スティーヴン・キングの指


「骨の袋」上下巻カバー

PowerBookが何度も登場する『骨の袋』。登場人物が使っている機種は、果たして?

Stephen King(スティーヴン・キング)は、世界の文学シーンを代表する大物である。その作品はもちろんだが、私は書くということにおける彼の姿勢に、大きな刺戟を受けている。『ミザリー』を読めばいい。『シャイニング』を読んでほしい。そこに現われるのは、書くということに人生を賭け、崩壊寸前で踏みとどまるか、あるいは崩壊してしまうか、いずれにしても書くことをめぐる人間の姿。しかも、『骨の袋』にはPowerBookが登場する……。キングについて書かなくてはなるまい。おまけにキングはインターネットを使い、彼自身のサイト“The Official Stephen King Web Presence”で作品発表さえしている。注目せざるをえないのである。今はブコウスキーの部屋を借りた独立準備室だが、キングについても、より大きな部屋を設けなければなるまい。『ミザリー』は「書くことの冒険」、『骨の袋』は「そのキーを叩け!」で書いた文章を、そのまま掲げる。





「十四 書くことの冒険」

スティーヴン・キング『ミザリー』」(矢野浩三郎訳/文春文庫)


 作家は誰のために原稿を書くのか。それはたった一人、自分のためである。読者のため、社会のため、家族のため、愛する人のため、出版社のため、子孫のため……。対象はいくらでも考えられる。しかし、まず自分のために書こうとするのでなければ、その作品は他人に与えるにふさわしいものとならないはずである。自分一人満足させられない作品を、他人が読んで満足してくれるだろうか? 自分が満足できるから他人に渡してもいいと思うのであろう。他人のために書いた作品を、どう判断できるというのか? 自分のために書いたから、細部のよしあし、全体の価値をはかることができるのであろう。
 ポール・シェルダン。彼はスティーヴン・キングが作り出した、物語中の人物である。『ミザリー』の作中、そこに彼はいる。ポール・シェルダンは小説家である。新作『高速自動車(ファースト・カーズ)』を書き下ろした彼は、その満足ゆく出来に自分を祝福しながら、車に乗って雪道を下る。そして、凍った路面にタイヤをとられて突然の事故。気がついた時、シェルダンはベッドに寝かされていた。無残に潰された杭のような、二本の足を投げ出して。彼を看病していたのは、アニー・ウィルクス。ポール・シェルダンのナンバーワン読者を自認する女。シェルダン描くベストセラー小説、『ミザリー』の世界をこよなく愛する女----。シェルダンは、自作の『ミザリー』シリーズに、終止符を打った。主人公ミザリー・チャステインが生きている限り、自分は彼女の物語を書かなければならない。それは作家である自分の自由を束縛することだ。好きな作品を好きなだけ書く、そのための方法は一つ。ミザリーを殺してしまうこと。しかし、この決断が、事故にあって自由を失った彼を生き地獄に陥れる。アニー・ウィルクスは、ミザリーが死ぬことを許さなかった。重傷を負って身動きできず、生死をアニーの手に握られたシェルダンは、ミザリーを生き返らせるための新作『ミザリーの生還』を、書く。それをすることだけが、生きのびる道だった。アニーの家から脱出を試みたり、アニーに対抗すべく手段を講じたりしたシェルダンを待っていたのは、足首の切断、拇指の切断……。ポール・シェルダンは自分を生かすために、タイプライターに向かうしかなかった。



 ……良いものは良い、それは自分でわかる。本物と読み較べてみれば、昨晩アニーに渡したあの偽物、三日がかりでなんども躓(つまず)いたあげくにでっちあげた擬(まが)いものは、一ドル銀貨のそばに置いた犬の糞にしか見えないはずだ。あれが出来損ないだということは、自分でもわかっていたのじゃないか。彼らしくもなく、さんざ四苦八苦して、メモの書き散らしやら、途中まで書いて「ミザリーは瞳を輝かせ、彼のほうを向くと、囁くがごとくに、ああ、馬鹿ヤロー、てんでなっちゃいない!」という調子で終わる書き損じばかりが、紙屑籠の半分ほども溜まってしまった。そしてそれを、痛みのせいにし、飯のためでなく命のために書かなければならない現在の情況にせいにした。そんなものはもっともらしい言い訳でしかない。要するに、構想が枯渇していたのだ。それでごまかしをやり、それが自分でわかっていたから、ろくでもないものを書いてしまった。



