「3400cを普通に使う会」タイトル

第6週:01年2月14日〜20日


3400cが「MacFan」初登場 2月14日
 淡々と書くが、人はコンピュータを得たことで、豊かになったのだろうか。金銭的には貧しくなったはずだ。高すぎる----。それはともかく、新登場のPowerBook G4や、間もなく発売になるOS Xをめぐる掲示板の発言など読んでいると、豊かな心が感じられない。あるいは、フリーマーケットの売買、オークションでの競売をめぐる発言。これもひじょうに貧しい。それは私を含めていっている。私がそうしたところで発言し、人々の顰蹙を買い、自分の貧しさを痛感したというのではない。私は私で、電車の中の人の態度や、他人が私に向けてとったふとした態度に怒る、あるいは心を乱される、そのような自分を貧しいと思う。いわんや、コンピューをめぐる諸々の状況で、自分を貧しいとは始終感じていること。いったい何を焦っているのか。新発売のマシンが期待したものでなかったということで頭に来る。注文したのになかなか手に入らないということで頭に来る。新しいOSが、どうやら使い物になりそうにないということで頭に来る。みんな豊かになろうということで、コンピュータ、とりわけパーソナルコンピュータは生み出されたはず。それなのに、ああでもないこうでもない、こんなものではない、いやこれでいいと、喧々諤々の議論。発展的議論というより、匿名性をいいことにした罵り合いが多すぎる。電話回線を常時接続にして、絶えずメールチェック? そんなもの、どうしてする必要があるのか。1日1回確認するくらいでじゅうぶんにしたいもの。常時接続が可能になると、常時メールチェックをしないではいられなくなるというあさましさ。そんなに大事なメールばかり来るはずがない。生活に余裕をもたせるはずのコンピュータが、逆に余裕を奪ってしまっている。
 Yahoo!オークションで私が40,000円の値をつけた3400c/240は、案の定、より高額の値を提示してきた人が現われた。15日の午後8時過ぎにオークション終了である。ジャンクと書かれているが、常識的に考えて50,000円くらいにはなるであろう。そうなると、今の私は躊躇せざるをえない。おそらく、これは無理である。そうした状況が、人はコンピュータによって豊かになったかという命題の一方にある。オークションに血眼になる。それほど熱を入れることなのか? PowerBook G4? 私のテーマは、3400cを普通に使うことではないのか? 普通に使って豊かになれれば、それがいちばんいいのではないか? もう一度、頭を冷やして考えてみよう。粉雪が舞う夜の道で、そんなことを考えた。

2月15日
 3400cの記事が初めて載った「MacFan」が出てきた。1997年3月15日号である。急に差しこまれた原稿なのだろう、表紙には目立つように「PowerBook3400登場!」と印刷されているが、中の記事はいたって地味である。字数も460字程度しかない。よほど急ぎの発表だったのだろう。たかだか4年前なのに、ずいぶん古い話に思われる。今やマックユーザーの間でかわされている話題は、PowerBookG4。当然であろう。人は生きている。生きているのは現在である。現在のことを話題にせず、過去のこと、未来のことばかり話題にするのは、現在を生きる人としてゆがんでいる。しかし、いま使っているものならば問題に、あるいは話題にしていいのでは? その意味で、初めての記事が出てから4年が経った3400cのことを語る、普通に使う会のようなものがあっていい。
 Yahoo!オークションで落札した、3400c/240の箱が届いた。表面の傷みはあるものの、とにかく買ったものが届いたのである。それも、わざわざ山形県から。このこと自体に安心する。

3400の古い函

2月16日
 コンピュータを得たことで人は豊かになったか? 例えば個人的な話をするなら、3400cを使うことで、私は豊かになったか? とりあえずいえることは、使おうとすることで、豊かな気持ちを得られた。本当の豊かさはその先にあるかないかで判断されるとわかっていながら、しかし、空しくはない。ただ机の上に、閉じられたままでいる3400cを見るだけなのは辛い。常に傍らに置いて、たとえ起動させなくても、いつでも使えると思うことが親近感を増幅させる。
 実際に仕事に使っているのはG3/333。3400cはメインではない。それでも、見捨てずに3400cを使おうとする態度が、自己満足ではなく、3400cを見直す結果につながった。今にして思えば、1月10日、どうして「3400cを普通に使う会」を結成しようと思ったのであったか。150の苺丸同好会や、DuoシリーズのDuoZone、2400cの極私的PB2400c頁などはあるのに、どうして3400cにはそれがないのか、こんなに、というより発売時は誰が見ても最高性能機であったにもかかわらず。自分の使っているものが注目されないで、心安らかな人がいるだろうか。
 Yahoo!オークションでは、何度か3400cに入札するか、しようとして、落札できずに終わっている。結局は、1500円の函しか得ていない。実際面では、何の役にも立っていない。それでも、手を変え品を変えて3400cに接していたい私にとって、傷んだ函であっても、それが3400cのものである限りは豊かになる。実際面ではなく、気持ちの豊かさ? いや、それは大切だろう。ただし、とりあえずは、といっておく。使えなければ意味がないのも、コンピュータの宿命だから。

