについてメールをやりとりしているうちに、今は手元にから消えてしまった、180Cへの思いがふくれあがってきたのである。

 T氏は大阪に住んでいる。大阪には、日本橋という、名高い電脳街がある。新発売のマシンはもちろん、中古やジャンクの数も豊富だ。しかし、残念ながら東京の秋葉原ほどは、店もマシンも、絶対数が少ないのである。逆に秋葉原が多すぎるのであろうが、とにかく秋葉原のようには、おいそれと目当てのマシンやパーツを探し出すことができない。実をいえば、180Cというもの自体、秋葉原でも、それほど目につかない。中古ショップに置かれていた180Cを私が目にした回数は、十回に満たないだろうか。このマシンは、カラー表示可能な、100シリーズの最終マシンということがあって、それほど安くはないのである。まず、三万円台は確実であろう。それでも、一九九三(平成五)年に売り出された時が約六十五万円だから、これを六、七年後に三万円台で買えるなら、それは値段だけ見れば安いとうことになる。もちろん、世の中は処理速度が速く、大容量のデータを扱えるパワーマックの時代になっている。そんな時に、たとえ発売時の二十分の一以下とはいえ、三万円を出す人がいるかというと、それは疑問だ。三万円を払うなら、同じお金で目の前のマシンの拡張に努めるべきだろう。

 しかし、T氏は180Cが再び気になり始めたという。できうればもう一度目の前に置いて、なにごとかに使ってみられればという。当然、メインマシンにはならない。それでも、じゅうぶん使いこめたとはいえない、あの180Cがあれば、今なら楽しい思いにひたれるはず、というのである。その気持ちは私にもわかる。しかし、現物が売りに出されなければどうしようもない。そして、湯水のごとくそれに金を注ぎこむわけにはいかない。金に糸目をつけなければ、中古ショップのサイトに、しばしば180Cの売り情報が掲載されているのだが。

 ……そんなある、冬の一日。私は秋葉原で180Cを発見した。

 秋葉原駅に近い、東京ラジオデパート。その地下の店の棚に、ガムテープで全体をひと巻きされたパワーブックの100シリーズマシンがあった。ひとめでわかるほどちょうつがいが破損しており、本体とディスプレイは完全に分かれてしまっている。そのためにガムテープで巻かれているのだ。値札はついていない。これはいったい、どうしてここにあるのか。100シリーズの外見はどれもよく似ている。灰色の直線的な筐体。しかし、カラー表示マシンとモノクロ表示マシンでは、表面に浮き彫りされたスリットの位置が違う。モノクロマシンはちょうつがいに近く、カラーマシンはちょうつがいから遠い位置にある。目の前のマシンは後者であった。'瞬間、これは180Cだと直感した。実は165Cも同じ外観なので、目の前のマシンを180Cと断じる根拠はなかったのだが、これは勘である。

 じかに触れることをためらった私は、店の主人を呼んで、これはどういうことで置かれているのか、売り物なのか、売り物ではないのかを尋ねた。さらに、このマシンは何なのか、とも。

 果たして、それは180Cであった。しかも、売り物だという。見ての通り、ちょうつがいは破損している。おまけに、液晶パネルをはさむカバーのねじ穴が割れていて、パネルがぐらぐらという有り様。しかし、動作には何の問題もないと、主人はいう。値段は一万五千円。ちょうど、私と主人のやりとりをうかがっている通りがかりの人がいて、こんなに壊れているのなら使い物にならないというふうに冷笑を浮かべていた。主人も、無理に私にすすめる様子ではなかった。しかし、私は購入することを決断した。

 その時、私の頭の中には、当然、T氏の存在があった。しかし、T氏は私が、壊れた180Cをみつけたことを知らない。私はT氏から、180Cがあったら買ってほしいと頼まれているわけでもない。当然、金額はこれくらいでといわれているわけではないのだ。だから、ここで私が一万五千円を支払っても、T氏がこれを受け取らない可能性がある。頼んでいないものをと、迷惑千万に思う可能性があるのだ。しかし、私は今ここでこれを買わなければ、180Cは手に入らないと思った。古本屋に通い詰めていたころから、何度も似た経験をしている。迷ったあげく買わずにおいた本がある。やっぱり買おうと次の日に足を運んでも、百パーセントに近い確率で、それはもうないのである。なるほど、180Cは壊れている。しかし、主人のいうとおりなら、動作には問題がないのである。実はこの時、主人は私の前で180Cを起動させていない。動作に問題はないといっても、どの程度に問題ないかわからない。最も気になるのは液晶パネルだ。時にはなはだしく劣化している場合がある。ドット落ちはもちろん、液晶全体に縞模様が入ったり、四隅が黒ずんだり、上半分がまったく表示されなかったり、あるいは私が150にしたように、落下させたことで一部分が完全に真っ黒になっていたり。しかし、主人は問題がない、実にきれいだという……。

 まるごと信じるしかなかった。おまけに、一万五千円というのは、ACアダプターがついていない、本体だけの値段だ。当然だが、その180Cを動かすためにはアダプターが必要だ。しかしそれは別売りで、主人の店で買うと七千円するという。さすがにそれはあきらめた。本当なら、それでは意味がない。モノクロマシンのためのACアダプターは複数個持っているのだが、カラーマシンには流用できない。モノクロマシンは二アンペア、カラーマシンは三アンペアの電力が必要なのである。起動に必要なアダプターを買わないで、どうして動かすのか。スキーウエアを買ってスキー板を買わない。サッカー靴を買ってサッカー・ボールを買わない。剣道の防具だけ買って竹刀を買わない。まあ、そのような状況に匹敵する。往生際の悪い私は、まったく値段だけの理由から、この場で買うのをあきらめた。そして、私は主人に梱包を託すや、銀行に行って必要な金を下ろし、180Cの本体だけを購入したのである。

 気になった液晶には、まったく問題がなかった。想像以上の美しさだった。私は180Cを持って帰宅するや、100シリーズ用のバッテリーを挿しこんで起動させた。ACアダプターに互換性はないが、バッテリーは共通して使える。しかし、バッテリーの残量が少なかったのと、カラーマシンである180Cの消費電力が猛烈だったせいで、たちまち電池切れになって動きを止めてしまった。180Cが目の前で動いていたのは、一分ほどだったろうか。それでも、表示がきれいだという主人の言葉に間違いがなかったことは確かめられた。

 ハードディスクも生きていて、前の持ち主のシステムが、そっくり残っていた。わずかの時間で判断したが、どうやら個人ユーザーの持ち物ではなかったようだ。会社の備品である。総務か経理か、いずれにせよ事務系部署のデータがそっくり残っていた。いいのだろうか? 以前、パワーブック160のジャンク品を露店で買ったことがあるのだが、その時は、医者であった以前の持ち主のデータが入っていて、おまけにそれが患者の住所や電話番号だったものだから、呆れてすぐに消してしまったことがある。あの分では、病名なども入っていたのではないか。世の中には不用意な人もあったものだ。180Cのデータはそれほど重要なものではないようだったが、この処理は後回しにすることにした。

 また、トラックボールの周辺に破損が見つかったので、これは手持ちのパーツとそっくり入れ替えた。指をすべらしてポインタを動かすトラックパッドが今日の主流だが、トラックボールも捨てがたい。これは100シリーズの魅力である。トラックボールを動かさずにマウスで用を足していたら、魅力の半分を失うも同然だと私は思う。本体を開き、ロジックボードやハードディスク、フロッピードライブをすべてむき出しにして埃を払う。トラックボール・ユニットを交換した後、本体を閉じた。ボードやドライブはすべてばらばらにすべきだったが、どこかが割れているらしく、からからという音がする。これ以上の破損は避けるため、下手な手をつけない方がいいと判断して、表面的な掃除にとどめたのである。

 このようにして、180Cには少しずつ私の手が加えられていった。ちょうつがいの破損は大きな問題だが、電気が通る部分に支障はないようである。いざとなればディスプレイ部分を本体から分離して、デスクトップマシンとして使えばいい。そんなことができるかどうかわからないが、そう思えば少しは気楽である。となると、問題はやはりACアダプターだ。後悔の念が募ってくる。こんなことなら思い切って買えばよかった、よし、明日買いに行くぞ、さっそく取り置きを頼む電話を店にかけようと思いながら、私はT氏あてのメールを書くことにした。今日、こういうものが手に入った。私が個人の一存でしたことであり、決して、買い取ってほしいと願うものではない。ただ、私の手元に今、こんなものがある、私は使おうと思わないが、どうしますか? という内容で。ボランティアのような話だが、好みを同じくする者同士のこういう心の働きは、ジャンルは違っても似たようなものだと思う。

 T氏はさっそく返事をくれた。私の申し出に応じて、どのような状態でもいいから、現物を見てみたい、送ってほしいというのである。ちょうつがいの破損は、何とかなるとはいわないが、目の前にすれば策を思いつくかもしれない。私はさっそく梱包を開始した。本体とディスプレイ部分に分け、それぞれを緩衝材でぐるぐる巻きにする。丸めた新聞紙を段ボール箱に敷き詰め、そこに180Cを寝かせたあと、さらに新聞紙を隙間なしに埋めこんでゆく。このようにして、180Cの旅の準備は整えられてゆく。私は下手くそな図も描いた。破損したちょうつがいの修理案である。もちろん、新たなパーツが入手できないことには、完全な修理は不可能だ。ねじ穴、ねじ受けが割れてしまっているのである。文章で説明することは困難だが、要するに、新たな穴を開けてそこにねじを通すことで、液晶パネルは固定できると考えたのである。下手な図というのは、修理案の図解だ。試してみたわけではなかったが、図を描いた限りでは、それは実現できそうに思われた。いっておくが、私は図画工作が大の苦手であった。それを習っていた子供のころも、いい点数をあげた記憶は一度もない。当然、穴を開けたりねじを通したりする経験、どころか想像も、ここ十数年、したことがない。それが必要にかられて、修理のため、あるいは組み立てのための立体図を描いている。おそろしい話だ。それ以上に、呆れた話だ。しかし、描かねばならない。描くことで、180Cに、私の気持ちを注ぎ込こなければならない。

 写経がある。彫り物がある。模写がある。すべて、書く、あるいは描くことである。紙に書き、体に描き、布に描き。そのようにして、自分の思いをこめてゆく。

 今にして思えば、180Cは私のものではなく、T氏のものになるのである。それでも、私が見つけ、私の責任で送ろうとしている。今は少しでも、いや最大限に、私の思いをこめなければならない。かっこうをつけていえば、ちょうつがいがなく、ACアダプターもない、満足に動かない代物であるが、念をこめればやがては動いてくれるはず、動いてほしいという願いを、形にしようとしていたのだと思う……。

 その180Cは、たった今、この原稿を書いている私の横にある。ちょうつがいが壊れた180Cは、結果的に私のものになったのだ。いったん大阪に行った180Cは、T氏によって修理された。私の案が採用され、T氏は新しい穴を開け、新たなねじを通して液晶パネルを固定した。私は私でACアダプターを購入。店の主人は、七千円といったけれども実は高いと思っていたといって、五千円にまけてくれたのである。それを後から送ることで、T氏は、問題なく動かせる180Cを再び手にすることができた。ただ、やはり新品のパーツを手に入れて、ちょうつがいの部分、ディスプレイの部分を修理できればそれにまさる結果はない。T氏はその入手に手を尽くした。そして数か月後、液晶表示に問題があるジャンク品ではあるが、各パーツは破損していない、もちろんちょうつがいの部分も破損していない、180Cを発見して購入したのである。これもやはり、インターネット上のフリーマーケットを使ってのことであった。

 私が送った180Cは、表示に問題はないがパーツが壊れている。ジャンク品はパーツに問題はないが表示に問題がある。ふたつを合わせれば、完全な180Cが完成する理屈だ。T氏はさっそくそれを実行し、不完全品として余分になった180Cが私のところに来た。新しい穴が開けられてはいるものの、外側を見れば、それは私が秋葉原で購入して大阪に送った180Cである。東京から大阪へ。そしてまた、大阪から東京へ。180Cは東海道を西へ東へ移動して、やっと、居所を見つけることができた。私が、その180Cを修理したことはいうまでもない。秋葉原を半日巡れば、完全な液晶表示を得るための部品くらい、手に入るのである。その後はメモリも増やし、より強力になった180Cが、他の15台の100シリーズの最高位に位置する形で、本箱に収まっている。液晶パネルを固定するため、銀色に輝くねじが四本突き出た姿ではある。しかし、これもサイボーグのようで、捨てがたいありさま。こうなることが、このマシンの運命であった。不満なく、それを受け入れてくれているだろうと思っている。