 強いられて小説を書く。そんな事態になっても、ポール・シェルダンの、作家としての目は生きていた。できそこないはできそこないである。強いられて書くのだという言い訳がある以上、アニーはもちろん、自分すら満足させることはできない。シェルダンが力をこめた小説を読み続け、その上でナンバーワンの読者だというアニーが相手なのだ。出来不出来はすぐ見抜いてしまうだろう。別の情況を考えてみよう。ギャラが不足だから手抜きの小説を書く。ギャラが充分だから力の入った小説を書く。ありそうな話だが、作家の心とはそんなものではない。ギャラの多い少ないにかかわらず、書くと決めた以上は、自分が満足できる作品を書こうとする。それが作家だ。ギャラが少ないから手抜きの小説を----。ギャラが不満なら、書かないだけの話。それでも書かなければならないなら、ギャラの多寡を度外視して、満足のゆくものを書き上げるのだ。アニーに殺されたくない。だから、アニーの心に沿った小説を書く。そんなこと、ポール・シェルダンにはできなかった。なぜなら、彼は作家だから。



 ポールは頬杖をついて、窓の外に目をやった。いまはすっかり目が覚めて、猛烈ないきおいで考えてはいるのだが、自分が考えているという意識はなかった。この前はいつ髪をシャンプーしただろうかとか、アニーが時間どおりに薬を持ってきてくれるだろうか、といったような思考を処理する、意識の表面の二層か三層分が、そっくりお留守になっているらしい。頭のその部分がこっそり脱け出して、パストラミの載った黒パンかなにかを食べに出掛けてしまったのだ。知覚の入力(インプット)はされていても、それを処理することができない----目に映っているものが見えず、耳に入ってくるものが聞こえない。
 そのほかの部分は汗みどろになって、構想を練っては捨て、またそれを組み立てては捨て、といった作業をくりかえしている。作業がおこなわれていることは感じていたが、それに直(じか)に手を触れることはしないし、また触れたくもなかった。なにしろその作業現場は穢(よご)れているからだ。
 自分のやっていることが〃構想探し〃であることはわかっていた。〃構想探し〃は〃構想を得た〃というのとはちがう。〃構想を得た〃というのは、いい換えるならば「インスピレーションが涌いた」とか「発見した(エウレカ)!」とか「ミューズ神の声を聞いた」とかいうことの、穏やかな表現である。




 『ミザリー』は、スティーヴン・キングの書いたものであるゆえ、一般にはホラー小説と呼ばれるのだろうか。確かに、身動きの取れない作家が一室に閉じ込められ、自分の命と引き換えに原稿を書き続けるなど、設定を見ればホラー、恐怖小説と呼んでいい。しかしそれ以上に、これは書くことを生きることと同じ次元で捉えている一人の人間の物語として見たいのである。作中人物のポール・シェルダンはもちろん、スティーヴン・キング自身の思いの表明として、私は読んだ。なぜ書くのか。誰のために書くのか。どのようにして書くのか。書きながら作家は何を考えるのか。書くことでどのような思いが作家の中に沸き起こってくるのか。書かなければ死ぬ。書かなければ殺される。同じことである。



 十一時ごろになって、彼はタイプを打ちはじめた。最初はゆっくりだった。ちょっとキーをたたいては、手を休め、それがときには十五秒間ぐらいつづいた。その音の断続は、空中から群島を見るように、幅広い紺碧の帯をへだててポツンポツンと島が連なってゆく、といった塩梅である。
 しだいしだいに音の断続が短くなってゆき、いまや、ときにはタイプ音の連続射撃のようになった----これがポールの電動タイプライターなら、快い響きをきかせてくれただろうが、このロイヤルのひび割れ音は、なんとも鈍重で不愉快きわまりない。  しかし、タイプライターのダッキー・ダッドルズ調の声は、もはや聞こえなかった。ポールは一枚目が終わるまでにウォーミングアップを終えて、二枚目の終わりでは、すでに全力疾走に入っていた。




 人に強いられてであろうが自ら進んでであろうが、作家とは、書かなければ生きていても仕方がないと感じる人間たちである。スティーヴン・キングはポール・シェルダンにおのれの姿を託した。『ミザリー』をホラー小説と呼ぶならそれでもいい。作家は常に極限的な状況で闘っている。作品が完成するのかしないのか。自分は作品を完成させられるのか。完成した作品を読者は迎え入れてくれるのか。これが恐怖でなくて何だろう。その意味では、この『ミザリー』という小説は、作家の日常感覚そのものを描いている。----『ミザリー』の締めくくりの文章を引こう。恐怖の果てに到達し、恐怖と引き換えに得られる至福。これほどの幸福を、まず自分自身で得たからこそ、読者という他人を幸福感に導けるのである。まず最初に、おのが幸せこそあれ。自分を生かせぬ者に、他人を生かすことなどできようはずがない。