2月17日
 テッド・ネルソンの著作『ホーム・コンピュータ革命』届く。Yahoo!オークションで落札し、出品者である沖縄在住のT氏が送ってくれたのである。これは77年の刊行物。すでに多くの人が読んでいることだろう。それを今ごろ、私は読む。処女作『ComputerLib』で知られるテッド・ネルソンはハイパーテキストやハイパーメディアの提唱者であり、それが発展して今日のWorld WIde Webが生まれたとされる。私の新たなテーマ、“コンピュータは人を豊かにしているのか”に欠かせない文献だ。テッド・ネルソンは科学者というより思想家か。いや、科学は思想の裏づけなくしてあってはいけないもの。核爆弾を生み、汚染物質を生み、遺伝子を平気で操作してしまうのが科学。現象だけ見ると、科学は人を豊かにしていない。もう一度確認する。普通に使う会にとって、3400cは私を豊かにしてくれるのか? あるいは3400cを使うことで私は豊かになれるのか? これを考えなければならない。
 アップルからOS9.1のCD-ROMが送られてきた。さっそくG3/333にインストールしたが、TAのドライバが9.1に対応しておらず、TAとの接続が不能となって慌てた。サイトから新バージョンをダウンロードしてインストールし、問題は解決。豊かになるためにはさまざまな試行錯誤を経なければならない。しかし、3400cへのインストールは行うべきか否か。G3/333はメインマシンだから最新のOSにしたが、3400cは9.0のままでいいのでは? いや、考えが逆だろうか。メインマシンだから安全策をとり、安定している9.0のままにしておくべきだったか。もうトラブルは発生し、それを解決したのだが、多少なりとも危険性をともなう9.1へのバージョンアップは、慎重に行うべきだったかもしれない。サブマシンだからこそ、リスクをともなうことをしてもいいのかもしれない。かわいい子にこそ旅はさせるべき、か?

2月18日
 結局、今日の時点で3400cのバージョンアップは控えた。かわいい子をそっとしておいてしまったことになる。
 さて、すでに書いたと思うが、私はかつて、3400cを持っているということを、積極的に口外できなかった。経済的な理由がそうさせたのだが、私のマシンには、そういったものが多い。PowerBookなら150、190cs。デスクトップマシンなら、Performa630。今は状況が変わっているが、ここに並べた3種類は、それが新製品として売られた当時は、一段低く見られていたのである。一方にスタイリッシュな500シリーズがあって、一世代前の外観をした150。一方にPowerPCを搭載した5300シリーズがあって、68Kの190cs。やはり一方にPowerPC搭載のデスクトップマシンがあって、68Kで、しかも、今でいうコンシューマ向け、さまざまなソフトがバンドルされたPerforma630。すべて学生向け、初心者向けといえるものである。3400cの場合は逆で、あまりに高機能すぎて大きく重くなりすぎ、それゆえに人気がない。日本での評価は機能を削減して小さく軽くまとめた2400cに集まった。そのために、いいものを持っているにもかかわらず、それが負い目になるという皮肉な状況が生まれた。150、190cs、Performa630、そして3400c。それぞれのマシンには何の責任もない。責任はすべて、持ち主の私にある。他人の評価、世間の声だけを気にして、自分が基準になってない。自分が基準であれば、どんな古ぼけたマシンであれ、それは自慢の種になるはずだ。すでに3400cは古く、ただ重いだけのマシンになってしまったが、基準は今や私自身の中にある。古いマシン? けっこう。重いだけ? けっこう。G3以降の世代ではない? けっこう。そういうあなたは、自分のマシンの性能に見合っただけの仕事をしているのだろうか。私は3400cで、まだ満足のゆく仕事をできていない。それができるまでは、けっして3400cをお払い箱にはしないつもりだ。
 ----3400cのOSバージョンアップ作業については、まだ先がある。G3/333を9.1にした後、マシンの調子がいささか不安定である。バージョンアップのせいなのか、そうでなくても不安定なのか、少し見極めたい。それから3400cへのインストールに取りかかるつもりだ。