■12

「そのキーを叩け!」

十二

 眠い。疲れている。風邪が治ったと思ったら花粉症である。ブタクサの花粉症? そんなものは初めて聞いた。しかし、この喉のいがらっぽさ、鼻の奥でしばしば起こるむずがゆさは、花粉症以外の何物でもない。それでも、風邪で滞っていた仕事を片づけなければならない。消耗した体力は、なかなか元に戻らない。集中力は体力がないと生まれない。集中できないから、ついパソコンのゲームに手を出してしまう。いったん手を出すと、もう一度、もう一度という悪循環。ピンボールゲームなどして何になる? ハイスコアなど出して何になる? 疲れているならあっさり寝てしまえばいいものを。しかし、キーを叩かなければいけない。叩かなければ、文章が生まれてこない。文章が生まれてこないことには、生きていけない。そのためには、机に向ってキーボードに向わなければ。そのようにして手を出してしまう、ゲーム。キリがない……。

 この原稿を、私はIBMのThinkPad i Series(シンクパッド・アイ・シリーズ)1200で書き始めた。まとめなければならない段階の今はマッキントッシュのPowerBook G3/333に戻っているけれども、とにかく書き出しはThinkPad。なぜ? あれほどマック、マックと騒いでいたじゃないか。寝返ったのか、日和ったのか、それとも転向したのか、よりにもよってビッグブルー、大IBMとは、裏切り者か? まあ、今ではIBMをそれほど過大に評価する人はいないかもしれないが、とにかく、アップル社、マッキントッシュとは百八十度、毛色の違う企業だ。そのマシンを私が使い、おまけにWindows Me(ウィンドウズ・ミー)なるOSを使っている。ウィンドウズ98の改良版、ミレニアム・エディションの頭文字を取って、Meと呼ばれるOSである。ウィンドウズ? マックの仇敵ではないか。マックの真似をして世に現れた、マックもどきじゃないか。そんなものを使うことにためらいは? いくら、世の中の大部分が使っているとはいえ……。それに第一、マック一辺倒の人間に、使えるのか?

 すべて、当然の疑問である。この質問には、試行錯誤しながらも使えるようになってきたと答えておこう。

 たった今、二〇〇〇年十月十八日夜に放送されている、NHKの「クローズアップ現代」。それに作家のマイケル・クライトンが出演している。『アンドロメダ病原体』『ライジング・サン』『ジュラシック・パーク』『ロスト・ワールド』などを著したベストセラー作家。テレビの人気番組『ER/緊急救命室』の原作者でもある。作家の仕事風景はただでさえ刺激的なのに、クライトンは最新のマッキントッシュ、G4 Cube(キューブ)を使って原稿を書いていた。その映像を見ただけで、うらやましいと思う。しかも、書斎がみごとに整理されていることにも驚く。キューブのスマートなデザインは、整理された書斎に似合う。ああ、私もマックで原稿が書きたい。こうして、いつ終わるともしれない原稿を、たった今も書いているのに、マイケル・クライトンを見ただけで、我が身を省みず、そう思ってしまう。それほどマックで原稿を書きたい。にもかかわらず、なぜ、ウィンドウズ・マシンを?

 人間は、ものを創る人間と創らない人間に分類されるかもしれない。

 無理やりに創る必要はないし、創らなくても何ら問題はない。創る側は偉くて創らない側に価値がない、あるいは少ないなどとは思わない。創る必要がないのに、どうして無理に創る必要があるだろう。しかし、音楽に演奏する側と鑑賞する側の違いがあるように、小説に書く側と読む側の違いがあるように、人間には決定的に、タイプがある。それが、ものを創るタイプと、創らない、受け取るだけのタイプ。

 ある場面では創る側にいるのに、ある場面では受け取る側にいるということがあるだろう。天は二物を与えずと、同じことである。

 偉そうなことを考えていても朝食ひとつ作れない人間がいる。ものを食べている暇などないんだとうそぶいても駄目だ。食事は人間を作るもの。食事せずに生きていける人間などいない。食事は創造の部類に入る。もちろん、何の探求心もなしに料理に向うのと、何とかしておいしい、栄養のある料理を生みだそうとする人間では異なる。見事な料理は創造の名に値し、創造と呼べる料理を口にする人間を別の創造に向わせてくれる。

 演技ではものすごい才能を発揮する役者が、実生活の面、たとえば金銭感覚にはまったく疎いという話をよく聞く。芝居の世界では、それを役者子供と呼び、愛嬌あるタイプと受け留めていた。数年前に亡くなった松竹新喜劇の藤山寛美など、その典型であった。豪遊して支払いの段になった時、寛美は財布ごと店の者に渡して、好きなだけ取らせることがあったという。そんな人柄のため借金は莫大だったが、彼の懐に入ってくる金も莫大だった。第一、寛美には誰もが認める芸があった。芸もないのに金だけあったわけではない。もちろん芸がなければ金も入ってこないだろうが、寛美ならばかな遊びをしてもいいし、それで身を持ち崩すことはないし、他でどんなひどいことをしても舞台ですばらしい芸を披露してくれればそれでいい、何しろ寛美の代わりになる役者など、この日本に一人もいないのだからと、人をして納得させてしまうところがあった。極論してよければ、昔の名優と呼ばれた人は、ほとんどそのタイプであったはずだ。

 しかし、社会が細かくなるにつれて、寛美のような役者子供は、なかなか許されなくなった。小さくなるとは、細く、弱く、もろく、小振りになってゆくこと。常に相手の心を思いやり、戦いは避け、話し合いを重んじ、優しく、柔らかく、きれいになることを求める。おおざっぱはいけないし、むちゃもいけないし、過剰さも熱っぽさも力強さもいけない。最も嫌われるのは傍若無人な態度だ。今の世の中は、天才役者にも、常識をわきまえた行動を求める。世間に尊敬される役者なら、他人に対する態度も、尊敬に値するものでなければならないというわけ。

 寛美の名を持ち出すまでもない。一時代前のサラリーマン、ビジネスマンを思い返してみればいい。会社人間といわれる人は、ある程度以上の仕事ができれば、家のことなど全然かまわないでよかった。むしろ、家など顧みず、仕事に熱中する人間ほど尊敬された。過労で死に至っても、それは戦死などと呼ばれて、他人にはあっぱれと思われた。もちろん、家族が何を思うかは別の話である。猛烈な仕事が行き過ぎて公害などの環境破壊を生んだが、それもまた別の話。日本では明治時代、すでに足尾銅山の鉱毒事件が起こっているのだから公害の怖さに皆が気づいていいはずなのに、戦後の高度成長期が終焉を迎えるころ、やっと公害問題がいわれるようになる。これもまた、社会が仕事人間、会社人間でみちあふれていたせいか。

 しかし、今や仕事しかできない存在など、誰も許さない。まず第一に考えるべきは家庭、次の次の、そのまた次くらいが会社という順序だ。これでは猛烈な会社人間など生まれない代わりに、誰にも負けない仕事師、ビジネスマンなどというものも、生まれないだろう。つまり、偏った人間を求めないのが現代社会。けっこうである。家庭環境にも自然環境にもすべからく眼を配るのがいい。石油を売って大もうけなどと馬鹿なことをいっているから、戦争にもなるし、自然をも破壊する。

 そうした近代・現代の過ちに気がついて、私たちはできるだけ小さく、優しく、形のいいものを求めるようになった。圧倒的な個性で人をリードする人間、常識外れの強さで苦難を切り開いていく人間、誰にも真似できない創造力を発揮する人間など、はた迷惑に決まっているのだ。何でも一人でできればいいが、例えば絵画の展覧会にしても他人の力がなければ開けない。映画の撮影など大勢の人間の協力が必要だ。音楽の演奏だって、作曲家にはできないこと。独り芝居があるとはいっても野原でいきなり始めるのか? 小説を書いたところで誰が印刷して配るというのか? この世の中、一人では何もできない。必ず他人と交わることが必要になってくる。そこで個性が衝突てしまうのだ。その衝突にひるむことなく、突っ走っていけるかどうか。他人の迷惑など気にしていては何もできない。しかし、細くて弱くて優しい世界に生きる人間に、迷惑など気にしないでということは、そもそも不可能なのである。戦後民主主義は周囲の思惑ばかり気にする人間を育ててしまった。

 それでも、われわれと同じ空気を吸う現代に、他人のことなど考えずに強烈な個性を発揮する人間がいる。

 アップル社のスティーヴ・ジョブズ。マイクロソフト社のビル・ゲイツ。彼らはおそらく、現代を代表するはた迷惑な二人である。はた迷惑な、というと言葉が悪いかもしれないが、他人の思惑などおかまいなしに自分の意志を貫き通さないことには、あそこまで成功することはできなかっただろう。もしも二人と近づきになる機会があったとしても、私はそれを望まない。すみっこからのぞき見るだけでいい。いや、それも必要ない。私はファンではない。取り巻きではない。彼らの機嫌を取り結びそうになる自分が見えて嫌だ。フリーライターとして、長く他人のインタビューを続けてきた。その屈辱感は、今も私の中に残っている。他人の言葉を聞いて、しかもそれを原稿にする。一時間か二時間、自分をばかにして、他人の言葉を引き出す。何という無駄なこと。そんな暇があったら、自分自身の文章を、一行でも、いや一語でも、マックに向って叩きつけた方がいい。

 だから、私はジョブズとゲイツを主人公にしたテレビ映画『パイレーツ・オブ・シリコンバレー』を興味深く観た。一種の疑似体験として。実在のジョブズとゲイツには会わなくていい。会えば、嫌な面といい面を見て、それ自体が興味深い体験になることはわかっている。しかし私は、テレビ映画で体験できる程度の理解でかまわない。テレビ映画でさえ、私は面白いと思って何度となく観た。それですら時間をとられるのに、実際の人物に会えば、この何十倍、何百倍の時間を、二人に費やさなければならない。そんな時間があれば一行でも自分の文章を……。後は繰り返しだ。

 一九九九年にアメリカで放送されたこのテレビ映画は、日本での放送はないが、『バトル・オブ・シリコンバレー』という邦題を与えられて、ビデオ・レンタルが行われている。ハイテク企業が集まる、カリフォルニア州のシリコンバレー。そこを舞台にした闘い。あるいは原題通りに、シリコンバレーを根城にした、海賊たち。いずれの題も悪くはない。しかし、自分が生き残って成功するためには他人のものを奪い取ることなど何とも思っていない海賊、その闘いであるという意味合いをこめた方が、内容には即したものとなる。これは単なる闘いではない。奪い合いなのだということ。

 私はこの作品を観るたびに、前に観た時には気づかなかった発見をする。映像作品としてどうかということは、あまり問うまい。水準は超えていると思う。少なくとも保っている。しかし、実在の人物や企業にモデルを求めた作品が、真に独創的なものになる可能性は低い。実際にあったできごとの細部は省略されてしまっているだろうし、正確さも欠いているだろう。第一、物語は作り手の解釈でくくられてしまう。実在の人物は本人にも解釈不能できないほど多様な要素を秘めているのに、映像作品になった時は、作り手の解釈ひとつに収束させられる。

 もちろん、それでもいい。描かれる人物や場面に何通りもの解釈が成立したら、観る者は混乱する。それでも、ジョブズやゲイツが、どうしてコンピュータの世界にひかれたのか。彼らをひきつけるコンピュータの魅力とは何なのか。二人をあそこまで、暴走といっていい熱狂的行為にかりたてるのは何なのか。原因は外的な要素にあるのか、二人の内的要素にあるのか。あるいは題名に織りこまれたシリコンバレーと呼ばれる土地、そこで働く多くの人に共通する資質がああなのか。もっと示唆していい部分ではないだろうか。観る者が考えろということかもしれないが、そのへんの浅さは、どうしても感じてしまう。