 やれた。やれたぞ。
 感謝と恐れとのないまぜになった気持ちで、彼はキーを打ちつづけた。ワープロの画面に穴があいた。ポールはその彼方に見えるものをみつめていた。そして、いつのまにかキーを打つ指が速くなっていることにも、痛む脚が遥か遠くへ飛んでいってしまったことにも、自分がキーを叩きながら涙をこぼしていることにも、気がついていなかった。





「そのキーを叩け! 十五」


 とにかく書く、書いていたい私にとって、スティーヴン・キングは実にうらやましい存在である。キングにしても、今日の地位を築き上げるまでにはたいへんな努力があったことはわかる。しかし、私の年齢は伏せておくが、キングは私と同じ年の時、すでに世界的な作家として認められていた。私は東京の四谷、そのぼろアパートの一室にかろうじて存在している、自称“作家”に過ぎない。私の“サッカ”とは、にわかサッカーファンの“サッカ”か、人工甘味料サッカリン消費者としての“サッカ”か、サッカ立ちしてもキングにはなれないの“サッカ”か。
 私と同い年以前にキングが発表していた主要作品名。『ダーク・ハーフ』『トミーノッカーズ』『ミザリー』『IT』『痩せゆく男』『ペット・セマタリー』……、もう、止そうか? きりがないではないか、同い年からさかのぼっているのだが、これでは書いたもののほとんどが主な作品になってしまう。いや、もう少し……、『恐怖の四季「スタンドバイミー」』……あ、これは駄目、ますます終わらない……『クージョ』『ファイアスターター』『デッドゾーン』……いつまで続くぬかるみぞ……『シャイニング』『呪われた町』『キャリー』。やっと、終わった。
 やっぱりフリーライターで出発しては駄目だ。売れなくてもサッカ、いや作家として出発する、そのような意志を他人に向って示さないと、世間はただの便利屋、原稿書き職人としてしか見てくれない。キーを一生懸命叩いていても、ラッコだって貝を割るために何やら石のごとき硬いものを叩き続ける、坊さんは毎朝のお勤めで木魚を叩き続けている、世間の目はそれに対するのと同じ。フリーライターが何やらパカパカ叩いておるわい、誰も引き受けてがないから、今度はあの四谷の男に原稿を書かせてみるか、他の人間に依頼して回っていたから締切が迫っているが、あいつなら金に困っている、時間がなくても引き受けるであろう、それ電話だ、やっぱり引き受けた……、その程度の認識しか持たれない。悔しかったら時間を二十年、巻き戻すか?



 「『デブラは『ヘレンの約束』をとっかかりにして、三冊一括の執筆契約を結んでもいいという意向を見せてきたんだ。とんでもないおいしい(、、、、)条件での一括契約だ、というんだ。それも、こっちがそんな話をひとことも切りださないうちにね。これまで二冊一括の契約を結びたいといってきた会社はあるが、三冊というのはまったくはじめてだ。だからわたしは、一冊あたり三百万ドル、三冊合計で九百万ドルという線を口にしてみたよ。デブラから笑い飛ばされるのを覚悟のうえでね』」(上巻P62)



 『骨の袋』の主人公である作家ヌーナンに、出版の仲介をする、エージェントのハロルドが、こんな条件を持ち出してきた。ヌーナンはロマンティック・サスペンス小説の書き手としては人気者だ。最高の、ではないにせよ、売れっ子には違いない。ベストセラー・リストの十位にはたとえ入れなくても、もちろん入ったことはあるのだが、上位十五位までのリストには、必ず入る。十五位以内の常連が、どのような金銭的報酬を得るのか、三冊一括九百万ドルの話はさておいて、なかなか想像できるものではない。しかし、ヌーナンがその具体例を自ら記してくれている。「三十一歳のときには、わたしたち夫婦は家を二軒所有していた。まずデリーの由緒ある美しいエドワード様式の屋敷。そしてメイン州西部の湖畔に建つ“山荘”といってもいい大きさの丸太づくりの別荘。……大多数の人々が最初の家を買うための住宅ローンの承認に四苦八苦している年代にもかかわらず、どちらの家もいっさい借金をせずに購入していた」。ブラボー! すばらしい。これぞ売れっ子作家。
 そんなヌーナンならこれから先も、ベストセラー小説を書き続けてくれるだろう。エージェントの契約交渉は、それを見越してのことなのである。それにしても、一冊あたり三百万ドル、それを三冊一括で九百万ドル、とは……。これは何かの間違いではと思うが、記述はこのとおりである。日本円にして、三百万ドルは三億数千万円、九百万ドルは約十億円、なんですけど……。アメリカの人気作家は、そんなに儲けているのか? いくら、アメリカだけではない、カナダやイギリスやその他、全世界の英語マーケットが視野に入るからといって、これはけたはずれだ。一年に一冊書いて三億円儲かるなら、私など、百年近く生きられる勘定になる。しかも、繰り返し繰り返して語られている。ヌーナンは、いくら売れっ子とはいえ、最高の(、、、、)売れっ子ではないのである。これを書いているスティーヴン・キングなら、つまり最高の売れっ子なら、いったいどのくらいの報酬を得ているのだ?
 この交渉が行われる以前、後で紹介するが、ある事情から極度のライターズ・ブロック、つまりはスランプに陥ったヌーナンは、一年間の休暇を取りたいと申し出る。それn対して、エージェントのハロルドがいった言葉。



