「3400cを普通に使う会」タイトル

第8週:01年2月28日〜3月6日


積み上げられた2400cの函 2月28日
 ついに2400cの完動品を入手することになった。思いが高じて、ということになろう。Yahoo!オークションで競り落としたのである。2400cを動かす会がとった手段は、何のことはない、動く2400cを買うということだったわけ。これなら誰にでもできる。資金を得るのに頭を使っただけだ。それでもたいした手段ではない。これで借財を背負うことになったが、仕方がない。かまわない。そんなこと、別にいいではないか。私はこれから先も、PowerBookのことを考えていかねばならない。
 ただ問題は、起動不能の2400cをどうするかということ。パーツ取りにするのは惜しい。一度は起動して働いてくれる姿を見たいのである。いまだ故障箇所が明らかにならないが、手許に置いている限り、何とかできる日が来るかもしれない。とにかく、手放しては駄目である。
 PowerBookArmyのメーリングリストに、2400cと心中するしかない会の、新宿の父@小林氏からの情報が載る。2400cのバッテリーをリフレッシュすることができるかもしれないという。費用がどのくらいかかるのかわからないので不安だが、私にも払える額なら、ぜひこの機会を利用したい。それができなくてもACアダプタで使うからいいのだが。
 夜、2400cをオークションに出品したN氏と連絡を取り合い、明日、四ッ谷駅のホームで落ち合い、受け渡しすることにした。N氏は船橋の在住で、勤め先が東京の武蔵野だという。だから中央線で四ッ谷駅を通過する。N氏は出勤前の9時ではどうかといってくれたが、あいにく私が9時から始まる取材を抱えていて、それは不可能。無理をいって、夕方の取材が始まる前、N氏が社用で移動する途中の2時半に、やはり四ッ谷駅で会うことになった。それにしてもN氏は良心的で、支払いは動作確認後でいいという。マシンを預かって使い、それで問題なければ支払う。函も揃っているのだが、それは日を改めていただくことにした。

3月1日
 午後2時過ぎ、四ッ谷駅で2400c/180を受け取る。さっそく取材先の吉祥寺に出向いて喫茶店で動作確認。この原稿のこの部分は、そのためもあって書いている。N氏がOS8.0を入れてくれていたので、すぐに原稿を書くことができた。それにしても、雨が降っているので移動に神経を使う。そのわりには鞄を用意していない。間が抜けている。札幌の凍った地面に足をとられ、150を落下させて破損させた過去が頭をよぎる。念には念を入れて歩く。150にしても、鞄に入れていたのに落としたわけである。鞄に入れずに落としたことはない。むき出しでも気をつければ平気だろう。
 どうでもいいことかもしれないが、ディスプレイ下のネームは、ただ「PowerBook2400c」と記されているだけ。「2400c/180」とも「2400c/240」でもない。つまり、これは初期の出荷品である。
 さて、2400cのキーの叩き心地だ。全体を小作りにしているせいで、確かにキーは小さい。今ごろいっているのだが……。打ち損ないはあるものの、慣れれば問題なかろう。私の意図は、もったいないかもしれないが、この2400cを自在ワープロにすることである。処理速度や通信機能などでは、2400cを上回る能力のマシンをすでに持っている。2400cは、持ち運び自在のワープロになってくれれば、それが最善だ。私としては、最近明らかな、G3/333を持ち運ぶことで自覚するような肉体的苦痛。腰、膝関節、膝関節の痛み、そうしたことを解消したい。マックを持って外出せずにすむならいいが、どうしても、持って出なければならない場合があろう。そのような時、2400cには活躍してもらいたい。昨日得た、バッテリーのリフレッシュ情報も、そのためにぜひ生かしたいのである。
 それにしても、念願の、というか気にかかり続けていた2400cが、ついに手に入った。発売は1997年の12月だから、最も早く買った人にくらべて3年と数か月の遅れになる。遅すぎたユーザーである。しかし、私はこの間ずっと、2400cのことを思い続けていた。その思いがかなったわけだ。これもまたよし。
 ……それにしても、この原稿を書き始めるために起動させてからおよそ50分が経過したが、電池はまだ切れない。モニタの表示をモノクロにして、節電能力を優先にして、輝度を落として。そのようにしても原稿書きに支障はきたさない。これもまた、ありがたいことである。