 『パイレーツ・オブ・シリコンバレー』は、今や伝説になっている、マッキントッシュ発売時のコマーシャル映画撮影シーンに始まる。一九八四年のことである。物語はそこから、一気に七〇年代初めにさかのぼる。UCバークレー校にいたスティーヴ・ジョブズが、友人のスティーヴ・ウォズニアックとパーソナル・コンピュータの製作に手を染めるうち、アップル社を創立。場所は、ジョブズ家のガレージであった。ヒッピー同然で、身なりなどまったく構わないジョブズたちだったが、歴史上にかつてなかったパーソナル・コンピュータは若者たちを虜にし、ジョブズは一躍、シリコンバレーの寵児となる。アップル][の大ヒットに続いて、マッキントッシュを開発したジョブズは世界にその名を知られ、無敵の進撃を続ける。ところが、その唯我独尊といえる強引な性格が災いした。親友のウォズニアックは会社を去り、部下は一人としてジョブズを尊敬していない。ついにアップル社は彼を追放。これは映画に描かれていない部分だが、その後のジョブズはネクスト社を創立して、敗北を喫する。そして数年後、ジョブズは劇的なアップル復帰を果たし、再びトップの座に返り咲くのである。このように書いているだけで、母なる国を追放された王子が、艱難辛苦の果てに故国に舞い戻り、今度は王として迎えられる、古の貴種流離譚を思い出す。

 片やゲイツは、見たところ、徹底的に俗な人間として描かれている。ジョブズがクラシック音楽に酔っている姿は何度も描かれるのに、ゲイツが好む音楽は、シナトラの『マイ・ウエイ』。友人とストリップに出かけ、飲んだくれて前後不覚になり、ローラースケート場で女性に声をかけてふられ、何度もスピード違反を起こしてブタ箱入り。高邁な理想を追うジョブズとはあくまで対照的な人物像だ。そんなゲイツも、ハーバード大学時代からコンピュータのプログラミングに精を出す変わり者だった。やがて、友人のスティーヴ・バルマーらとマイクロソフト社を創立。こちらもアップル社同様、ちっぽけな会社だ。そんな彼らにとって、一歩先をゆくジョブズとアップル社は、まばゆくも小憎らしい存在と映る。しかしゲイツは一歩一歩、ジョブズに迫ってゆく。名もないプログラマーが開発したOSを買い取ってIBMに売りつけ、ジョブズに近づいてマックの試作品を手に入れ、ついにウィンドウズを開発する。ジョブズとアップル社の存在を意識し、試行錯誤しながらも、コンピュータソフトの開発と販売で、ゲイツは世界一の大富豪となる。クライマックスではジョブズに対し、きみたちが作ろうとしている芸術品など大衆は求めていないとまで大見えを切って、一気にアップル社を抜き去ってゆくのである。

 そんな『パイレーツ・オブ・シリコンバレー』は、ものを創る人間の話だと、私には見えた。ジョブズをわがままだといい、ゲイツを拝金主義といっても、彼らが誰もしなかったことをなしとげたのは事実である。何もしなくてわがまま、何もしなくて拝金主義というわけではない。そう思うからこそ、私はこの映画に刺激されたのである。はっきりいおう。マックのよさを吹聴しているだけでは、永遠に、ジョブズにもゲイツにもなれない。もちろんなれなくていいのだが、ジョブズやゲイツの意志に振り回されるだけに終わってしまうことには疑問を持つ。もちろん私はマックが好きだ。初代のマッキントッシュ128Kから最新のG4キューヴまで、一日中触っていられたらどんなに幸せか。触るのである。それを使って何か創り出そうというのではない。蓋を開けたり閉めたり。中を磨いたり埃を取ったり。あるいは色を塗るか。中身をそっくり入れ換えるか。無駄ではない。愛するマシンをいつまでも使うのはけっこうなこと。しかし、それで自分は何になるのか? 何にもならぬ。変わったのはマックだけ。ユーザー本人は何も変わらない。マック信奉者がばかにするビル・ゲイツほどの甲斐性もない。

 初めに書いたとおり、この原稿を、私はウィンドウズ・マシンで書いている。IBMのThinkPad(シンク・パッド)をレンタルで入手したのである。プロバイダのO社に、インターネット接続料とマシンのレンタル料を合わせた支払いシステムがあり、それと契約すれば、O社を使ったインターネット接続ができるばかりか、ウィンドウズ・マシンを借りることができる。選択肢はデスクトップ・マシン一種類、ノート型マシン二種類。当然、ノート型を選ぶのだが、そのうちの一台がThinkPadである。これはパワーブック2400を設計したことでアップル社と馴染みの深いIBMの製品であること。私自身、初期のサブノート・マシンとして評価されているThinkPad220を、人に譲られて以前から所有していたこと。さらに、レンタルできるもうひとつのノート型マシンが、アラン・ケイが提唱したパーソナル・コンピュータの考え方、「ダイナブック」を商品名にしたものであるため、それを使うことには抵抗があること。こうした理由から、必然的にThinkPadを私は選択した。

 前回に触れたが、私はウエブサイトを開いている。マッキントッシュとウィンドウズとでは、見え方が微妙に異なるという。マックが好きなことは少しも変わらないが、世の中の多くの人が使っているウィンドウズで、私のサイトがどのように見えているかわからないでは不安だ。確認をしなければならない。しなければならないという義務感に加えて、ウィンドウズがどのようなものであるのか、多くの人はどんな環境でパソコンを使っているのかという興味もある。批判するにも相手を知らなければできないのは当然の話。

 また、西新宿のインターネット・カフェでホームページ作成考座に参加したのだが、そこで使われたOSは、マックではなくウィンドウズであった。店内にiMacはあるのだが、講座がウィンドウズで行われるのだから、iMacを使っても仕方がない。マックに親しむ人間にとって、ウィンドウズで使って進行する講座は、たいへんに苦痛である。左クリックはともかく、右クリックなど何のことかわからない。拡張子が意味することなど、さらにわからない。インターネットカフェは三十分単位で使用料が加算されていくのだが、ウィンドウズでは、画面のどこに時間が表示されているかもわからず、時間の経過が不安で仕方がなかったほど。あまりに屈辱なのでウィンドウズ・マシンを入手しようと思った。もちろん、インターネット・カフェの責任ではない。ウィンドウズの使い方がわからないことを屈辱と思うのは、私の感覚である。

 そのような中で、私は『パイレーツ・オブ・シリコンバレー』を繰り返し観たのである。そして、使う楽しみより、生みだす苦しみの方を選択しなければならないと、改めて感じた。素朴な話、ゲイツがどんなものを作っているのかということも知りたいと思った。別にウィンドウズを使ったからといって、洗脳されるわけではあるまい。もちろんマイクロソフト社を儲けさせることにはなるだろうが、鉛筆一本、消しゴム一個を買ってもどこかは儲かる仕組みだ。パソコン関係でのみ純粋さを保とうとしても、別方面ではとっくの昔に汚れている身なのである。

 パソコンに関する限り、私は死ぬまで一ユーザーに過ぎない。すなわち、企業の思惑に振り回される身分。アップル社で開発に携わっているならまだしも、そうでない者が、アップル社のお先棒を担ぐようにして、マックだマックだと触れ回ることはない。もちろん、アップルの悪口をいうことはないし、いきなりマイクロソフトに鞍替えするわけでもない。ただ、自分の使いやすいもの、使いたいものを、手にするだけだ。いい原稿が書けるなら、老舗文房具屋の原稿用紙にこだわることはない。スーパーが配っている広告の裏を使うのでじゅうぶんすぎるほど。そう思わない人はいるだろうが、私が支持するのは、その考え方だ。

 さて、ウィンドウズ・マシンの特徴に関して、とりわけ感想はない。感想をいだくほどには、いまだ使いこんでいないから。ウィンドウズでは画面の下に、マックのメニューバーに相当するタスクバーが表示されるが、それをマック風に、上に持っていくなどして、自分なりの変更を加えている。いずれはアイコンもマックに似せたものにしようと思っている。そのようにしながら数年以上使いこまなければ、感想など生まれるものではない。

 似通ってきたとはいえ、OSがまるで違うマシンを使っているのだから、私にとって、ウィンドウズの使い勝手が悪いのは当然である。慣れてしまえばどちらがいいとはいえなくなる。マックのやわらかさが好き、ウィンドウズの四角張った表示がきらいといっても、やわらかいものにも四角なものにもそれぞれいい面はあるのだから、これはもう、アップル社の思想、マイクロソフト社の思想というところまで話を広げなければ優劣はつけられない。もちろんその方面の優劣をつけることも可能だろうが、そこに費やす時間は、残念ながらないのである。

 このような言い方は読者を鼻白ませてしまうかもしれないが、私にとっては大切なことなので、書いておく。今の私には心の余裕がない。マックでもいいしウィンドウズでもいいが、趣味のために何かを選べるほど、心に空きがない。選ぶとしたら、それは生きるためである。心の余裕が大事なものであることは承知している。貧すれば鈍するという言い方があることもわかっている。仕事を失いそうになると、つい他人の顔色をうかがう。もしかして、その人が仕事をくれるかもしれないから。そんな体験も何度かしている。そのたびに、後で惨めな思いをする。心に余裕があれば、そんなことにはならない。心の余裕は、まことに残念ではあるが、金銭の余裕で得られることが多い。金銭の余裕が何で得られるかというと、仕事の有無で得られるのである。余裕のあるところでマックをいじる時期は、はるか彼方に遠ざかった。今は、ものを創らなければならない。創って、結果的に、心の余裕を持たなければならない。G4キューブがどうしたこうした、そんなことをいえるのは、まだずっと先の話。ある意味で情けないが、ウィンドウズですばらしい原稿が書ける保障があれば、そちらに乗り換えてしまうかもしれない。かろうじてマックがメインだといっているのは、生き死にの段階に、まだ至っていないからか。

 私は小説を売らなければならない。売れる原稿を書かなければならない。そのためになら、手段、すなわち道具は選ばない。選んでいては死んでしまう。今は死ななくても、将来、死ぬであろう。生きるため、作品を書くためなら、ウィンドウズだって使わなければならないのである。

■13

「そのキーを叩け!」

十三

 私としては久しぶりでLinux(リナックス)関係の情報を得た。こんなことはすでに多くの人が知っているだろう。これまでパソコンのOS開発とインターネットの分野で、世界に遅れをとっていた中国。それがオープンソースのOS、リナックスを使うことで、一気に市場を拡大していこうとしている。他の国と同様に中国でもウィンドウズが圧倒的なシェアを誇っているが、リナックスを使う側の意気は盛んだ。何しろ、人口十億以上の中国人を相手に、パソコンを普及させようとしているのだから、桁が違う。現在の普及率は、全人口の一割にも満たない。残りの人々が相手になるのなら、いったいどれくらいの儲けが見こめるのか。IBMやヒューレットパッカードなど、世界的なコンピュータ企業が、中国の動向に関心をそそいでいる……。

 十月二十二日に放送された、NHKの『世紀を超えて「テクノロジー・あくなき挑戦」』の第五集「インターネット 公開技術の衝撃」を観て、久しぶりに、題名がうたっているとおりの衝撃を受けた。市場がどうの、儲かるのがどうのという話にではない。その方面には無縁だし、むしろ嫌いである。私が衝撃を受けたのは、やはりリナックスの思想に、感銘を受けざるを得ないということ。マックの愛好者であり、ウィンドウズも使うようになったが、リナックスの考え方は、私をとらえる。私だけでなく多くの人がリナックスに好意を抱くはずだ。何しろ、秘密をなくしているのだから。コンピュータを動かすためのOSに、秘密がない。しかも誰もが無償で手に入れられて、誰の制約も受けずに自分の手を加えられる。もちろん、中国などは国営企業がリナックスを利用し、世界的な企業がリナックスを使った商売をもくろんでいるのだから、複雑な人間の思惑が、リナックスを取り巻いていることは事実だ。がんじがらめにして独占しようとしている連中もいるだろう。他人に抜きんでようとする腹黒い人間たちにしてみれば、フィンランドの学生が作ったとか、世界中のプログラマーが無償でリナックスの開発に手を貸しているなどということは、製品を売るためのコピー程度の価値しか持たないだろう。私たちは、社会の現実を見る必要がある。いつまでも学生みたいな理想論をぶっていては、現実味のある話で読者の心を動かすような原稿は書けないのである。しかし、儲けのことしか考えていない人間、腹黒い人間が多いからこそ、リナックスのような、秘密はなしにする、この円の中に入ってくるのは誰でも自由、そんな姿勢に共感してしまう。