 「『グリシャムなら、一年の休みをとる余裕もある。クランシーもだ。トマス・ハリスの場合には、長期にわたる沈黙があの作家の神秘的雰囲気の一部にもなっている。しかし、いまのきみの立場ではね……そう、本当の頂点にいる連中よりも人生が厳しいものになるんだ。リストの下のほうの場所ひとつあたりに、五人の作家がひしめいているんだぞ。きみだって、その顔ぶれは知ってるはずだ----そうとも、一年のうち三か月は隣人同士になっているんだからね。なかには、さらに上位へと進出していく作家がいる。このところの二冊のパトリシア・コーンウェルのようにね。なかには、その地位から転落していく作家もいるし、きみのようにその状態をたもちつづける作家もいる。トム・クランシーなら、五年ばかり休んだところで、ジャック・ライアンものの作品をひっさげてカムバックすれば、大成功まちがいなしだ。きみの(、、、)場合には、もし五年ものあいだをあけたら、二度とカムバックはできない……』」(上巻P42)



 一冊約三億円の執筆契約をもちかけられるヌーナンですら、一年休んだら、カムバックはできないなどと脅される。私など、どうすればいいのだ。これまでに出した本はたったの二冊。しかも二冊目の刊行から、すでに三年以上の歳月が経っている。カムバックどころの騒ぎではないのである。
 しかし、そのような、ただ笑うしかない記述を含めて、この『骨の袋』は、作家ということ、書くということ、そうしたことの一切を楽しめる作品である。中身については、多く語るまい。読んでからのお楽しみの方がいい。作家のヌーナンが、突如として、妻ジョーの死に遭遇。それをきっかけにライターズ・ブロックに陥る。アイデアが生まれないとか、書く文章が気にいらないといった程度ではない。コンピュータそのものに触れない。無理やりに文章を書くと、屑かごをつかんでその中に吐いてしまう。ヌーナンは四年の間、書きためておいた作品を発表してゆくことで、窮地を脱し続ける。悪いことではない。発表された作品がいつ書かれたものであろうと、発表された時点で、それは新作なのだ。しかし、その新作のストックもなくなった。何とかして、本当の新作を書かなければ身の破滅だ。何億円も儲けているのに? いや、ヌーナンは、作家として終わりだと思い詰めている。彼の財産からすれば、いくら税金に取られても、死ぬまで飢えに苦しむことはない。いっておくが、ヌーナンは今の私と同い年。私はといえば、いつもいつも翌月の家賃を心配して身をすり減らしているというのに。いや、私のことなどどうでもいい。とにかくヌーナンは、もとの力を取り戻したいと、ジョーとの思い出がつまった別荘に出かける。そこに行けば、何とかなるのではないかと、藁をもすがる気持ちで。が、そこで待ち受けていたのは、土地に巣くった悪霊だった……。
 クライマックス、大暴風雨の中での闘いは、キングのファンなら手に汗握る、のだろうか? 私はたいして関心を抱けなかった。そんな大騒ぎよりも、とにかく作家の裏側、いや、内側か、それをもっと書いてほしい、それは前半に集中していて、悪霊との闘いに焦点が絞られていった後半は、とにかく読み続けるしかない、という思いだった。キングおよびキングのファンには怒られるだろうか?