3月2日
 気になっていることがある。この会はもともと「3400cを普通に使う会」であるということ。「2400cを動かす会」ではない。それが今や、軒を貸して母屋を取られた状態。昨日まではいい。3400cのよさを知るためにも2400cを手に入れる必要があった。さらに今日まではいい。2400cの起動不能品を友人からいただき、2400cの完動品をオークションで競り落とし、その2つをもとに、2400cユーザーとして、私もスタートすることができた。昨夜から今朝にかけて、この2台、何度分解され、何度組み立てられたことであろう。分解など素人には無理、あるいは手を出さない方がいいとされている2400c。初めは恐々。しかし、最後はもう大胆に、ねじを締め忘れたといってはばらし、組み立ての順を間違えたといってはばらしで、馴れというのは怖いと同時に爽快でもある、あの2400cをばらばらにした。その過程で、いくつかのことがわかった。
 起動不能品のトラブルのもと。それはロジックボードでもCPUでもなく、電源部分ではないかということ。起動不能品は、バッテリ充電がまったくできないのだ。もちろん、これだけで電源部分の故障とは断定できないだろうが。また、2台を比べた結果、オークションで落札したものは、内部のねじがいくつか見当たらなかった。2400cが抱えるトラブルとして、ねじの脱落が報告されていたように記憶するが、ないねじというのは2箇所。あってほしくないトラブルである。さらに、起動不能品は、起動できないだけでなく、クリックボタンもきいていない。これも2400cにしばしばあるトラブルだったはず。前の持ち主はマウスを使っていたのだろうか。
 いずれにせよ、1台の2400cは完全なマシンとして動いている。その結果、いつまでも2400cを動かす会を、ここに同居させておくわけにはいかないという気持ちが強くなった。本日いっぱいをもって、2つの会は完全に切り離す。動かす会はこれで終わってしまうかもしれない。あるいは別の名称を与えられて続いてゆくかもしれない。果たしてどうなるか。決めようと思っている。

3月3日
 あきれるしかない話である。2400cを墜落させてしまった。結論からいってしまうと、奇跡的に無事。無傷。しかし、落としたことは確か。諌めのために、そのことを書いておく。
 2つになった2400cの函を家に置いておくわけにはいかないので、仕事場に運んだ。鞄に入れた2400cと、増えすぎた本も一緒に、である。かさばる荷物と疲れた体を運ばなければならないので、タクシーを利用した。常套手段である。いつもと違ったのは、疲れから寝てしまったこと。途中、タクシーが道を間違えていたので指摘した。これで寝起き同然の状態になった。全身に力が入っていない。早稲田に到着し、車内で2400cの函を持ち上げたら、勢いがつきすぎたのか、2つの函を縛った紐が切れてしまった。ここで慎重に結び直せばよかったのである。しかし交差点角に停まっていたために焦り、強引にすべての荷物を抱えた。2400cが入った鞄は、函と体ではさんだ。力の入らない体を数歩運んだところで、力を入れすぎて抱えたため、まるであふれ出るように、函と鞄が前方に飛び出したのだ。始めから終わりまで覚えているが、2400cが入った鞄は、私の胸元から宙に舞い、一回転してアスファルトの地面に落ちた。落ちた瞬間、カッツーン! という音がした。
 蒼くならないわけがない。あの音からして、2400cの角が当たったに違いなかった。鞄に入れてはいるが、緩衝材など詰めていないのである。液晶はやられてしまっただろう。荷物を抱え直して仕事場に直行。足腰はまだふらついている。ショックのためもあったろうか。机に乗せてすぐさま起動させると、これはどうしたこと、何ともなっていないではないか。安心するより先に驚いてしまった。鞄を見直すと、ポケットに入れてあった雑誌、「WORED」の角がへこんでいる。地面に直撃したのは、この「WIRED」であったらしい。雑誌がクッションになって、2400cを救ってくれたのか。「WIRED」にしても分厚いわけではない。しかし、この場合はそうとしか考えられない。この「WIRED」、2400c同様にYahoo!オークションで落札したものである。皺ひとつない美品であった。初めての傷が、2400cを救ったことで生じた、角のへこみなのである。……今でも信じられない思いだ。これを奇跡といわずに何を奇跡といおう。2400cを買って調子に乗っている私を、誰かが諌めてくれたのか。そういえば、190csを買い戻した日の夜にも、G3/333を落としている。これもまた何ともなかったのだが、何かあっても文句はいえない。この時も、天の諌めと思ったのだが。それにしても、つくづく愚か。買ったばかりの2400cを駄目にしては、泣くに泣けない。起動不能品の液晶と取り換えればいいとは、口が裂けてもいえないのである。