(日記)

一九九九年三月十日 久しぶりでS社を訪れ、S氏に会う。話をしているうち、リナックスについて何か書いてみてはという話になった。リナックスというOSが注目されていることは知っていた。特に印象に残っているのは、二月七日の日本経済新聞の、「見えてきた! Tマイクロソフト帝国U崩壊のシナリオ」という大きな記事。ビル・ゲイツ率いるマイクロソフト社のOS、ウィンドウズの支配に異を唱えようと、パソコンにインストールされたウィンドウズ代を返してもらってリナックスを使おうとする人々がいるという。マックの愛好者にすれば、ウィンドウズに対抗するのはマックという思いがあるが、現実はリナックスだ。S氏は私に、リナックス関係の新聞や雑誌記事などをいくつかコピーして渡してくれる。しかし、私に何が書けるというのか。コミュニケーション論ということを直感する。パソコンとは、基本的にコミュニケーションの道具であるということが頭にある。原稿を書くのも、絵を描くのも、音楽を創るのも、すべてはコミュニケーションのため。インターネットがコミュニケーション手段であることは、いうまでもない。しかし、私はコンピュータの専門家ではない。難しい話ではなく、基本的には体験記になると思う。

 およそ一年半前の日記である。私は日記などつける人間ではない。しかし、ここに書いてあるように、ある出版社の人から、リナックスに関する記事を書いてはどうかとすすめられた。打ち明けると、私は仕事がほしかった。S氏に会えば、何か仕事が得られるのではと思い、呼ばれてもいないのに出かけていったのだ。先に、商売に走る人間は嫌いと書いたが、お金は儲けなければならない。それをしないと、人間、干上がってしまう。しかし、必要以上の儲けは嫌いだ。何が必要で何が必要でないかの判断は難しい。家が大きくなれば、それに見合った家具調度が必要になってくる。貧しい人には不要でも、富める者には必要。お金はいくらあっても不足ということはない。しかし、やはり、常識的な枠はある。自分を含めた家族が生きていくため、それ以上のお金の心配はしなくていい。限界はここにとどめておくべきだろう。私のように、月々の必要経費を払い続けたら、一か月で何もなくなってしまう状態など、不安で仕方ない。フリーの身の上、病気で倒れたらおしまいであろう。そのためには、現状は、いくら仕事があっても、ありすぎることはない。そこで訪ねたS社なのであった。S氏にリナックス論をすすめられた私は、帰宅するや、ただちに心覚えの日記を書き始めた。ただし、結論をいっておくと、最後にはリナックスを使うことをあきらめた。インストールには成功したのだが、使いこなすことができなかった。いまだにマック、そしてウィンドウズ以外のOSを使ったことはない。いろいろな機会に、リナックスという名前を耳にする。そのたびに、使えなかったあのころの悔しさが、頭をよぎる。もちろん、誰にだって失敗はある。初めからスムーズに使いこなせた人は一人もいないだろう。使える人も、使いながら試行錯誤を続けているのである。数十日、いろいろと試したくらいで諦めるのは早かったのだ。しかし、私は惜しかった。リナックスのために費やす、一日何時間の時間が。こんなことをしていては原稿が書けないじゃないかと、追いつめられると発する、最後の怒りが出てしまった……。

 そのころに集めた新聞記事のうち、毎日新聞のもの、それぞれの一部を引用していこう。リナックスが一般紙に紹介され始めたころのものといっていい。

● 「ウィンドウズ」組み込み販売 使わないので代金を返して 米国で盛り上がる運動(九九年二月十四日)

 マイクロソフトのパソコン基本ソフト(OS)「ウィンドウズ」をあらかじめ組み込んであるパソコンの購入者の間で、「ウィンドウズは使わないので、その分の代金を返して」という「返金運動」が、米国を中心に広がってきた。インターネット上では、「十五日を世界共通の行動日にしよう」という呼びかけが流れている。東芝がオーストラリアで返金に応じた例もあり、「運動」が盛り上がると、国内メーカーも対応に苦労しそうだ。

 返金運動の主役は、インターネットで無償公開され、世界に八〇〇万人以上が使っているとされるOS「LINUX(リナックス)」の利用者たち。十五日(米国時間)には、パソコンメーカーに対して一斉にウィンドウズ分の代金返還を請求するよう呼びかけ、米マイクロソフトのオフィスにも集団で返還請求に行き、その様子をインターネットで中継するという。(後略)

● ウィンドウズ返金運動----マイクロソフト独占に一石(九九年二月二五日)

 (前略)リナックスは、フィンランドの学生が中心となって一九九一年に開発し、プログラムの内部構造をインターネット上で公開した。すると、腕に覚えのある世界中のプログラマーが、次々とボランティアで改良を加えたため、今では商用OSに引けを取らない安定した性能をもつまでになった。世界中で八〇〇万人以上が使っていると推計されている。

 こうしたOSの普及は、メーカーが自社の責任で開発・販売する代わりに、OS内部は「知的所有権」として非公開にする従来のソフトビジネスと正面からぶつかる。米マイクロソフトは「返金運動は当社に対する嫌がらせだ」と反発している。

 運動は今のところ、パソコンの一般利用者を巻き込むほどの広がりは見せていない。リナックスは専門知識がないと、パソコンに組み込むことも難しい上、このOSで動くワープロや表計算などの応用ソフトも入手しにくく、初心者にはまだ敷居が高いからだ。当面は、企業向けネットワーク用に利用が広がると予想される。国内外のパソコンメーカーは、返金運動の盛り上がりを警戒しながらも、緊急に対策を講じる必要はないと見ているようだ。(後略)

● デジタル時代を読む1999 Linux、ビジネス分野へ(九九年二月二六日)

 コンピューターの世界で、Linuxの風が吹き荒れている。Linuxはサーバーやワークステーションなどで広く利用されているUNIXと互換性を持ち、パソコン上で動作するOSだ。ウィンドウズやマックOSのようなメーカーOSと違い、それ自体は無料で使用できる「フリーウエア」。また低価格のハードでも安定して動作する。主として大学や研究機関で利用されていたが、Linux版のデータベースソフトも発売されるなど、ビジネス分野にも乗り出そうとしている。

 低価格で人気 Linuxは「リヌクス」「ライナックス」「リナックス」などと読まれる。正しくは「リヌクス」だが、業界でも最近は「リナックス」と呼ぶ人が多い。

 一九九一年、ヘルシンキ大学(フィンランド)の学生でUNIXを研究していたリーナス・トーバルズ氏が経験を生かしてゼロから作り上げた。インターネットで公開され、世界中のボランティア研究者がさまざまなソフトを開発し、組み合わせて発展させてきた。

 これに昨年秋、火がついた。世界最大のパソコン用プロセッサーメーカーの米インテルなどが、Linuxにインストーラーなどをセットにした配布パッケージを開発・販売している米レッドハット・ソフトウエアに出資。Linuxを支援していくことを表明したからだ。

 Linuxはもともと商用OSにはまねのできない低価格で人気を集めていた。しかし、手作りで開発されたため周辺機器への対応などに弱く、やや専門的な知識も必要なことから、利用は学生や研究者にとどまっていた。それがインテルの支持を得ることで、マイクロソフトのウィンドウズの代替OSとして注目されるようになった。(後略)

● 無償の基本ソフト、「Linux」が日本に上陸----ウィンドウズ支配ゆらぐ?(九九年三月十七日)

 日本アイ・ビー・エム、NEC、富士通の大手コンピューターメーカー三社が十六日までに、無償のOS(基本ソフト)として最近注目されている「Linux(リナックス)」の採用を表明した。企業向けのネットワークづくりに使うサーバー用コンピューターで、リナックスを使ったビジネスを本格展開する。米国でも大手メーカーがリナックス対応を表明しており、マイクロソフトのOS「ウィンドウズ」の圧倒的な市場支配がゆらぐ可能性が現実味を帯びてきた。

 また、日本語ワープロ「一太郎」を販売する大手ソフト会社のジャストシステムも同日、日本語入力システム「ATOK(エートック)」のリナックス版を七月に発売すると発表した。専門知識のある上級者が中心だったリナックスに、定評のある日本語入力が対応することで、リナックスの普及に拍車がかかりそうだ。

 メーカー各社がリナックスを採用するのは、基本的に無償であるため、企業が築くネットワークが大規模になるほど、マイクロソフトのネットワーク用OS「ウィンドウズNT」など既存の商用OSに比べコストを節約できるのが最大の理由だ。(後略)

 前回、スティーブ・ジョブズとビル・ゲイツの愛憎を描いたテレビ映画『バトル・オブ・シリコンバレー』のことを書いた。マックだろうがウィンドウズだろうが、ものを創るという観点でいえば、たいして違わないのではないかと思ったことも書いた。それは今も変わっていない。しかし、リナックスという存在をそこに持ちこむと、話はいささか違ってくる。ジョブズにせよゲイツにせよ、パソコンおよびソフトの開発がビジネスに結びつくという点では同じだ。時に勝者と敗者に分かれるにせよ、二人はビジネスをしている。いかに創造的な仕事であれ、それは金銭に直結するのである。もちろん、金銭けっこう。しかし、リナックスにこめられた思想、開発者であるフィンランド人リーナス・トーバルズの姿勢は、先のアメリカ人二人とはまったく異なる。リーナス・トーバルズとて人間。お金はほしいだろう。私たちの知らないところで、彼とて何か、怪しげなことを考えているかもしれない。だが、全世界の人間がボランティア・ベースでリナックスに携わっているのに、肝心の開発者が、どこかの企業と闇の取引をするだろうか? 少なくともリナックスに関心のある人間で、リーナス・トーバルズの名前と顔を知らない人はいないのである。そんな人間が裏世界で暗躍するなど、考えられないこと。やはり、彼は最後までボランティアとして生き、ボランティアとして死んでいくのであろう。

 日記を読み返してみると、当時の私は、リナックスのインストールに頭を悩ませている。あのころは、パワーブックの3400をメイン・マシンに使っていた。「日経MAC」、「MacFan」といった雑誌が、マックユーザーでも使えるリナックスを紹介している。付属のCD?ROMにはインストール用のデータもついていた。さっそく、マシンにインストールして使ってみようと思った。ところが、すでに使っているハードディスクにはインストールできない。マックOSが先に場所を占めているからだ。リナックスを使うためには、インストールのために、新たな場所を用意しなければならない。内蔵のハードディスクを使うより、取り外しがきく外付けハードディスクを購入するのが確実で安全な方法である。しかし、ここで用意しなければならないのは、当然、先立つもの。お金である。S氏に会った背景には、新たな仕事を得ようという心積もりがあった。そのために、リナックスを使ってみようとした。そこで必要になってきた、金銭。仕事を得るためには投資も必要だ。それは間違いない。しかし、仕事を得られなければ、投資は失敗したということになる。

一九九九年三月十二日 リナックスをインストールするため、思いきって外付けハードディスクを買うことにした。これまでの経験からして、私は絶対に失敗する。3400の中身のバックアップを取り、内蔵ハードディスクを初期化。マックとリナックス、異なるOSを共存させるための領域を二つ作っても、リナックス側で何度も何度もインストールしたり初期化してりしては、マックの側に何かの影響が出るかもしれない。それどころか、内蔵ハードディスクそのものが異状をきたすかもしれない。外付けにすれば、3400の内部には無関係だから、それがいちばんの安全策である。新宿に出かけて本屋に寄ると、「MacFan internet」の四月号がTMacでLinuxでインターネットUという特集をしていた。インストール方法には詳しく触れてない。インストールした後、いかにリナックスでインターネットを楽しむかという内容である。同じ毎日コミュニケーションズから発売される「MacFan」も、次号でリナックスも特集を行うらしい。私程度の人間がリナックスに興味を持っているのである。社会の目がリナックスに興味を持ち出した証拠だ。……しかし、午前三時になっても、インストールは成功しない。「日経MAC」の付録CD?ROMは、インストールの指示がすべて英語で出る。もちろん、難しいことは少しもいっていない。しかし、作業の進行に確信が持てないまま、失敗し続けている。外付けハードディスクは二度、初期化された。あきらめて寝る。