 「自分でも偏見がまじっていることは認めるが、そのわたしの立場からいわせてもらうなら、成功をおさめた小説家----そこそこの成功をおさめた小説家もふくむ----というのは、およそ創作芸術の世界すべてにおいて最上の仕事を披露している人種だと思う。たしかに人々は本よりもCDをたくさん買っているし、たくさんの映画を見てもいるし、それ以上に(、、、)たくさんテレビを見てもいる。しかし創作の才が描く弧でいえば、小説家たちの方が長い---その理由は、文字に頼らないほかの芸術のファンにくらべ、本を読む人間のほうが高い知性をもち、そのため記憶力もすぐれているからではないだろうか。(中略)……アーサー・ヘイリーは新作を書いているし(当時そういう噂が流れており、のちに事実だったことが判明した)、トマス・ハリスはレクター博士ものの前作から七年という間隔をおきながらベストセラーを出せる。J・D・サリンジャーにいたってはもう四十年近くも音沙汰がないが、文学部の教室やコーヒーハウスでの文学雀サークルではいまだにホットな話題でありつづけている。本を読む人々は、ほかのどんな芸術ジャンルでも見つからないほどの忠誠心をいだきつづける……」(上巻P37)



 こんな文章を読んで、文学好きの人間はもちろん、何かを書こうとする人間で、共感の気持ちを抱かない者がいるだろうか? キングは文学青年だ、ほめ言葉として。文学青年などというと、いい年をした世間知らずをさす場合が多く、私などさしずめそれにあたるだろうが、キングは間違いなく、いい意味の文学青年。キングはちゃんと作品を書いて、立派な評価をかちえている。ハウツーものや人生論などで百万部、二百万部と売る人がいるが、そんなものは駄目だ。あれは文学ではない。創作ではない。文学を書いていくのだという意志表示をする者こそ、何部売れたかとか、作品が評論家に受けたかとか、そういう結果を問わず、とにかく作家である。売れなくてもいいなどといって予防線を張っているわけではない。とにかく自分の経験からいう。フリーライターでいる者は、作家ではない。
 私は長い間、フリーライターだった。ある時は東へ、ある時は西へ。とにかく腰の落ち着く時がないくらい、忙しがっていた。今はさっぱり。私に対する世間の目は、いまだにフリーライター時代と同じかもしれない。木部与巴仁? あれはライターだろう。最近は着物を着ているそうな。作家気取りか。ばかめ。何を勘違いしておる。そんな声が聞こえる。好意的な人でも、やあ木部さん、お着物ですか、まず外見から、ですよね----。これは実際にいわれたこと。恥ずかしい。それだと、中身はないということの証明ではないか。
 しかし、キングは間違いなく作家だ。彼はフリーライターではなかった。高校教師はしていたが、スーパーマーケットの店長を取材したこともなければ、ダムの工事現場を取材したこともなければ、サッカー協会の幹部を取材したこともないだろう。そんなものをする必要はないのである、作家なら。堂々としていればいい。武士は食わねど高楊枝ではないが、とにかく書きたいこと、書くべきことのために、余分な神経は使わない方がいい。それはもちろん、書くということの訓練にはなるかもしれない。締切やら、対人関係やら、原稿の分量やら、安いとしかいいようのないギャラなどのプレッシャーに向き合って、とにかく書き続けるという体験は積める。しかし、そんなもの、いい加減にしておく方がいい。プレッシャーに打ち克つことが目的ではないのだから。それにフリーライターを長く続けていると、世間がそうとしか見なくなる。そうなったら……。その先入観から抜け出すのは容易なことではない。
 ところで、実のところ、私はこれが書きたかったのだが、『骨の袋』の主人公ヌーナンは、パワーブックで原稿を書いている!
 こう書くだけで、もう笑わずにはいられない。パワーブックで原稿を書く作家を、あのキングが、主人公にするとは思わなかった。パワーブックといえば、この私に最も身近な存在のひとつではないか。身近どころか、パワーブックがなければ原稿が書けない、すなわちお金を得られないということで、なくてはならない道具。たった今も、この“たった今も”と書きつけるために、キーを叩いているもの、それがパワーブック。それを使って、この売れっ子ヌーナンが、売れもの(、、、、)を書いている? ははははは。ペンを使って書く場合、ヌーナンと私が同じ筆記用具を使うとは、絶対に考えられない。モンブランやパーカーの万年筆? ありふれた例しか出せないことで、私が万年筆を使わないことをおわかりいただけるだろう。ヌーナンはモンブランやパーカーなど使わないだろう。私もまた、使わない。そしてタイプライター? ヌーナンは、パワーブックに行きつく前はIBMのタイプライターを使っていた。そのことは『骨の袋』の中で何度も触れられている。しかし、今はパワーブック、彼はマックユーザーである。