2400cを救ったWIRED誌
3月4日
 パーソナルコンピュータの歴史を語る上で欠かせない人物、アラン・ケイ。スティーブ・ジョブズらに、マッキントッシュを生みだす大きなヒントを与えたゼロックス社の試作コンピュータ、Altoの開発を推進した人物だ。T社のノート型パソコンに「ダイナブック」があるが、こんなものはただの製品名。名前がすぐれているだけに、それを製品名にしたT社は情けない。それに見合うマシンが作れなければ、名前負けするに決まっている。T社などとあいまいなこといっても仕方ない。わかっている。つまり、東芝。いい加減、名前を天に返して優秀なワープロの開発を再開すればいい。とにかく、理念としてのダイナブックを世に問うたのがアラン・ケイ。彼の論文を日本でまとめたのが、アスキー出版局の『アラン・ケイ』(鶴岡雄二訳・92刊)だ。それに収められた「パーソナル・ダイナミック・メディア」という論文の一部を引用しよう。
「形も大きさもノートと同じポータブルな入れ物に収まる、独立式の情報操作機械があるとしよう。この機械は人間の視覚、聴覚にまさる機能をもち、何千ページもの参考資料、詩、手紙、レシピ、記録、絵、アニメーション、楽譜、音の波形、動的なシミュレーションなどをはじめ、記憶させ、変更したいものすべてを収め、あとでとり出せる能力があるものと仮定する。/われわれは、可能なかぎり小さく、もち運び可能で、人間の感覚機能に迫る量の情報を出し入れできる装置を考えている」
 これがアラン・ケイの理想とするダイナブックである。それにしても引用部分の最後、「可能なかぎり小さく、もち運び可能で」を読むと、自嘲気味に笑ってしまう。その対極は「可能なかぎり大きく、もち運び不可能」。それこそ3400cではないか。当然、「人間の感覚機能に迫る量の情報」など、出し入れするレベルには至っていない。人間の感覚機能の量など、計り知れるものではないのである。もちろん、「可能なかぎり」という但し書きに救われている。どんなに大きくても持ち運びできなくても感覚機能の量が少なくても、ある時点で可能な限りという点で、3400cもまた、暫定的ダイナブックであるといえるだろう。

3月5日
「わたしが“メディア”という場合、とくにコンピュータのことを指しています。コンピュータは道具ではありません。道具というのは、コンピュータの性格づけとしてはあまりにも不充分です。コンピュータの場合、道具というのは、それをさまざまなレバーや梃子(てこ)に変換するプログラムのことなのです。コンピュータそのものは、紙のようなメディア----とてつもなく自由自在で、コンピュータの発明者が理解することもできなければ、そうする必要もないほどさまざまなかたちで利用され、人々の世界観を根本的に買えるものなのです」
 引き続いて、論文集『アラン・ケイ』を見よう。冒頭に引用したのは、講演「教育技術における学習と教育の対立」の一部だ。3400cを普通に使う会として、読み替えてみよう。「……3400cは道具ではありません……3400cは、紙のようなメディア----とてつもなく自由自在で、3400cの発明者が理解することもできなければ、そうする必要もないほどさまざまなかたちで利用され、人々の世界観を根本的に買えるものなのです」。しかし3400cは、それを使う者を不自由にする。紙のようなメディアであるとはとうてい思えない。前に登場した白石富男氏ではないが、まさに漬物石だ。これで体を鍛えてもいいが、鍛える前に体が壊れる。さまざまな形で利用できることは間違いないものの、世界観は根本的に変わらない。ああ、やはりコンピュータを使うのも体力仕事なのだなという事実、それを思い知るだけ。
「わたしは、ボール紙でダイナブックの外観を示す模型をつくり、どのような機能をもたせるべきかを検討しはじめた。このときにわたしが思いついた比喩のひとつは、15世紀の中葉以降に発展していった、印刷物の読み書きの能力(リタラシー)の歴史と、コンピュータの類似(アナロジー)だった。1968年に、同時に三つの画期的な技術に出会ったせいで、わたしは、ヴェニスの印刷業者、アルダス・マヌティウスのことを思い浮かべずにはいられなかった。はじめて書物を現在と同じサイズに定めたのは、このマヌティウスだった。このサイズなら、15世紀末のヴェニスの鞍袋にぴったり収まるから!」
『アラン・ケイ』のために、自ら書き下ろした原稿「あのころはどんな時代だったのだろうか?」の一部である。3400cは、確かに鞍袋に収まる。重ささえ気にしなければ。書物と同じサイズではあるのだ。百科事典なら、同じ程度の重さがあるだろう。しかし、百科事典を一日持ち歩こうと考える人がいるだろうか。百科事典は、研究室なり書斎なりに置いてあって、その場で取り出し、読むものだ。3400cは、おそらく百科事典一冊分の重さがある。十数巻、二十数巻ある百科事典のすべてを、3400cは記憶することができる。だからいいではないかといえるだろう。しかし、重い。この重さこそが、3400cのネックである。処理能力で指摘すべき点はいくらでもあるだろうが、とにかく重さ。普通に使うためには、この重さこそ、3400cの弱点である。