三月十三日 朝になって、混じり気のない頭で、再びインストール開始。インターネットで、インストールの手順を日本語で紹介している記事を検索。それをダウンロードして参考にするが、やはり、駄目。英語力うんぬんではなく、用語やコマンドに、頭がついていかない。さらにインターネットでリナックス関係のサイトを読むうち、そこに使われている、タコという言葉にひっかかった。ある人々、それはリナックスの、日本での普及をめざす人々なのだが、彼らは初心者をタコと呼んでいる。タコはいわゆるビギナーで、未熟な存在だが、同時に、未熟さを自覚して、そのレベルを脱しようともがいている、愛すべき存在、われわれはタコを大事にしなければ、ということも書かれていた。しかし、残念ながら、私はこの言葉が嫌いだ。そもそも、人間を動物にたとえることが嫌なのである。痴漢を狼にたとえ、幼児を兎にたとえ、大人物を象にたとえ、酔っ払いを虎にたとえ、リナックス初心者をタコにたとえる。何という想像力のなさ。人間に悪いというのではなく、相手の動物に悪いのである。リナックス関係者には、日本語のセンスがないのだろうか。英語にばかり馴れているから、日本語のセンスが欠如してゆくのだ。……ああ、しかし。インストールすらできないで、何を偉そうにいっているのか。タコという言葉を使って私がばかにする人たちは、インストールを終えている。リナックスを使っている。私はまだ、何もしていない。

三月十四日 リナックスを特集した「MacFan」が発売される。リナックスを収めたCD?ROMもついている。ありがたいことに、インストールの指示が日本語だ。私にもできるのではないかという予感がする。案の定、インストールを試みたら成功。指示が日本語というのが何よりありがたい。これでリナックスが私のものかと喜んだのも束の間……。画面に日本語を表示させることが、どうしてもできない。解説通りにしているはずなのだが、駄目。何が何やらわからなくなったので、午前二時ごろ再インストール。依然として問題は解決していないが、今夜は、ここで力尽きた。それにしても、道具をうまく使いこなせないと悔しい。いい筆があってもいい字は書けない。いい馬がいても乗りこなせない。いい包丁があってもいい料理は作れない。パソコンも同じ。コミュニケーション論などする前に、道具と親しまなければ。

三月十九 ここ数日、リナックスに触れなかった。気を取り直して日本語表示に挑む。しかし、成功せず。再インストールして、もう一度。できない。辛い。音を上げるのは早いかも知れないが、本当に辛い。もう、何もかも打ち切ろうと思う。本来の仕事ができないのだ。使えない道具は道具ではないという逆説も成り立つ。リナックス云々を考えなければ、日本語を書くことの不自由さは何もない。マックでじゅうぶん、いや、じゅうぶんといえるほども使っていない。新しいことをしなければいい。これまで通り過ごしていればしくじりはない。もちろん、これは現在の話であって、未来は流動すると決まっている。私がリナックスに再挑戦しないとは、誰も断言できない。どうしても他人の後追いになるが、使える道具なら使ってみたい。まだまだ勉強が必要だ。今回は残念な結果に終わったが、S氏にこれまでの経過を報告するため、メモ作りを行う。……

 古い日記を長々と紹介したが、これも、ひとりの人間がキーを叩き続けたことの記録である。実はこの一か月後、日本語の表示には成功した。さらに、日本語の文章を書くことにも成功した。しかし、今度は本当に、ここまでで終わった。書いた多くの文書は保存できなかったし、マックとデータを共有させることもできなかったし、何よりも、そうした困難にひるむことなく、気力を保ち続けていくことができなかった。考えてみれば、これは実に情けない話だ。創造者のリーナス・トーバルズは、私が突き当たった壁などよりもっと厚い壁を前にしてきたのだろうし、ボランティア・ベースで開発を支えた世界のプログラマーたちは、何の見返りも求めることなく、キーを叩き続てリナックスの強化につとめたのである。タコという言葉が嫌いなど、何を偉そうなことをいっているのだ、この私は。タコまみれになって、ゼロから出直すべきなのだ。言葉に対する感覚を変えるつもりはないが、反省しなければならない。おそらく、あのころの私は、どうしていうことを聞いてくれないのだという傲慢な気持ちでいっぱいだった。私がいうことを聞きますという、卑屈な態度に出るのでもない。目の前のリナックスと対話するという、自然体の姿勢に欠けていたのである。スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツといったシリコン・バレーの海賊たちは、やはり強気だ。しかし、フィンランドの元大学生リーナス・トーバルズが発するのは、簡単でいんですよ、シンプルでいんですよ、隠すことなんて何もないんですよ、みんなで共有できればそれがいちばんいいんですよという、開放的な雰囲気。ジョブズやゲイツとは近づきにならないでいいが、リーナス・トーバルズとなら、まず話をしてみたい。正直にそう思う。

 ……ここまで書いた直後、少しでも現在形の話にしなければならぬと思い、リナックスのインストールに挑戦した。「MacFan」の付録CD?ROMを取り出し、外付けハードディスクを初期化し、解説書をにらみつける。午後六時半に始め、夕食の時間をはさみながら、成功したのは午後十一時半。五時間もかかっている。成功した時の所要時間は、ものの数分。ばかじゃないかと思う。原理がわかっていないのだ。一年半ぶりのこととはいえ、あきれるより他はない。おまけに、まだ一行の日本語も書いていない。使ったソフトも一年半前のもの。その後、多くの改良が加えられていることだろう。こんなに時間をかけて、もしかすると何にもならないかもしれない。少なくとも、一年半前の段階に自分を戻した。評価できるとしたらその点だけだ。一年半前、私はワープロソフトの使用に失敗している。今回も、やはり同じ結果になるかもしれぬ。ただただ、タコと人から呼ばれたくない一心である。その気持ちを大切にしてほしいといわれるかもしれないが、そういう問題ではない。憎みでもしていれば別だが、不特定多数の人間をぞんざいに呼ぶのは嫌いである。コンピュータを使っているからといって日本語の感覚をすり減らしたくない。

■14

「そのキーを叩け!」

十四

 初めに書いておこう。前に触れたリナックスであるが、早々に削除してしまった。やはり私の手には負えない。何が、というより、いろいろな点で。リナックスが原因と思われるシステム不調がマックに起こった。パワーブックのG3/333でも、3400Cでも、それぞれ不具合が生じたのである。リナックスが原因ではないかもしれない。原因ではなかったとしても、不具合の原因が何なのか、解決すればいい。それぞれに入っているOSのバージョンは、9・0・4。私がインストールしたリナックスは、もう一年半も前に付録となっていたもの。新しいものと古いものが、衝突しあったのかもしれない。あるいそうではなく、OS以外の何か、機能拡張やアプリケーションの類が、リナックスと折り合わなかったのかもしれない。そうしたこと以外にも、ハードディスクが断片化していたとか、不良セクタがあったとか、さまざまな原因が考えられる。しかし、私はそうした疑問を解こうとせず、疑わしいというだけの理由で削除した。

 こんな態度は、リナックスのユーザーから嫌われるに決まっている。彼らは時間をかけたあげく、リナックスを自分のものにした。開発者、リーナス・トーバルズ氏は、私の何倍もの、いや何百倍、何千倍以上もの時間をかけて、リナックスを生みだしたのであろう。

 中村正三郎氏の『特選 星降る夜のパソコン情話 Linux狂騒曲』(ビレッジセンター出版局刊)の続編が、つい先日、発売された。リナックスと中村氏のつきあい。それにリナックスをめぐる日本国内の動きが、逐一報告されている。正編と合わせて読めば、中村氏が、リナックスと楽しくつきあっているのがわかる。実にうらやましい。正編によれば、中村氏が初めてリナックスのインストールに費やした時間は約一時間。私の五分の一である。この差が加速度的に大きくなっていくであろうことは間違いない。五分の一は、何百分の一、何千分の一にもなっているはず。いや、私は止めてしまったのだから、比較のしようがないか。

 リナックスに限らず、スティーブン・レビーの『ハッカーズ』(工学社刊)を読めば、コンピュータで何かを創ろうというより、コンピュータそのものとつきあう人々がいることがわかる。ハッカーズとは、スーパー・プログラマーに対する敬称であるという。レビーが指摘するハッカーの哲学。「それは、共有し、開放し、分け与えることを旨とし、マシンを、ひいては世界を向上させるために、どんなことをしてでもマシンに手を触れてみようとする」もの。しかし、私はリナックスを目の前から削除したことで、コンピュータそのものとつきあう手間を惜しんでいると指摘されても仕方がない。一日中、マックの前に座りこんでいるものの、それはコンピュータで何かを創る、私の場合は原稿を書くため。どうも共有し、開放し、分け与え、世界を向上させるためではないのではないかという気がする。いや、サイトの開設以来、少しは、レビーのいうハッカー哲学に近いものを感じてはいる。しかし、まだまだ足りない。何しろ、雑誌の付録についていたリナックスをインストールして、うまく使いこなせないからと、諦めているのだ。金をかけることなく、時間だけかけて、それでおしまいとは、あまりに情けない。わかっている。その通り。「そのキーを叩け!」。これが私のテーマだとわかってはいても、片方にリナックスを使えない自分がいることを思い、それで楽しげに仕事をしている人がいることを知れば、自分にだってできていいのにと思うのは当然である。それもキーを叩くことなのだから。

 リナックスのよさは、頭ではわかる。

 秘密性を排除、オープンソースにして誰もが無料で使用できるOS。

 マイクロソフトなり何なり、社会の共有財産を一企業が独占することへの異議申し立て。

 フィンランドの一大学生が作ったものに、ボランティアが全世界規模で改良を加えていったこと。

 すべてがけっこうな話である。そんなリナックスを使いこなせたら、どんなにすばらしいだろう。しかし、体がついていかない。頭ではわかっていても、体がそれを受けつけない。

 パソコンショップを訪ねるたび、リナックス・コーナーの前で、買おうか買うまいか悩む。RedHat、LinuxPPC、TurboLinux、などなど。私を誘惑するリナックスのパッケージが、多々ある。しかし、おそらく買ったとしても、使いこなせまい。いや、リナックスを使いこなすことに頭がいっぱいになり、その先にあるべき、原稿を書く時間がなくなるに決まっている。どうすれば使えるかという次元で、何かを書きたいという思いはせきとめられてしまうだろう。そんなふうに決めるなという声も聞こえるが、私には容易に想像できる。リナックスに何がしかのお金を使うなら、USB接続のZipドライブを買った方がどんなにいいか。仕事場と自宅でのデータ共有に限らず、外に持ち出して他のマシンに接続することも容易になる。もちろん、USBだからウィンドウズ・マシンでも使える。……そう思い、これは手に入れた。三、四日悩んだあげく、である。

 もちろん悩みの原因は、それが余分な出費になって経済を圧迫するのではないか、という点にある。SCSI接続のZipドライブなら二台持っている。これを工夫して使えばいいのではないか? そう思い、仕事場の3400Cに外付けハードディスクを二台、Zipドライブを二台つないで、こんなことしていったいどうなるのかと思いながら遊んでいた。遊びにまぎらわせて我慢していた。そこにリナックスが一方の課題として持ち上がってきたものだから、それならということで、かねてからの懸案をひとつ処理したのである。おかげでリナックス問題は遠ざかった。いや、逆に緩衝地帯がなくなって目前のものとなったのか?