 「当時はすでにマッキントッシュをつかっていた。このコンピュータのおよそ十億もの利用法のうち、わたしが利用していたのはひとつだけだった」(上巻・P32)



 「マッキントッシュの<パワーブック>にクロスワード・パズル作成ソフトをインストールし、自前のパズル作成に手をつけたりもした」(上巻・P43)



 「一九九八年七月三日、わたしはふたつのスーツケースと<パワーブック>を中型のシボレーのトランクに積みこみ、バックでドライブウェイを進んでいったあと、いったん車をとめて、また家にもどっていった。家はうつろで、捨てられてもその理由さえできないでいる誠実な恋人を思わせる、うら寂しげな雰囲気をたたえていた」(上巻・P85)



 「『いや、いいんだ。<パワーブック>をもってきたからね。コンピュータがつかいたくなったら、キッチンテーブルで充分デスクの代わりになるさ』いずれは(、、、、)コンピュータをつかいたくなるはずだった。クロスワード・パズルは山ほどあり、時間はあまりにもかぎられていた」(上巻・P159)



 何だろう? 機種は。私は直感的に5300シリーズを思い出してしまったのだが、何の根拠もない。私としてはおもしろいが、まさか、ね。アメリカで九五年八月から始まった5300の時代ではない。物語は九八年七月のこと。もう、パワーブックG3は発売されている。九八五月に発売されたG3/292ではないか? いや、G3ではなくて、アメリカ人だから、『インデペンデンス・デイ』で大活躍した九七年二月発売のマシン、3400c/240かもしれない。九七年五月発売の2400cは日本人だけに受けたのだから、これは違うだろう。あるいは九七年七月に発売されていた1400c/166……。止めよう。きりがない。とにかく、ヌーナンはパワーブックを使っている。そして、スティーブン・キングは、どうなのだ?

 パワーブックに行きつく前のヌーナンが、IBMのタイプライターを使っていたことは確かである。ヌーナンの二作目は『赤いシャツを着た男』というものだったが、このころの話。



 「わたしはタイプライター----あのころはまだ、旧式のIBMセレクトリックをしつこくつかいつづけていた----の前から離れると、キッチンに歩いていった」(上巻P31)



 ヌーナンは、作品が完結しそうになると、妻のジョーに最後の文章を書きつけてもらうのを習慣にしていた。



 「ジョーはリターンキーを二回つづけて押してから、キャリッジを用紙の中央にもってきて、さいごの文章の下に“完”と打った----IBMのクーリエ書体の活字ボール(いちばん気にいっている書体だった)が忠実にダンスを踊って、紙に文字を打ちだしていった」(上巻P33)



 そして、ライターズ・ブロックからの脱出を期し、家を出て山荘にたどりついたヌーナンは、久しく使われなかったタイプライターを、部屋の中に見つける。



 「その物体は灰色のビニールカバーで覆われていた。(中略)……わたしはビニールカバーを引き剥がした。その下にあったのは、わたしが昔つかっていた緑色のIBMセレクトリックだった。もう何年も目にしていなかったし、このタイプライターのことを考えたこともなかった。上体をかがめて顔を近づけたものの、じっさいに目で確かめる前から、タイプライターにセットされている活字ボールの書体がクーリエ----かつてのわたしのお気にいり----であることはわかっていた」(上巻P152)