2月19日
 PB2400cと心中するしかない会というものがある。POWERBOOK ARMYのNEWSで知ったのだが、「新宿の父@小林」さんという方が運営しておられる。2400cを買い替えたいと思っていても、その後継機となるべきマシンが出ない以上、2400cと心中するしかない、という主旨である。当然、心中を望んでいるのではなく、心中しなくてすめばそれが望ましいのである。しかし、事態は心中を強いているとしか思われない。それゆえの、心中するしかない、会。さらに追いうちがかかり、アップルは2000年12月18日で、クイックガレージにおけるPowerBookの対面修理サービスを廃止してしまった。ユーザーは、果たしてどのくらいで戻してくれるのかという不安を抱えつつ、販売店経由でアップルサービスセンターにマシンを送るしかない。対面修理なら、数十分から、長くても数時間で直る。故障したマシンを持参すれば、帰り道には元に戻ったマシンを抱えているのである。そのサービスが、中止。「新宿の父@小林」さんは、この処置に憤りを感じ、署名を集めてアップルジャパンの本社に持参した。当然ながら芳しい答えは帰ってこない。
 私もクイックガレージにはお世話になった。3400cをクイックガレージに持参する事態に陥ったことは幸い一度もないが、主に190csの修理に、何度か秋葉原の営業所に持ちこんだ。ただ残念ながら、クイックガレージに持ちこみ始めてから間をおかず、190csそのものが駄目になり、私はマシンそのものを手放してしまった。今から思えば、マシンそのものが駄目になるなどということはない、秋葉原でパーツを買い込んで直せばよかったと後悔している。その思いが高じて、つい先日、190csを2台買うことになった。それはともかく、クイックガレージは私も頼りになった。修理をしてくれた人のあざやかな手際に、惚れた(、、、)こともある。しかし、そのような人間味はカットされ、残されたのは、どこでどうなっているのかわからない、ブラックボックスでの修理のみ。寂しいことであるし、「新宿の父@小林」さんのように、憤ろしいことである。PB2400cを買う会の人間として、私も対面修理復活を求める要望書に、名を記そうと思っている。

2月20日
 InternetCafe TROTの仮店舗を開いた。これで私もカフェのオーナーである。ただし、実際のカフェではない。仮想空間におけるカフェ、平たくいえば、カフェと称するサイト。詳しくはTROTの店内を直接ご覧になっていただきたい。もっとも、現実には存在しないといっても、人に見てもらうだけのものを作るには、どんなに簡単であっても手間ひまがかかる。TROTにアクセスしてもらえば、何がしかの見るものがある。それなりの現実は存在させなければならないのである。
 喫茶店で原稿を書くのが好きな私にとって、カフェを開く、カフェを運営するというのは、長い間の潜在的願望であった。客として喫茶店に足を運んだ場合、極端にいえば他に客はいらない。私一人がいればいい。私は喫茶店で仕事をしたい。原稿を書きたい。考えをめぐらせたい。ばかばかしい考えだが、電池の消耗を心配しなくていい、自由に使えるコンセントがひとつあればいうことはない。そのための電気代を喫茶代に加えてもらってもかまわない。
 3400cを喫茶店に持ってゆく。注文を終えるやいなや、私は蓋を開いてパワーオンキーを押す。起動音はうるさいから消してある。3400cはカリカリという音をたてながら、仕事を始める態勢を整えてゆく。その、手持ちぶさたともいえる時間が、私のいらいらをつのらせる。焦燥感は原稿を書くために必要なエネルギーに転化される。YooEDITでもEGWORDでもTex-Edit Plusでも何でもいい。原稿を書くためのソフトをアプリケーションを起動させて、私は3400cのキーを叩く。店の中に飛び散ってゆくのは、カチャカチャという打撃音。これで他の客がいればうるさいに決まっている。しかし誰もいなければ……。私は思う存分、3400cのキーを叩ける。1時間も経てば、私は店のマスターの機嫌に配慮して、追加のコーヒーを頼む。そのくらいの想像力は私にもある。
 以下はあえて実名を記す。かつて、小田急線生田駅に近いコロラドという喫茶店に、3400cを持って入った時のこと。時間は昼に近く、食事目当ての人がおおぜい来るのを予想した私は、空いていたカウンター席の端に場所を取った。およそ一時間後に始まる取材の予習をしておくつもりである。初めにコーヒーを一杯頼んだが、しばらくしたら食事も頼むつもりであった。気をつかっただけでなく、そうしないと腹が減る。「荷物は後ろの棚に置いてください」。これはマスターの言葉。私は後で資料を取り出したかったので、荷物の鞄は足下に置いた。それも、私の足の甲に乗せたのだ。「いや、いいですよ」と、私。私は目の前に、B4サイズ大の資料を広げて予習にかかった。私が占めた面積は、あくまで一人分である。3400cなど出してもいないし、出すつもりもなかった。その時のカウンターに座っていたのは、私の対極にいて、マスターの奥方であろう女性と話をしていた女性客だけ。店内はがらがらである。やがて、女性がコーヒーを運んできた。そしてひと言。「そういうことは止めてくださいね」。あっけにとられるしかなかった。そういうこと? そんなふうにいわれるほどのことなど、私は少しもしていない。マスターを見ると、うつむいてにやにや笑っている。いったい私が何をしたというのか。これから昼になる。店は混む。仕事などされてはたまったものではない。おまけにコーヒー一杯で。冗談ではない。それらすべてを見越して、私はカウンターに座ったのであり、荷物は足の甲に乗せたのであり、資料を読むといっても一人分の場所でしているだけであり、後になったら食事を頼むつもりであり……。しかし、遅かった。私は出されたコーヒーにまったく口をつけず、ただちに店を出た。その時の怒りは、5年が経つ今も、まったくおさまっていない。こうして再現しているだけで、私は怒りに燃えてくる。3400cは何もしなかった。私も何もしなかった。いや、何もできなかった。生田駅近くのコロラドである。これから先も、私は店の名を記し続けるであろう。喫茶店とは、実に愛憎相半ばする空間なのだ。

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