 それにしても、マックとウィンドウズ、二種類のOSを手にしている私が、リナックスという第三のOSを持ってどうするというのだろう。今の私は、いくつかある個人サイトの充実に時間を使うべき。二〇〇〇年十一月六日現在、私は七つのメールアドレスを持っている。それぞれのプロバイダが、サイトを開くサービスを行っている。こんなことは今どき珍しくもないだろうが、とにかく、リナックスを前にして悩むより、サイトを開いて運営していく方が、私の性にはあっている。かっこうをつけた言い方をすれば、私の表現になる。

 サイトの話が出たので、簡単に紹介させていただく。

 まず、「IRREGULAR」(イレギュラー)http://homepage2.nifty.com/kibと、「WOOD-MAN」(ウッドマン)http://www.bekkoame.ne.jp/~kibe。これが現在、私にとってメインになっているサイトだ。

 「イレギュラー」は、私が友人と二十年前に仲間と発行していたミニコミを復活させたもの。雑誌感覚のサイトである。秋葉原の話あり、パワーブックの話あり、私の小説や評論、エッセイへの入り口ありと、つまり、何があってもいい。

 「ウッドマン」は、「イレギュラー」の後に発行していたミニコミで、一人で作る個人誌であった。ただ、こちらは作品性を重視している。今年度いっぱい書き続ける「そのキーを叩け!」と「良書良衣」の一部を載せているし、原稿はできているが単行本化が進まない『伊福部昭・タプカーラの彼方へ』のWeb連載などを読むことができる。

 さらに、開設へ向けて具体的に考えているのは、「洛中洛外」と題されたものと、音楽家・伊福部昭氏に関するサイトである。

 前者は、中世、京の町を題材に盛んに描かれた屏風絵「洛中洛外」を、東京を題材にして文章で物語ってみようというもの。東京の姿を、フィクション、ノンフィクションを織り交ぜながら描いてゆく。

 後者は、Web版として「ウッドマン」に連載している伊福部氏へのアプローチを、サイトを開くことで、別の角度から行ってみようというもの。どちらも、間もなく公表できるだろう。いや、しなければならない。

 実はこの他にも計画中のサイトはあるのだが、それらは、いずれも書くという行為に関するものである。「そのキーを叩け!」や「良書良衣」の原稿も書かなければならない。これでいったい、リナックスに割く時間がどこにあるというのか?

 もちろん、いつの日にか、リナックスに三度目の挑戦をする日が来ないとも限らない。他人まかせになってしまうだろうが、マックとファイルの共有が楽にできるソフトが開発されれば----。いや、それはおそらくすでにできているのだろうし、私が知らないだけなのだろうが、わざわざ難しいことをしなくてもリナックスを使えるようになれば、とにかく使ってみたいのだ。難しいことでもクリアしたいという人々の考えはわかる。しかしそれは私にとって、書く原稿の中身でいい。難しい原稿を書こうというのではない。難しいテーマを易しく書きたいのである。難しいテーマを難しい原稿として世の中に差し出して、何が楽しいだろう。物書きであるのなら、それは恥ずかしい態度といわなければならない。その意味で、誰にも簡単に操作できるマッキントッシュを生みだしたアップルの態度は、私は称賛に値すると思っている。リナックスは、誰でも操作できる段階にないのでは?

 リナックスから、いきなりオールドマックの話になる。後退しているだろうか……?

 久しぶりでパワーブックを分解した。知人の撮影に協力する必要があって、PowerBook170を分解してみせたのである。分解して組み立て、組み立てて分解する。その過程をビデオに収めた。

 ずしりとした170の本体。私のメインマシン、G3/333より五百グラムも重い。

 まず、入出力用のポート類をカバーするI/Oドア、それにバッテリードアをはずす。本体を裏返し、固定用のねじを五つ、ドライバーで抜いてゆく。これで本体はトップカバーとボトムカバー、上下二つに分割できる。指をすき間にさしこみ、ディスプレイ用のケーブルを中で引き抜きぬく。トップカバーを持ち上げると、170の中身がむき出しになる。ボトムケースには、ロジックボード、フロッピードライブ、ハードディスク、増設メモリ、それに各種のケーブル類。トップカバーにはディスプレイがついており、さらにキーボードやトラックボールが。それらをひとつずつ取り外して机の上に並べてゆく。取り出されたパーツ類が、机の上に広がってゆく。大きさも長さも異なるねじが並べられる。

 トラックボールがころころと転がって床に落ちた。

 ハードディスクを固定する板金で指の腹が切れ、血があふれ出る。

 ねじを回しているうち、ねじを受け止める溝がつぶれたのか、ねじがから回りし出した。

 ロジックボードをはずすと、ボトムケースの隅々に、得体の知れない細かな埃がたまっている。それらを指でつまみあげ、ごみ箱に捨てる。

 組み立て終えたと思い、ねじまで全部締めたのに、起動させるとハードディスクを認識しない。変だと思って開け直すと、ロジックボートにさしこむケーブルが何の拍子にか、はずれていた。

 もう一度開ける。ケーブルをさし直して組み立てると、今度は、どこのものか、ねじが一本余ってしまう。後で後悔するのは嫌だと思い、三度目の開腹を試みる

 そうこうしているうちに指の血があふれ、ドライバーが握りにくい。思いの外、傷は深くて大きいようだ。起動させると、ハードディスクは認識したが、今度はポインタが上下左右どこにも動かない……。

 こんなことは私がいうまでもないが、分解と組み立ての過程で、それをする者の気持ちが、マシンに乗り移る。単純にはいえまいが、分解して組み立てた回数だけ、気持ちはより深く、こめられる。負け惜しみに聞こえるかもしれないが、失敗すればそれだけ、目の前のマシンに気持ちがそそがれる。愛憎相半ばしてゆく。血でも流せばなおさら。

 思えばこの170は、蒲田にかつてあった中古ショップの、ジャンク用の箱に投げこまれていたのである。もちろん、ジャンク品だから汚れはひどいし、使えないパーツもあった。しかし、汚れているなら洗えばいい。使えないパーツがあるなら交換すればいい。洗うだけでも、それなりの経験になる。パーツを交換するだけでも、マックの構造を知る勉強になる。もちろん、私は電気関係の知識が皆無だから、洗うだけ、交換するだけになってしまうのだが。

 170は、パワーブックがデビューした一九九一(平成三)年十二月の発売である。100と140、他の二台と合わせて発売された。その中で170は、処理速度において最高の性能を持つマシンだった。さらに特徴的なのはディスプレイ表示で、その美しさはモノクロ・マシンとして、これのものはないのではないかと思うほど。他の100シリーズのモノクロマシンは、スーパーツイストモノクロディスプレイ。にじんだようで、いささか見えにくい。角度を変えると、ネガのようになってしまったり、室内灯の光を反射して光ったりする。それに対する170は、アクティブマトリクスモノクロディスプレイ。こちらは、角度によって見え方が変わるということはない。しかも、バックライトに照らされて、文字が宙に浮き上がって見える。ジャンク箱でみつけた時は、それが逆に不安だった。劣化により、見事な表示を見られないのではないか。四隅が黒ずんでいたり、縞模様が浮かび上がっていたりという、100シリーズ特有の症状が現われていたら台なしである。せっかく170を手に入れたと思って喜ぶや、たちまち奈落の底に突き落とされる。

 ところが、蒲田の中古ショップは、おかしな言い方だが、ジャンクの程度がいい。実はこの店では、180も手に入れている。こちらのモノクロ表示も美しかった。ジャンクというのがおかしいくらい、何の問題もない。この180も170同様、アクティブマトリクスである。ただ、こちらは170の翌年、一九九二(平成四)年十二月の発売だけあって、表示は美しいが、画面は落ち着いた印象だ。考え方によっては、文字が浮いて見えるというのは、不安定と受け取られかねない。バックライトの発光具合も、170と180を比較すると、170の方がきつい感じがする。180はモノクロ・マシンらしい、目にやさしい感じがある。ジャンクでも、このような上等品だ。

 ちなみに購入した時の値段は、170が八千円、180が九千円ほどであったか。発売時の170は約七十万円、180は約八十万円である。およそ百分の一というわけだ。百分の一の値段で、きちんと使える170や180が買えるなら、これほど嬉しいことはない。

 今の私は、これらのマシンをメインに使うことはない。嬉しいといいながら、である。実用に耐えないのだ。バッテリーによる駆動時間があまりに短い。100シリーズ用のものを二つ持ってはいるものの、パワーブックG3に二個のバッテリーを入れて、使い方によっては七?八時間はもつという状態を常としている身には、いささか不安。先ごろ手に入れたIBMのThinkPad1200も、やはり二個のバッテリーを用意し、こちらも二個合わせれば五時間近くは使えるはず。それらに比べれば170や180は、モノクロであったり処理速度の遅さ云々をいわなくても、あまりに非力である。

 実は、私の数少ない友人たちは、木部与巴仁にキーを叩かせるなということを、合言葉にしているらしい。キーを叩く力があまりに強い。大事なマシンが壊されるというのである。さもありなん。私自身、自分のマシンをキーの打ち方が激しいので壊したことはないが、持ち主本人にしてみれば、バチバチバチバチバチバチ、バッチーン! という打撃音は不安になるだろう。私がその本人なら、木部与巴仁の姿を見るやいなや、パワーブックの蓋を閉じてしまうかもしれない。

 そのような私にとって、やはり、文字の表示速度は速い方がありがたい。別にブラインドタッチで猛烈な速度を出すわけではない。むしろ遅い方なのだ。この夏には、「北斗の拳2」やら「beat mania 打(だ)!!」やらというタイピングの速度を上げるソフトを購入。あたたたたたた! とか、う?んキミはだまだ練習が必要だな、などという声を聞きながら励んでみたのだが、じき、飽きてしまった。早く打っても打つ内容が伴っていなければどうしようもあるまい。

 それでも、俳句や和歌を作ろうとしているのではない私にとって、ある程度の速度は必要である。G3はちょうどいい。G4になるとどうなるかわからない。いや、G3の処理速度に体が馴れているのか?

 繰り返すが、そんな私にとって、非力なパワーブック170では仕事ができない。では、どうして役立たずのマシンを後生大事に持っているのか? 100シリーズを一台五千円でもいいから売ってしまえば、十六台もあるのだから、単純にいって八万円くらいにはなる。買う人がいればの話だが、中古マック屋に行けば一万円以上の値をつけているところだってある。可能性皆無とはいえまい。お金がないのだろう?……

 私のサイト「イレギュラー」に、「旅するPowerBook」というページを設けている。

 これまで、150、180C、190CS、2400Cといった機種について書いてきた。2400Cを所有したことはないが、これは憧れながら持つ機会がないという話にしてある。これからは、3400Cや、G3/333についても書ける。ウィンドウズマシンについて書いてもいい。「そのキーを叩け!」と共通する要素はあるが、それをもっとパワーブック寄りにした内容である。パワーブックに対するオマージュ、といってもいい。新宿にある、パワーブックの専門店PowerLab(パワーラボ)が、一九九八(平成十)年以降に作られたパワーブックG3に共通するオリジナル・キーボードを作るという。完成したら一万四千円ほどになるが、サイトに広告を載せてくれたら、モニターとして、そのキーボードを無料で進呈する。キーボードを受け取ったら、その使い勝手について、サイトで触れてくれればいいというのである。願ってもない。「旅するPowerBook」で触れよう。さっそくこの話に乗って、「イレギュラー」に広告を出すことをOKした。トップページと「旅するPowerBook」ページ、二箇所に貼り出してある。キーボードが無料でもらえるのもうれしいが、パワーブック普及のために力を尽くしている店に協力できるのが楽しい。パワーラボの人々もそうだが、私もまた、パワーブックそのものが好きなのである。

 ……170の蓋を開けてみる。電気の通っていない170が、仕事場の3400Cの横にある。それはただの函。電気が通らなければ、所在なくトラックボールを回したり、キーを叩いてみたりという、指の運動にしか使い道のない、灰色の函。

 この170はどんな時間を過ごしたあげく、私のところに来ることになったのか。どうして蒲田の中古屋で、ジャンクの入れ物に、入っていたのか。私が170に目をとめてから、およそ一か月間、それは売れずにあった。私は170の夢を数回見た。そしてある日、まだ売れていなければ買おうと決意し、中古屋を訪れた。170はまだ、ジャンクとして、入れ物に納まっていたのである。もし私の目にとまらなければ、どのようになっていたか。中古屋自体、今はもう、ないのである。