 そしてこの後、ヌーナンはパワーブックに向うことなく、このIBMセレクトリックのキーを叩き続けてゆく。パワーブックは山荘に運ばれていったものの、活躍する機会は与えられない。ヌーナンの知らないところで、妻のジョーがIBMセレクトリックを使った形跡があり、それゆえに、そのタイプライターは部屋に置かれていた。亡き妻の助けを借りて作家としての危機を脱したいヌーナンには、パワーブックよりも、タイプライターこそ使う必要があった。あるいは、死の直前、妻の行動にはヌーナンの知らない不審があり、それを解き明かすために、少しでも妻が使っていたものに触れる必要があった。さらに考えれば、ライターズブロックによって、コンピュータに触れるのも怖いほどであれば、とりあえず、コンピュータ以外のものなら、さほどのプレッシャーを受けずにすむかも知れない、そんな希望を抱かせてくれた。さまざまなことが推理できる。
 そしてキングに話を戻せば、このIBMセレクトリックこそ、キングがかつて使っていた、あるいは現在形で使っているかもしれない、書くための道具だ。『必携スティーヴン・キング読本 恐怖の旅路』(96・文藝春秋刊)には、IBMセレクトリックに向うキングの写真が載っている。横向きのもの、背中を向けたもの。その二枚。IBMの公式サイト(http://www.ibm.co.jp/event/museum/rekishi/golfball.html)は、セレクトリックをこんなふうに紹介している。
 「かつてThink誌にIBMセレクトリック・タイプライターについて、次のような詩が掲載されたことがありました。/「静かな身のこなし、低い無線音に似た静かな声、私はそのエレメントに完全な快適さを覚える」 /ゴルフ・ボール(タイプ・ボール)を交換することにより自由に字体を変えることができるIBMセレクトリック・タイプライターは、その後のタイプライターの世界を大きく変えました。(中略)IBM セレクトリック・タイプライターの原形は、1946年にポーキプシーで開発された 「きのこ型」タイプ・ヘッドを持つ印刷装置に見ることができます。このタイプライター はその名のとおり、傘のような形をしたタイピング・エレメントを使っていました。これ はIBM会計機用の印刷装置として開発されたものでした。 その初期の製品はSTRETCHコンピューターで使用されたりしましたが、その後7年間 にわたり改良を重ねた結果、1961年にセレクトリック・タイプライターとして本格的にデビューしました。世の中がまさにこの種の製品を待ち望んでいました。 セレクトリック・タイプライターがヒット商品に育った理由としては、その印字品質が特に優れていること、信頼性が極めて高いこと、タイピング・エレメントが簡単に交換できること等があげられます」
 『必携スティーヴン・キング読本』にあるキング邸のリポート「恐怖の館」は、キングがIBMでもアップルでもない、別の会社のワープロを使っていることを伝えている。
 「特大のふたつの机の上にワング社製のワードプロセッサーとプリンターが置いてある。プリンターの横にはきちんと重ねた紙の束があって、そこには『IT----スティーヴン・キング作』と書かれている。彼の新作だ」
 このレポートは、『IT』が刊行される以前に書かれているから、作品が発表された八六年以前のこと。マッキントッシュは発売されていたが、キングの購入するところとはならなかったようだ。IBMセレクトリックを使い、ワング社のワープロも使ったことのあるキングは、現在、果たしてマック、それもパワーブックを使っているのだろうか? 彼が生み出した『骨の袋』の主人公ヌーナンのように。もちろん、キングとヌーナンは違う。作中人物がパワーブックを使っているからといって、生みの親の作家までパワーブックを使わなければならないということはない。キングがいまだにセレクトリックを使っていて、作中人物の現代性をきわだたせるためにパワーブックを使わせることだってありうる。もちろん私は、キングはパワーブック・ユーザだと思うし、自分が使っているから、その実感でヌーナンにもパワーブックを持たせていると思う。----実は以下の文章には思いこみによる書き間違いがあるのだが、まず、そのまま載せておく。



 「ここに来る前に書いた二通の手紙を原稿の箱にすべりこませると、私はフェデラルエクスプレスの営業所にむかった。どちらもコンピュータで作成した手紙だった。起動するのが簡易エディタの<メモ帳>であれば、わが肉体はコンピュータの使用を許可してくれた。肉体が大嵐に見舞われるのは、<ワード6>を起動したときだった。だからといって、<メモ帳>で小説を書こうとしたことはなかった。そんなことをすれば、その選択肢を自分からつぷすだけだということがわかっていたからだし……いうまでもなく、コンピュータを相手にスクラブルをしたり、クロスワード・パズルを作成することも不可能になるとわかっていたからでもある。二回ばかり手書きで書こうとしてもみたが、これは世にもみじめな失敗におわった」(上巻・P54)
 マックに添付されている簡易エディタは、SimpleTextである。<メモ帳>は、ウィンドウズのエディタ。<ワード6>というのは知らないが、あまりマッキントッシュらしくない名前である。こちらは簡易エディタではなく、高機能のワープロソフトなのだろう。いずれにせよ、キングはヌーナンに、パワーブックを使わせながら、<メモ帳>を使わせている。まさかとは思いながら原書にもあたったが、間違いなく、<メモ帳>は<Note Pad>と記されていた。非常に悩ましい話だ。別にキングはアップル社やパワーブックのために小説を書いているのではないし、エディタの名前が何であってもいいのだが、よりによって<メモ帳>とは……。私は本当に悩んでいるのだ。相手がキングであり、ことが書くことにかかわる問題だけに、そんなことどうでもいい、作品の質には何の関係もないと思いつつ、忘れてしまうことができないのである。誰か答えを知っていたら、教えてほしい。キングはマック・ユーザーなのか。パワーブックを使っているのか。どうして<メモ帳>などと書いたのか。もしかしたら、パワーブックは使っているが、ウィンドウズ・マシンも使っているのか。ああ……、すべてが謎だ。