3月6日
 3400cの重さを補えるのは、3400cではない。2400cである。2400cは軽い。処理能力においては、180MHzマシンは3400cの200MHZマシンに迫り、240MHzマシンは3400cの240MHzマシンに匹敵する。つまり、両者は同等。3400cにあって2400cにないもの、2400cにあって3400cにないもの。それを認め合い、両方を使い分けていけばいい。つまり、単独ではどちらも完璧ではない。補い合いあって初めて一人前になれるマシンなのだ。……ということが、やっとわかってきた。であるなら、マシンの名前は3400cでも2400cでもない。5800cである。何となく、前身の5300に似ている。なるほど、3400cも2400cも5300シリーズから派生したものだから、こじつけとはいえない。しかし、5800は重量級だ。3400cと2400cを足した5kg台半ばの重量に堪えなければならない。それでも、PowerBookの前身であるPortableよりは軽いのだから、非常識ではない。前例はある。
 もう一度、うなずかせてほしい。私が所有しているマシン。G3/333に次ぐ位置のサブマシンは、5800c。重すぎる事実だ。
 「……1968年に三つの驚くべきことを知り、そのために、わたしのコンピュータに対する見方は根底から変わってしまうことになる。最初のものは、ドットを映し出す一平方インチの小さなガラス板----最初の平面ディスプレイである。将来、シリコンがとてつもない割合で縮んでいくのはわかっていたが、コンピュータの他の部分も、同じようになっていく可能性のあることが、これでわかった。わたしの計算では、1980年ごろには、あるいはもっと早い時点で、FLEXマシンのシリコンを、そうした小型ディスプレイの裏側に収められるようになるだろうと思われた。第二のものは、子どもたちを対象にした、シーモア・パパートのLOGOの研究だった。もはや、コンピュータが専門家の独占物である時代は終わったのだった。設計さえ適切なら、コンピュータはだれにでも使えるものになるはずだ! そして、最初のすぐれた手書き文字認識システム、GRAILに出会い、すべての要素がそろった。コンピュータの利用は、鉛筆や紙や本を使うのと、同じようにならなければならない。コンピュータは、電話やネットワークとむすびついて、消費者向け製品のかたちになり、あらゆる人々が手に入れられるようにならなければならない----ダイナブックだ!」
 アラン・ケイの「あのころはどんな時代だったのだろうか?」、その一部である。すばらしい。5800cは「鉛筆や紙や本を使うのと、同じように」誰でも使える。重ささえ気にしなければ。5800cは「電話やネットワークとむすびついて、消費者向け製品のかたちになり、あらゆる人々が手に入れられる」。腰を痛めることを厭わなければ。私のダイナブックは重い。しかし、それが現実である。人は誰でも、現実から出発しなければならない。
 まず、「PB3400cを普通に使う会」がある。後にその分室「PB2400cを動かす会」が生まれた。そして今日、統括空間として「PB5800cの会」が自然発生したのである。


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