 戯れに、ACアダプターをつないでスイッチを入れる。起動音が響いて、破壊されたようなぐしゃぐしゃの模様が現れた。170が動き出そうとしている。デスクトップに無数の点が並び、矢印型のポインタが隅に現れた。Welcom to Macintoshというお決まりのメッセージ、その下に、機能拡張のアイコンがひとつずつ並んでゆく。やがて、デスクトップが整った。デスクトップの上いっぱいに、メニューバー。右上隅にはハードディスクのアイコン。右下隅にはゴミ箱。何にでもいいから使ってみてくれと、私を誘っている。トラックボール、あるいはキーを操れば、どんな文章でも書ける。170はそれを待っている。しかし、私は書くことがない。文字は私に向き合った3400cなり、メインマシンのG3/333に書いているから。何もされないままでいる170。やがて、沈黙する。バックライトを消し、画面を薄暗くして、いつまで続くかわからない、待機状態に入る。私がトラックボールにでも触れれば、170ははっと目を覚ましたかのごとく、明るさを取り戻す。しかし、それ以上何もしなければ、再び、沈黙。そして、ぶちっという音を残して、スリープ。

 ----以前に書いたが、今にして思えば、私の仕事場が、長い間、この170と同じ状態だった。喘息に端を発した、仕事場の放棄。使いたくても使えない、生殺しの仕事場。その間、天井裏に住む鼠の楽園だったろう。私は家賃を払って鼠に自由空間を提供していたのである。それもまた、よし。この夏、私は仕事場を掃除した。暖かい日には、仕事場を使っている。ホットカーペットに電気を通せば、夜でも原稿が書ける。冬に備えて炬燵も出した。サッカーくじで一億円が当たれば、まず炬燵布団を買おうと思っている。身辺を整理して、なるべく身を軽くしておけば、喘息をひきずっていても仕事場を使えるのである。だから170、そしてその他の100シリーズも、すぐに使うというのでなくても、いつの日にかは私の役に立ってくれるはず。保険のようにして、G3が壊れ、3400cが壊れたら、170や180で仕事をすることになるかもしれないと、そのコンディションを整えているのである。これだけはいえる。リナックスを使っているよりも、このような気づかいはよほど気持ちがいいこと。

 そう思いながら、眠りについている170のキーを叩く。ブヂッという音がして、170は起き上がる。後は私がキーを叩くだけ。何を書いてもいいと、私を待っていてくれる、170。私は書かない。しかし、170は書いてみてくれといっている。愛いマシンだ。

■15

「そのキーを叩け!」

十五

 とにかく書く、書いていたい私にとって、スティーヴン・キングは実にうらやましい存在である。キングにしても、今日の地位を築き上げるまでにはたいへんな努力があったことはわかる。しかし、私の年齢は伏せておくが、キングは私と同じ年の時、すでに世界的な作家として認められていた。私は東京の四谷、そのぼろアパートの一室にかろうじて存在している、自称T作家Uに過ぎない。私のTサッカUとは、にわかサッカーファンのTサッカUか、人工甘味料サッカリン消費者としてのTサッカUか、サッカ立ちしてもキングにはなれないのTサッカUか。

 私と同い年以前にキングが発表していた主要作品名。『ダーク・ハーフ』『トミーノッカーズ』『ミザリー』『IT』『痩せゆく男』『ペット・セマタリー』……、もう、止そうか? きりがないではないか、同い年からさかのぼっているのだが、これでは書いたもののほとんどが主な作品になってしまう。いや、もう少し……、『恐怖の四季「スタンドバイミー」』……あ、これは駄目、ますます終わらない……『クージョ』『ファイアスターター』『デッドゾーン』……いつまで続くぬかるみぞ……『シャイニング』『呪われた町』『キャリー』。やっと、終わった。

 やっぱりフリーライターで出発しては駄目だ。売れなくてもサッカ、いや作家として出発する、そのような意志を他人に向って示さないと、世間はただの便利屋、原稿書き職人としてしか見てくれない。キーを一生懸命叩いていても、ラッコだって貝を割るために何やら石のごとき硬いものを叩き続ける、坊さんは毎朝のお勤めで木魚を叩き続けている、世間の目はそれに対するのと同じ。フリーライターが何やらパカパカ叩いておるわい、誰も引き受けてがないから、今度はあの四谷の男に原稿を書かせてみるか、他の人間に依頼して回っていたから締切が迫っているが、あいつなら金に困っている、時間がなくても引き受けるであろう、それ電話だ、やっぱり引き受けた……、その程度の認識しか持たれない。悔しかったら時間を二十年、巻き戻すか?

 「『デブラは『ヘレンの約束』をとっかかりにして、三冊一括の執筆契約を結んでもいいという意向を見せてきたんだ。とんでもないおいしい(、、、、)条件での一括契約だ、というんだ。それも、こっちがそんな話をひとことも切りださないうちにね。これまで二冊一括の契約を結びたいといってきた会社はあるが、三冊というのはまったくはじめてだ。だからわたしは、一冊あたり三百万ドル、三冊合計で九百万ドルという線を口にしてみたよ。デブラから笑い飛ばされるのを覚悟のうえでね』」(上巻P62)

 『骨の袋』の主人公である作家ヌーナンに、出版の仲介をする、エージェントのハロルドが、こんな条件を持ち出してきた。ヌーナンはロマンティック・サスペンス小説の書き手としては人気者だ。最高の、ではないにせよ、売れっ子には違いない。ベストセラー・リストの十位にはたとえ入れなくても、もちろん入ったことはあるのだが、上位十五位までのリストには、必ず入る。十五位以内の常連が、どのような金銭的報酬を得るのか、三冊一括九百万ドルの話はさておいて、なかなか想像できるものではない。しかし、ヌーナンがその具体例を自ら記してくれている。「三十一歳のときには、わたしたち夫婦は家を二軒所有していた。まずデリーの由緒ある美しいエドワード様式の屋敷。そしてメイン州西部の湖畔に建つT山荘Uといってもいい大きさの丸太づくりの別荘。……大多数の人々が最初の家を買うための住宅ローンの承認に四苦八苦している年代にもかかわらず、どちらの家もいっさい借金をせずに購入していた」。ブラボー! すばらしい。これぞ売れっ子作家。

 そんなヌーナンならこれから先も、ベストセラー小説を書き続けてくれるだろう。エージェントの契約交渉は、それを見越してのことなのである。それにしても、一冊あたり三百万ドル、それを三冊一括で九百万ドル、とは……。これは何かの間違いではと思うが、記述はこのとおりである。日本円にして、三百万ドルは三億数千万円、九百万ドルは約十億円、なんですけど……。アメリカの人気作家は、そんなに儲けているのか? いくら、アメリカだけではない、カナダやイギリスやその他、全世界の英語マーケットが視野に入るからといって、これはけたはずれだ。一年に一冊書いて三億円儲かるなら、私など、百年近く生きられる勘定になる。しかも、繰り返し繰り返して語られている。ヌーナンは、いくら売れっ子とはいえ、最高の(、、、、)売れっ子ではないのである。これを書いているスティーヴン・キングなら、つまり最高の売れっ子なら、いったいどのくらいの報酬を得ているのだ?

 この交渉が行われる以前、後で紹介するが、ある事情から極度のライターズ・ブロック、つまりはスランプに陥ったヌーナンは、一年間の休暇を取りたいと申し出る。それn対して、エージェントのハロルドがいった言葉。

 「『グリシャムなら、一年の休みをとる余裕もある。クランシーもだ。トマス・ハリスの場合には、長期にわたる沈黙があの作家の神秘的雰囲気の一部にもなっている。しかし、いまのきみの立場ではね……そう、本当の頂点にいる連中よりも人生が厳しいものになるんだ。リストの下のほうの場所ひとつあたりに、五人の作家がひしめいているんだぞ。きみだって、その顔ぶれは知ってるはずだ----そうとも、一年のうち三か月は隣人同士になっているんだからね。なかには、さらに上位へと進出していく作家がいる。このところの二冊のパトリシア・コーンウェルのようにね。なかには、その地位から転落していく作家もいるし、きみのようにその状態をたもちつづける作家もいる。トム・クランシーなら、五年ばかり休んだところで、ジャック・ライアンものの作品をひっさげてカムバックすれば、大成功まちがいなしだ。きみの(、、、)場合には、もし五年ものあいだをあけたら、二度とカムバックはできない……』」(上巻P42)

 一冊約三億円の執筆契約をもちかけられるヌーナンですら、一年休んだら、カムバックはできないなどと脅される。私など、どうすればいいのだ。これまでに出した本はたったの二冊。しかも二冊目の刊行から、すでに三年以上の歳月が経っている。カムバックどころの騒ぎではないのである。

 しかし、そのような、ただ笑うしかない記述を含めて、この『骨の袋』は、作家ということ、書くということ、そうしたことの一切を楽しめる作品である。中身については、多く語るまい。読んでからのお楽しみの方がいい。作家のヌーナンが、突如として、妻ジョーの死に遭遇。それをきっかけにライターズ・ブロックに陥る。アイデアが生まれないとか、書く文章が気にいらないといった程度ではない。コンピュータそのものに触れない。無理やりに文章を書くと、屑かごをつかんでその中に吐いてしまう。ヌーナンは四年の間、書きためておいた作品を発表してゆくことで、窮地を脱し続ける。悪いことではない。発表された作品がいつ書かれたものであろうと、発表された時点で、それは新作なのだ。しかし、その新作のストックもなくなった。何とかして、本当の新作を書かなければ身の破滅だ。何億円も儲けているのに? いや、ヌーナンは、作家として終わりだと思い詰めている。彼の財産からすれば、いくら税金に取られても、死ぬまで飢えに苦しむことはない。いっておくが、ヌーナンは今の私と同い年。私はといえば、いつもいつも翌月の家賃を心配して身をすり減らしているというのに。いや、私のことなどどうでもいい。とにかくヌーナンは、もとの力を取り戻したいと、ジョーとの思い出がつまった別荘に出かける。そこに行けば、何とかなるのではないかと、藁をもすがる気持ちで。が、そこで待ち受けていたのは、土地に巣くった悪霊だった……。

 クライマックス、大暴風雨の中での闘いは、キングのファンなら手に汗握る、のだろうか? 私はたいして関心を抱けなかった。そんな大騒ぎよりも、とにかく作家の裏側、いや、内側か、それをもっと書いてほしい、それは前半に集中していて、悪霊との闘いに焦点が絞られていった後半は、とにかく読み続けるしかない、という思いだった。キングおよびキングのファンには怒られるだろうか?