 指摘していただいたのは、西宮に住むT氏である。T氏は、ヌーナンが使ったであろうパワーブックの機種についても推理をめぐらせているのだが、これはひとまず措く。九四年に発売された540cか、それ以前の機種とするT氏の推理は正しいと思われるが、はっきりした答えは出ない。これについて記す必要が生じれば、いずれはこの場で紹介しよう。その前に書いておかなければならないのは、私の明らかな間違いについて。
 まず、メモ帳というのは、マッキントッシュに付属している「メモ帳」、「NotePad」のことである。「ウィンドウズのエディタ」ではなかった。メモ帳の存在については知っていたし、起動させたこともあるのだが、まともに使ったことがない。まとまった文章を書こうという気にさせない、名前どおりのメモ帳だからだ。私はメモを取る場合、最低でもエディタを使いたい。マックならSimpleText。しかしキングは、ヌーナンにメモ帳を使わせている。
 そしてワード6。これは、マイクロソフト社によるワープロソフトのマック版である。「あまりにマッキントッシュらしくない名前である」という点は間違っていなかった。「Macworld Jpana」誌の九六年二月号特別付録「伝説の男 ガイ川崎のコラム集」の″マイクロソフトを弁護する″という皮肉をきかせた回に、こんな部分がある。「Word6。あんな製品を出すメーカーに、『死』以外の運命はあるでしょうか?」。ヌーナンは、特にそう思っていなかったようである。
 そのようなメモ帳やワード6を執筆の道具に使う事実から、ヌーナンという作家が、道具にこだわる人物でなかったことが想像できる。無頓着というより、中身こそが問題と考える作家なのであろう。キングはおそらく、そのことを意識している。そしてメモ帳やワード6を使う作家として、ヌーナンの背後にキング自身の姿が浮かんで見える。私自身、そのような姿勢に異論はない。そのとおりだと思うからだ。シンプルな結論だが、キーを叩ければそれでいい。
 ただ、この原稿に限っていえば、私は「メモ帳」と「ワード6」のあり方に、もう少し、想像をめぐらせるべきだった。インターネットの検索エンジンを二、三使ってみたのだが、使い方が浅かった。T氏に感謝しつつ、反省している。





『ナイトシフト』カバー

『深夜勤務』『トウモロコシ畑の子供たち』
短編集「ナイトシフト」は、日本では2冊に分けて刊行された



 「ナイトシフト」1、2として扶桑社より刊行された、『深夜勤務』『トウモロコシ畑の子供たち』(高畠文夫訳)。そのジョン・D・マクドナルドによる「紹介のことば」を一部、写経のつもりで引いてみる。

 スティーヴン・キングはずっと作家になりたくて、いま作家として物を書いている。
 『キャリー』を書き、『呪われた町』を書き、『シャイニング』を書いた。本書に収められた、すぐれた短篇も書いている。そのほかにも、未完成の作品を含めて、小説や詩、エッセイ、ジャンル分けできそうもない作品などたくさんあるが、そのほとんどは出来がよくないこともあって、出版されていない。
 これが作家というものなのだ。何があっても、書く以外に方法はない。
 作家になるには、自らを鞭(むち)打ってひたすら書くことが条件なんもである。だが、それだけでは十分ではない。言葉を選ばなくてはいけない。それも、貪欲(どんよく)なくらいに。言葉の海に埋まるというくらいの気構えが大切だ。それに、他人の書いたものもたくさん読まなくてはならない。
 すばらしい作品に身を焦がすほどの嫉妬(しっと)を覚えたり、逆に腹立たしいほどの軽蔑(けいべつ)の念を抱いたりしながら、あらゆるものを片ぱしから読んでいくのだ。
 もう一つは、自分自身をよく知るということである。他人というものがわかってくるほど十分に。人間の特性というものは、あらゆる人びとに共通のものだからだ。
 ここまではいいかな。では、その次。ひたすら勤勉に書き続けること。プラス、言葉に愛着を持つこと。プラス、作品に感情移入をすること。こうしたしんどい作業の中から、何かしらの客観性といったものが生まれてくる。
 …………

 すばらしい。たとえ異論があろうとも、このような、書くという行為の本質にかかわるような紹介文を書いてもらえるキングという、当時の若手作家は何と幸せなのだ。

『ザ・スタンド』上下巻

スティーヴン・キング最高傑作といわれる『ザ・スタンド』の日本語版上下巻




My Macintosh 目次へ


mail to : kibe@kibegraphy.com