 「自分でも偏見がまじっていることは認めるが、そのわたしの立場からいわせてもらうなら、成功をおさめた小説家----そこそこの成功をおさめた小説家もふくむ----というのは、およそ創作芸術の世界すべてにおいて最上の仕事を披露している人種だと思う。たしかに人々は本よりもCDをたくさん買っているし、たくさんの映画を見てもいるし、それ以上に(、、、)たくさんテレビを見てもいる。しかし創作の才が描く弧でいえば、小説家たちの方が長い---その理由は、文字に頼らないほかの芸術のファンにくらべ、本を読む人間のほうが高い知性をもち、そのため記憶力もすぐれているからではないだろうか。(中略)……アーサー・ヘイリーは新作を書いているし(当時そういう噂が流れており、のちに事実だったことが判明した)、トマス・ハリスはレクター博士ものの前作から七年という間隔をおきながらベストセラーを出せる。J・D・サリンジャーにいたってはもう四十年近くも音沙汰がないが、文学部の教室やコーヒーハウスでの文学雀サークルではいまだにホットな話題でありつづけている。本を読む人々は、ほかのどんな芸術ジャンルでも見つからないほどの忠誠心をいだきつづける……」(上巻P37)

 こんな文章を読んで、文学好きの人間はもちろん、何かを書こうとする人間で、共感の気持ちを抱かない者がいるだろうか? キングは文学青年だ、ほめ言葉として。文学青年などというと、いい年をした世間知らずをさす場合が多く、私などさしずめそれにあたるだろうが、キングは間違いなく、いい意味の文学青年。キングはちゃんと作品を書いて、立派な評価をかちえている。ハウツーものや人生論などで百万部、二百万部と売る人がいるが、そんなものは駄目だ。あれは文学ではない。創作ではない。文学を書いていくのだという意志表示をする者こそ、何部売れたかとか、作品が評論家に受けたかとか、そういう結果を問わず、とにかく作家である。売れなくてもいいなどといって予防線を張っているわけではない。とにかく自分の経験からいう。フリーライターでいる者は、作家ではない。

 私は長い間、フリーライターだった。ある時は東へ、ある時は西へ。とにかく腰の落ち着く時がないくらい、忙しがっていた。今はさっぱり。私に対する世間の目は、いまだにフリーライター時代と同じかもしれない。木部与巴仁? あれはライターだろう。最近は着物を着ているそうな。作家気取りか。ばかめ。何を勘違いしておる。そんな声が聞こえる。好意的な人でも、やあ木部さん、お着物ですか、まず外見から、ですよね----。これは実際にいわれたこと。恥ずかしい。それだと、中身はないということの証明ではないか。

 しかし、キングは間違いなく作家だ。彼はフリーライターではなかった。高校教師はしていたが、スーパーマーケットの店長を取材したこともなければ、ダムの工事現場を取材したこともなければ、サッカー協会の幹部を取材したこともないだろう。そんなものをする必要はないのである、作家なら。堂々としていればいい。武士は食わねど高楊枝ではないが、とにかく書きたいこと、書くべきことのために、余分な神経は使わない方がいい。それはもちろん、書くということの訓練にはなるかもしれない。締切やら、対人関係やら、原稿の分量やら、安いとしかいいようのないギャラなどのプレッシャーに向き合って、とにかく書き続けるという体験は積める。しかし、そんなもの、いい加減にしておく方がいい。プレッシャーに打ち克つことが目的ではないのだから。それにフリーライターを長く続けていると、世間がそうとしか見なくなる。そうなったら……。その先入観から抜け出すのは容易なことではない。

 ところで、実のところ、私はこれが書きたかったのだが、『骨の袋』の主人公ヌーナンは、パワーブックで原稿を書いている!

 こう書くだけで、もう笑わずにはいられない。パワーブックで原稿を書く作家を、あのキングが、主人公にするとは思わなかった。パワーブックといえば、この私に最も身近な存在のひとつではないか。身近どころか、パワーブックがなければ原稿が書けない、すなわちお金を得られないということで、なくてはならない道具。たった今も、このTたった今もUと書きつけるために、キーを叩いているもの、それがパワーブック。それを使って、この売れっ子ヌーナンが、売れもの(、、、、)を書いている? ははははは。ペンを使って書く場合、ヌーナンと私が同じ筆記用具を使うとは、絶対に考えられない。モンブランやパーカーの万年筆? ありふれた例しか出せないことで、私が万年筆を使わないことをおわかりいただけるだろう。ヌーナンはモンブランやパーカーなど使わないだろう。私もまた、使わない。そしてタイプライター? ヌーナンは、パワーブックに行きつく前はIBMのタイプライターを使っていた。そのことは『骨の袋』の中で何度も触れられている。しかし、今はパワーブック、彼はマックユーザーである。

 「当時はすでにマッキントッシュをつかっていた。このコンピュータのおよそ十億もの利用法のうち、わたしが利用していたのはひとつだけだった」(上巻・P32)

 「マッキントッシュの<パワーブック>にクロスワード・パズル作成ソフトをインストールし、自前のパズル作成に手をつけたりもした」(上巻・P43)

 「一九九八年七月三日、わたしはふたつのスーツケースと<パワーブック>を中型のシボレーのトランクに積みこみ、バックでドライブウェイを進んでいったあと、いったん車をとめて、また家にもどっていった。家はうつろで、捨てられてもその理由さえできないでいる誠実な恋人を思わせる、うら寂しげな雰囲気をたたえていた」(上巻・P85)

 「『いや、いいんだ。<パワーブック>をもってきたからね。コンピュータがつかいたくなったら、キッチンテーブルで充分デスクの代わりになるさ』いずれは(、、、、)コンピュータをつかいたくなるはずだった。クロスワード・パズルは山ほどあり、時間はあまりにもかぎられていた」(上巻・P159)

 何だろう? 機種は。私は直感的に5300シリーズを思い出してしまったのだが、何の根拠もない。私としてはおもしろいが、まさか、ね。アメリカで九五年八月から始まった5300の時代ではない。物語は九八年七月のこと。もう、パワーブックG3は発売されている。九八五月に発売されたG3/292ではないか? いや、G3ではなくて、アメリカ人だから、『インデペンデンス・デイ』で大活躍した九七年二月発売のマシン、3400c/240かもしれない。九七年五月発売の2400cは日本人だけに受けたのだから、これは違うだろう。あるいは九七年七月に発売されていた1400c/166……。止めよう。きりがない。とにかく、ヌーナンはパワーブックを使っている。そして、スティーブン・キングは、どうなのだ?

 パワーブックに行きつく前のヌーナンが、IBMのタイプライターを使っていたことは確かである。ヌーナンの二作目は『赤いシャツを着た男』というものだったが、このころの話。

 「わたしはタイプライター----あのころはまだ、旧式のIBMセレクトリックをしつこくつかいつづけていた----の前から離れると、キッチンに歩いていった」(上巻P31)。

 ヌーナンは、作品が完結しそうになると、妻のジョーに最後の文章を書きつけてもらうのを習慣にしていた。

 「ジョーはリターンキーを二回つづけて押してから、キャリッジを用紙の中央にもってきて、さいごの文章の下にT完Uと打った----IBMのクーリエ書体の活字ボール(いちばん気にいっている書体だった)が忠実にダンスを踊って、紙に文字を打ちだしていった」(上巻P33)

 そして、ライターズ・ブロックからの脱出を期し、家を出て山荘にたどりついたヌーナンは、久しく使われなかったタイプライターを、部屋の中に見つける。

 「その物体は灰色のビニールカバーで覆われていた。(中略)……わたしはビニールカバーを引き剥がした。その下にあったのは、わたしが昔つかっていた緑色のIBMセレクトリックだった。もう何年も目にしていなかったし、このタイプライターのことを考えたこともなかった。上体をかがめて顔を近づけたものの、じっさいに目で確かめる前から、タイプライターにセットされている活字ボールの書体がクーリエ----かつてのわたしのお気にいり----であることはわかっていた」(上巻P152)

 そしてこの後、ヌーナンはパワーブックに向うことなく、このIBMセレクトリックのキーを叩き続けてゆく。パワーブックは山荘に運ばれていったものの、活躍する機会は与えられない。ヌーナンの知らないところで、妻のジョーがIBMセレクトリックを使った形跡があり、それゆえに、そのタイプライターは部屋に置かれていた。亡き妻の助けを借りて作家としての危機を脱したいヌーナンには、パワーブックよりも、タイプライターこそ使う必要があった。あるいは、死の直前、妻の行動にはヌーナンの知らない不審があり、それを解き明かすために、少しでも妻が使っていたものに触れる必要があった。さらに考えれば、ライターズブロックによって、コンピュータに触れるのも怖いほどであれば、とりあえず、コンピュータ以外のものなら、さほどのプレッシャーを受けずにすむかも知れない、そんな希望を抱かせてくれた。さまざまなことが推理できる。

 そしてキングに話を戻せば、このIBMセレクトリックこそ、キングがかつて使っていた、あるいは現在形で使っているかもしれない、書くための道具だ。『必携スティーヴン・キング読本 恐怖の旅路』(96・文藝春秋刊)には、IBMセレクトリックに向うキングの写真が載っている。横向きのもの、背中を向けたもの。その二枚。IBMの公式サイト(http://www.ibm.co.jp/event/museum/rekishi/golfball.html)は、セレクトリックをこんなふうに紹介している。

 「かつてThink誌にIBMセレクトリック・タイプライターについて、次のような詩が掲載されたことがありました。/「静かな身のこなし、低い無線音に似た静かな声、私はそのエレメントに完全な快適さを覚える」 /ゴルフ・ボール(タイプ・ボール)を交換することにより自由に字体を変えることができるIBMセレクトリック・タイプライターは、その後のタイプライターの世界を大きく変えました。(中略)IBM セレクトリック・タイプライターの原形は、1946年にポーキプシーで開発された 「きのこ型」タイプ・ヘッドを持つ印刷装置に見ることができます。このタイプライター はその名のとおり、傘のような形をしたタイピング・エレメントを使っていました。これ はIBM会計機用の印刷装置として開発されたものでした。 その初期の製品はSTRETCHコンピューターで使用されたりしましたが、その後7年間 にわたり改良を重ねた結果、1961年にセレクトリック・タイプライターとして本格的にデビューしました。世の中がまさにこの種の製品を待ち望んでいました。 セレクトリック・タイプライターがヒット商品に育った理由としては、その印字品質が特に優れていること、信頼性が極めて高いこと、タイピング・エレメントが簡単に交換できること等があげられます」

 『必携スティーヴン・キング読本』にあるキング邸のリポート「恐怖の館」は、キングがIBMでもアップルでもない、別の会社のワープロを使っていることを伝えている。

 「特大のふたつの机の上にワング社製のワードプロセッサーとプリンターが置いてある。プリンターの横にはきちんと重ねた紙の束があって、そこには『IT----スティーヴン・キング作』と書かれている。彼の新作だ」

 このレポートは、『IT』が刊行される以前に書かれているから、作品が発表された八六年以前のこと。マッキントッシュは発売されていたが、キングの購入するところとはならなかったようだ。IBMセレクトリックを使い、ワング社のワープロも使ったことのあるキングは、現在、果たしてマック、それもパワーブックを使っているのだろうか? 彼が生み出した『骨の袋』の主人公ヌーナンのように。もちろん、キングとヌーナンは違う。作中人物がパワーブックを使っているからといって、生みの親の作家までパワーブックを使わなければならないということはない。キングがいまだにセレクトリックを使っていて、作中人物の現代性をきわだたせるためにパワーブックを使わせることだってありうる。もちろん私は、キングはパワーブック・ユーザだと思うし、自分が使っているから、その実感でヌーナンにもパワーブックを持たせていると思う。しかし、だとしたら、以下の記述はどう理解すればいいのか?

 「ここに来る前に書いた二通の手紙を原稿の箱にすべりこませると、私はフェデラルエクスプレスの営業所にむかった。どちらもコンピュータで作成した手紙だった。起動するのが簡易エディタの<メモ帳>であれば、わが肉体はコンピュータの使用を許可してくれた。肉体が大嵐に見舞われるのは、<ワード6>を起動したときだった。だからといって、<メモ帳>で小説を書こうとしたことはなかった。そんなことをすれば、その選択肢を自分からつぷすだけだということがわかっていたからだし……いうまでもなく、コンピュータを相手にスクラブルをしたり、クロスワード・パズルを作成することも不可能になるとわかっていたからでもある。二回ばかり手書きで書こうとしてもみたが、これは世にもみじめな失敗におわった」(上巻・P54)

 マックに添付されている簡易エディタは、SimpleTextである。<メモ帳>は、ウィンドウズのエディタ。<ワード6>というのは知らないが、あまりマッキントッシュらしくない名前である。こちらは簡易エディタではなく、高機能のワープロソフトなのだろう。いずれにせよ、キングはヌーナンに、パワーブックを使わせながら、<メモ帳>を使わせている。まさかとは思いながら原書にもあたったが、間違いなく、<メモ帳>はと記されていた。非常に悩ましい話だ。別にキングはアップル社やパワーブックのために小説を書いているのではないし、エディタの名前が何であってもいいのだが、よりによって<メモ帳>とは……。私は本当に悩んでいるのだ。相手がキングであり、ことが書くことにかかわる問題だけに、そんなことどうでもいい、作品の質には何の関係もないと思いつつ、忘れてしまうことができないのである。誰か答えを知っていたら、教えてほしい。キングはマック・ユーザーなのか。パワーブックを使っているのか。どうして<メモ帳>などと書いたのか。もしかしたら、パワーブックは使っているが、ウィンドウズ・マシンも使っているのか。ああ……、すべてが謎だ。